脱隊騒動
脱隊騒動・同士討ち
函館五稜郭で一緒に戦ったその他の隊員たちは源太郎ら東京残留組と別れを告げて山口に帰郷するのであった。
しかし期待していた論功行賞がなされなかったことによって帰郷した隊員の不満による暴動がすぐに発生した。
武士が主役であった徳川の時代は戦闘に参加して武功を上げれば土地や役職などでそれなりの褒美が下されたのであるが戊辰戦争の終結によって朝敵そのものが消滅したためにこれ以降の討伐隊の必要性を感じなかった山口藩では凱旋軍に対して一切論功行賞をせずに一方的に解散を命じたのであった。
この不当な処置を不満に思った討伐隊員1800名たちは脱隊をした後は藩内の軍事拠点や砲台を占拠して山口藩主の毛利邸を包囲して実力行使に出たのであった。
皮肉にも大阪からこの反乱に対して鎮圧を命ぜられた源太郎は「謀反を起こしたとはいえ先日まで同じ釜の飯を食った同僚」を討つことの無常さを感じざるを得なかったことは想像に難くない。
しかし命令は命令である。
山口・小郡の戦いで20名の戦死者を出して反乱軍を破った源太郎たち「フランス式歩兵練習組」は山口藩から10両の恩賞を受け取ることができたのであった。
しかし同じ山口出身の「元同僚たち」は戦死・死罪合わせて約200名の犠牲者を出したことは源太郎の心を暗くせしめるには十分であったであろう。
山口で発生したこの「脱退事件」こそがその後に続く不平士族の乱の引き金となったのである。