1、誘拐後
走る、とにかく走る。夜闇で殆どの視界を奪われた森の中をとにかく走る。それも人を背負いながら。いくら少女とはいえ一人の人間、軽い部類とはいえ普段持ち歩くような荷物と比べれば明らかに重く、持ちにくい。息もだいぶ切れてきた。面倒だからこの背中のお荷物をそこら辺に投げ捨ててしまおうか、きっと茂みの上とかならケガもしないだろう。と良からぬ考えが頭をよぎったが、背部にいるクライアントが提示した報酬を思い出し即座にその考えの方を投げ捨てる。
しばらく走り続けながら周りの気配を探り、追手の類が来ていないことが確認出来ると同時にペースを落とし、足を止める。そこで背負われているだけの少女の緊張がようやく解けたのか、がっちりと自分の肩を掴んでいた華奢な手の力がようやく抜けたと同時に安堵したかのように吐息を少しだけ漏らす。本当、背負われているだけでいいご身分ですね。と煽り文句の一つでも言いたくなるのを堪えつつ、
「ここら辺まで来ればさすがにしばらくは安全だと思うので、そろそろ降ろしてもよろしいでしょうか」
他意は無い、そんな感じで言ったつもりだったが、
「それは暗に私が重かった、と言っているように聞こえますが?」
含みがあるように聞こえてしまったらしい。そもそも人間軽くても40㎏くらいはありますが、と返してみたかったが自身もずっと走りっぱなしで疲れていて、そんなくだらない軽口たたくのも面倒だったので、
「それは考え過ぎですよ。殿下。」
「そう…まともに考えて発言する気力もないのね。それは私も同じですが」
雑に返したのはばれている様子だったが、背中に引っ付いているだけのお姫様もどうやらかなりお疲れの具合なので今回は見逃してくれたらしい。肩を掴んでいる手もずっと力んでいた為か小刻みに震えている。
「背負われているのも疲れるでしょうから、そこの木の近くに降ろしますよ」
はい、ありがとうございます。と、今度は素直に小声で呟いた。
言ったとおりに木を背もたれに出来るように静かに丁寧に降ろす。どんな女性でも丁重に接する、そう師匠に教えられてきている。例え相手が嫌味な少女だったとしても、だ。それにこの人物、フォーセ・ティル・ナスタチウムはこのロマンサ帝国の皇女殿下だ。おいそれと茂みに投げようなど考えてはいけない。もしそんなぞんざいな扱いをしたら、死刑まではなくとも禁錮20年は下らないだろう。今はそんなことよりも、ばれたら死刑じゃ済まないレベルのことをしているわけだが…
背を木の幹にもたれ降りたのを自身の背中と肩、足を抱える両手に伝わる体温と重量の変化で確認しつつ万が一怪我でもさせないように気を遣う。一応姫で、女性だ。
自分も休憩しようと立ち上がり体を伸ばそうとすると同時に、先程まで雲に隠れていた月が顔を出し始めた。暗闇に慣れた目だと月明りが差すだけでかなり明るく感じる。
そのとき、
ちかっ、ちかっ、
視線の端で何か光っている。反射的にその光っているものを探す。
視線の先には艶やかな絹糸で丹念に織り込んだような爛漫な輝きを放つ鮮麗なロングの金髪、端麗な顔立ちに海のように広く深い、そんな心性を垣間見られる紺碧の眼。今はその美しい髪に木の葉やなんやと汚れが付き顔にも疲れが見て取れるが、その気品は城内で会った時のままだ。
そんな事を思いつつぼーっとフォーセの顔をずっと見ていたら、同じく月をぼーっと眺めていた彼女が不意にこちらを向き、
「先ほどから視線を感じているのですが、あなた、ずっとこちらを見てどうしましたか?」
無意識にずっと見ていたのを言われて気づき、16歳の少女に見とれていたなんてさすがに言えないので、
「その髪の毛に反射する光を見て目を慣らしていました」
などと、自分でも訳のわからない言い訳をしながら視線を逸らす。
「ふうん。じゃあ月が隠れちゃったら大変ね」
すこし馬鹿にされている気がしたので何か言い返そうと再び彼女の方を見て口を開こうとしたが、フォーセが間髪入れずに話を続ける。
「そうそうカンナ、あの月。三日月って『願い月』って言われてるの、あなた知っています?」
「ええ?ああ、聞いたことはありますね」
不意に自分の名前を呼ばれたことに少し驚きつつ、空に浮かぶ月に視線を移しながらそう答える。
「私が出奔する日が丁度三日月だなんて、なんだか天も応援してくれているように感じます」
へえ、たまたまでしょ。と思うが口にはしない。沈黙は金、という言葉もある。
少し風が吹き森がざわめく。さっきまで走り続けて火照った体にはとても心地いい。しかしそろそろはっきりさせておかないといけないことがある。
「皇女殿下、私めの願いはしっかりと叶えてくださるのでしょうか」