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沙河会戦

このころの源太郎は頭脳明晰であるはずの彼が日露戦争中で一番頭の回転がにぶかったと伝えられている。


源太郎の一番大きな懸念は「時間との戦い」であった。


満州北部に冬が近づいていた。そろそろフランスの名将ナポレオンをも撥ね付けたロシアの冬将軍がやってくる。


さらに年を越すとシベリア鉄道が複線化されて増援部隊の輸送が容易になる。


「時間は日本に味方しない」

この原則が一番頭がいたい。


さら悪いことにバルチック艦隊の出航の報が届いてきた。このことによって海軍からの一日でも早く旅順を落とせと言う要請は悲鳴に変わっていたころである。


しかし日本側は知らなかったがこのころロシア軍内でも大きな変化が起こっていた。


あまりにも常勝将軍クロパトキンが「名誉の撤退」が続いたので宮廷内での不満の表れとしてグリッペンベルグ大将を満州に送り込んたのであった。

つまりクロパトキン大将との「2将軍連係」による戦闘を要請したのである。


それによって功を焦ったクロパトキンは日露戦争で初めてロシアからの攻撃を仕掛けてきたのである。これが世に言う沙河会戦であろる。



沙河会戦


年月日:1904年10月9日 - 10月20日

場所:沙河、奉天南方


指揮官

日本側 大山巌大将

ロシア側 アレクセイ・クロパトキン大将

戦力

日本側 約120,000人

ロシア側 約220,000人


死傷者

日本側 20,497名

ロシア側 41,346名


沙河会戦は、ロシア陸軍が日本陸軍に対して行った反撃により始まった会戦。


この戦い以降冬季に突入し、約三か月間の「沙河の対陣」と呼ばれる膠着状態に陥った。




10月9日に前述のとおり宮廷内の「二頭体制」要望に不満を持つたクロパトキン率いるロシア軍がグルツペンベルグが着任前に点数を稼ぐ意図での先制攻撃が始まり、それを日本陸軍が迎撃するという形で戦いが始まった。


日本陸軍はロシア軍の攻撃を察知したので、圧倒的な兵力差がありながらもロシア軍に対して効率的な防御を行い、大きな損害を与えた。


それから日本軍はロシア軍に対して攻撃を仕掛けたため、ロシア軍は沙河北岸に退却した。


日本軍はさらに攻撃を行おうとするもロシア軍の反撃を受けて退いた。


満州軍は弾薬がつき、大本営は旅順攻囲戦を遂行するために優先して弾薬をそちらに送ったことと、冬季に突入して軍隊行動が困難となったことから満州軍は塹壕で次なる攻勢機会を待つこととなった。


なお、この会戦に於いて特筆するべき存在としては梅沢道治少将率いる近衛後備混成旅団(俗に言う「花の梅沢旅団」)がいる。


近衛後備混成旅団は後備兵(予備役)の兵士たちによって構成された二級部隊ながら、梅沢による卓越した指揮の下、最前線に於いて精鋭部隊に劣らぬ猛烈な奮戦を見せ、勝機の一端をも担う活躍を見せた事で現在にその名を残している。


現太郎は冬が来る前に沙河を渡河できなかったことと、ただでさえ少ない砲弾を旅順攻略戦と分け合わなければならない厳しい台所事情に大いに頭を痛めていた。


一方司令官の大山巌は現太郎がこのような状況下で外国武官を連れて呑気に「キツネ狩り」を行なっている。

このあたりが源太郎に全てを一任した将の器であろう。


負け戦さになれば真っ先に出て行くつもりの大山がまだまだ余裕で源太郎に託している証である。

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