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得利寺の会戦

南山の会戦後の6月6日源太郎は陸軍大将に昇進した。

乃木希典も同日に大将になっている。


しかしこのとき源太郎は誰もが羨む大将昇進を山県有朋に連絡して断っている。

「戦争は今始まったばかりなのに私如きが大将になることは面白くない」と彼自身が語っている。


当時の陸軍内のルールで陸軍大将は師団長を経験していなければ成れなかったのである。しかし源太郎は日清戦争にも従軍せず、その後も台湾総督が長かったために師団長の経験が無いにもかかわらず大将になれたことがその理由である。


しかし最終的には山県を始めとした周りの説得を受けて源太郎はこれをしぶしぶ受諾した。

現太郎にとっては日本の未来が掛かるこの戦を前にしては肩書きなぞどうでもよかったのであろう。


陸軍内の誰もがルールを超越しても大将にするべきと判断したのにはやはりそれだけ現太郎の卓越した能力が買われたことの証左である。


さて、南山の会戦のあと遼東半島のくびれに位置する金州を落とされたロシア軍2個師団は旅順に逃げ込んだ。

つまり満州に展開するロシア軍本軍と分離されて孤立した状態に追い込まれたのである。


シタケリベルグ将軍率いるロシア軍はこの孤立した2個師団の軍を救うために増援を寄こして得利寺に陣地を構築して奥の率いる第2軍を迎え撃つ準備をした。

この報に接した源太郎はロシア軍が完全に陣地構築ができる前に攻撃開始するよう奥に伝えたのである。


兵力が優勢でかつ陣地守るロシア軍に対して200門の火砲で砲撃を開始した奥軍は2日間の戦いでロシア軍を退けたのである。

敗走するロシア軍は得利寺駅に火を放って戦場を去っていった。


この戦いに勝利したとはいえ前回の南山の戦いからわずか20日間しか経ていない奥軍は疲労が溜まっており敗走するロシア軍を追撃することができなかった。


大本営は追撃し撃滅しなかった奥軍を叱咤したのであるが、この戦いによって2個師団を旅順に分断したまま釘付けにした功績は大きい。


陸軍大将に昇進した現太郎の滑り出しはまだまだ順調であった。


得利寺会戦 1904年6月14日―6月15日

参加兵力

日本側 33600名

ロシア側 41400名

死傷者

日本側 1145名

ロシア側 3563名


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