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乃木と児玉

乃木と児玉


よく映画などで203高地の場面で登場する乃木と児玉であるが実は同じ山口藩生まれの同郷である。乃木は長府藩、児玉は徳山藩で同じ毛利家の支藩に生まれた関係になるが乃木の父親は江戸屋敷詰めであったので出生地は東京の六本木でありここで10歳まで生活をした。


歴史上で語られるイメージとしては多くの局面で乃木の失策を児玉がフォローするという関係が定着している二人の関係であるが実際のところはどうであったのか。


乃木は1849年12月長州藩士の3男として生まれた。

児玉よりも3歳年上になるのであるがこの二人の経緯は非常に興味がある。


前述したように五稜郭の戦いの後、大阪でできた兵学寮で「フランス歩兵練習生徒」として乃木と児玉は同時期に任官しているがその後も2人の人生は互いに数奇な運命をたどることになる。


お互い五稜郭の戦いにおいての武功は多くは語られていないが「フランス式兵科学校」に選抜されたと言うことは少なくとも「その他諸々」とは区別されるだけの実績と技量が評価されたことだけは間違いない。


その後明治10年の西南戦争において二人は熊本城で篭城する児玉を小倉から応援に駆けつける乃木という図式で共に戦うことになる。


小倉を発った手勢200名を引き連れた乃木の歩兵14連隊は現在の熊本県植木町で400名の西郷軍と遭遇し戦闘を開始する。


およそ倍の人数を相手に乃木は3時間ほど良く戦ったが不慣れな地理とこの相手部隊を主力と勘違いした乃木は熊本入城を断念して撤退することに決めた。


この撤退戦の中で連隊旗を持っていた河原林雄太少尉が打たれて西郷軍に奪取されてしまった。その後西郷軍はこの連隊旗をこれ見よがしに高々と掲げて見せびらかして責任感のある乃木の心と将兵の気持ちを弄んだとされている。


その後2月26日に有名な田原坂を守っていた乃木はこの地の重要性を大本営に説いて死守することを意見するが命令によりその地を捨てて撤退させられることになる。


どうも乃木イコール「撤退」のイメージが付きはじめるのがこのころからのようである。


乃木が守っていた田原坂を再び政府軍が占領するのが約一ヵ月後の3月20日、3000名の犠牲者を出し30万発の銃弾を一日に消費しての勝利であった。


その後西郷軍は攻撃に転じて西南戦争最大の野戦と言われる高瀬の戦いで乃木は主力の桐野利秋率いる600名と交戦してこれを死闘の末撃破して政府軍の勝利の一助を担うことになった。


4月18日、乃木は西郷軍の包囲から解放された熊本城に入場、おそらくここで源太郎と会ってお互いの健闘を称えあい苦戦の後の勝利を祝したことであろう。


このときに乃木は植木の戦いでの連隊旗喪失を受けて官軍の総指揮官であった山県有朋に対し「待罪書」を送り、自ら厳しい処分を求めた。しかし山県は「戦闘中の不可抗力」とし不問に付したが彼の責任感から何度も自殺を図ったところ源太郎によって軍刀を奪われて阻止されてしまったという。


そのあと乃木は「わかった。しかしワシはこのためにいつか必ず責任を取って死ぬから、その時は許してくれ」と言い、源太郎は「わかった。しかし独りで死ぬのは決して許さん。その時は必ず自分に知らせろ」と約束をさせ、現場に居合わせた将兵に証人を頼んだという。


結果としては日露戦争後源太郎のほうが乃木より早く急死してしまうのでこの約束は履行されなかった。


乃木はこの言葉どおり明治天皇が崩御した際にこの責任を含めて妻と自刃している。

おそるべき江戸時代生まれの武士の執念である。


責任感の強い乃木を表した話が残っている。


西南戦争で乃木は緒戦で左足を負傷して久留米の陸軍病院に入院することになるが何度も病院を脱走しては原隊に帰って指揮をしようとするので将兵からは「脱走将校」との異名をとることになった。




西南戦争から3年後には二人はまた「ご近所さん」の関係になるのである。


同じ東京歩兵連隊の乃木は第一連隊(駐屯地は習志野)の歩兵大佐、児玉は第二連隊(佐倉)歩兵中佐で、二人とも連隊長と言う肩書きで赴任することになる。


時代は日清戦争を前にした平和な5年間を二人はこの職で合間見えるのであった。


お互い同じ東京歩兵、近い駐屯地ということもあり両連隊はよく合同演習を行ったと記されている。


その演習結果はいつも児玉の勝ちという表現では足らないくらいに「一方的な児玉連隊の圧勝」であったようである。


この時期の源太郎の圧勝を物語るエピソードが残っている。


千葉県佐倉市にある野外演習場にて二人が率いる両連隊の対抗模擬演習が始まった。


源太郎は、乃木希典大佐の第一連隊の動き方から見て、乃木の特異な両翼攻撃の意図があると瞬時に判断したのである。


そこで源太郎は自分の配下の第二連隊を軽快に展開し、隊形を両翼攻撃の中央を衝く縦隊に変え、今まさに両の腕を広げたように包囲しようと展開を完了した第一連隊の中央に突進し分断し、その後包囲してこの模擬戦を瞬時にという勝利した。


当時の陸軍の兵法は相手をいかに包囲するかに勝利の力点が置かれていた。


模擬戦闘を終えて馬を進めつつ、馬上で首筋の蚊をたたきながら源太郎は傍らの部下に、「しかし乃木はいくさが下手だ」と大笑いしたという。


幾たびか同じような模擬演習を両連隊は行ったようであるが確かに乃木の戦積は、尾圧倒的に勝利が少なかったという。


このことにより源太郎率いる第二連隊の士気は大いに鼓舞されたというからまさに源太郎にとって乃木の第一連隊は格好の「噛ませ犬」状態であった。


その結果、当時軍人の間では、二人の対抗演習が話題になり巷には「気転利かしたあの野狐を、六分の小玉にしてやられ」という流行歌までできた。


この歌の意味は、「転は「希典」で乃木の名前の音読み、野狐は「乃木」のことで、六分は「一寸に満たない」つまり「身長の小さな」で小玉は「児玉」のことだった。


この歌が流行ることにより一層源太郎の戦術の強さと乃木の同じ作戦ばかり行う愚直さが世間に広まるようになっていったのである。



時流は二人を平和のままの中には置くことを許されなくなっていた。日清間で開戦のムードが高まっていき戦の下手な乃木は仙台師団の師団長になり常勝の源太郎は戦争の後方支援を行う内務省衛生局に皮肉にも配属された。


日清戦争では乃木は明治27年(1894年)8月1日大山巌が率いる第2軍の下で出征し、10年後に苦戦を強いられることになった旅順要塞をわずか一日の戦闘で陥落させるという快挙を行い軍内での評価は今までの「負け将軍」の汚名を返上するに余りある働きを見せた。


一方源太郎は戦雲の中には身をおかず大本営が移転されて急遽日本の首都になった広島の似島で大陸から凱旋する23万人の将兵の疫病対策を後藤信平と行うという「地味」な裏方作業に徹したのである。おそらく23万人の中に乃木とその部隊も当然含まれているので日清戦争時の2人の関係は「検疫をする側」と「検疫を受ける側」という関係にとどまる。


日清戦争後の下関条約で日本の領土となった台湾の統治でまた二人は「ご近所さん」の関係になる。


戦争後に獲得した新領土の統治方法は現地の反対勢力との武力衝突を想定して文官ではなく武官に総督を任命するのが常である。初代台湾総督は鹿児島県出身の樺山資次が任命されその後の2代目総督に桂太郎が任命された。


桂太郎の次に3代目総督を任命されたのが乃木であった。ここでは乃木はあまり優秀な総督ではなかったと記されている。


ただし一点だけ彼の実直さから現地の行政官や警察官の日常の態度や台湾の現地民への接し方については厳しく言い聞かせた実績が残っている。


このことは次の源太郎の台湾統治に貢献している唯一の功績である。


さて1年半で任期を終えた乃木は、明治31年(1898年)10月3日、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職した。


余談では有るが陸軍内のルールで大将になるためには師団長の経験が必要であった。

ちなみに源太郎は師団長経験はないが乃木と同じ日に大将になれたのは特例中の特例である。


乃木の次に台湾総督に選ばれたのが当時内務大臣と文部大臣を兼務していた源太郎であった。


西南戦争で宮崎の戦いのあとに戦争後のすみやかな行政の重要さを知った源太郎はまず医療とアヘンの撲滅に注目したのである。


ただし医療の素人であった源太郎は日清戦争時の検疫業務を任せた後藤信平に民生局長の任を与えて自分のサポートを命じた。


また台湾の農業発展の重要性を感じた源太郎はアメリカから「武士道」の英語訳で知られる新渡戸稲造を農業指南役に抜擢している。


このあたり咄嗟に本質を見抜いて「餅は餅屋」の発想を即刻実行に移すのが源太郎の真骨頂であった。


4年半の台湾総督の任を終えた児玉は日露間が風雲急を要する時代になり陸軍に復帰することになる。ここで陸軍内で不運なことが突発した日露戦争がもし勃発した場合にその開戦後の動員や戦略を担当していた田村怡与造が日露開戦の前年に過労のために急死してしまったのであった。


もし田村の急死がなかったならばその後満州軍司令部に児玉の姿はなかったであろうし203高地の「代打の場面」もありえなかったと思うところである。時代が現太郎を後押ししたようにも取れる場面である。


いずれにしてもドイツの名将メッケルをして「日露戦争は児玉がいるから大丈夫だ」と言わしめた源太郎は「田村亡き後は自分しかいない」と決断して2階級を落としてまでも参謀次長の職責についた。このあたり名声や役職を何ほどにも感じない源太郎の心意気を痛感に感じる次第である。


少し馬が合わない同郷の山県の下では働きにくいと思った源太郎は西郷隆盛の甥っ子にあたる器に広い大山巌が総大将の下であるので「これは仕事がしやすい」と思ったことであろう。


日露戦争を前にして満州軍司令部には以下の4つの軍が準備された。


満州軍総司令部 参謀長 大山巌 

       参謀次長 児玉源太郎


第1軍 指令官 黒木為楨

第2軍 指令官 奥 保鞏

第3軍 指令官 乃木希典

第4軍 指令官 野津道貫


このように日露戦争時の源太郎と乃木の関係は主戦場となる満州での戦闘の指示を与える満州軍総司令部の参謀とその意志のとおりに戦闘を指揮する軍司令官と言う関係であった。


わかりやすく言えば源太郎がプロ野球チームのオーナーで乃木がチームの監督という関係である。


余談では有るが日露の開戦後の37年6月6日 同じ日に両名は陸軍大将に進級している。5年先輩の乃木にやっと階級が追いついた瞬間であった。


その後の日露戦争の歴史は司馬遼太郎の書物や映画などで有名であるが乃木、源太郎の二人の関係のみを抽出すると。源太郎は立場上4人の司令官が回す「皿回し」の皿が常に安定しているように見張る立場であった。


しかし4人の皿回しをする司令官のうち唯一乃木だけが満州ではなく遠い旅順という地で皿を回しているのでどうも実情が良く把握できない。


しかも日々入ってくる報告によると今にも皿が回るのを止めて落ちそうな状況らしい。


そこで意を決した源太郎は本来は違反行為であるが旅順に赴いて乃木に「少し皿を回すのを変われ」と願い出て見事立て直して満州へ戻ってくるのであった。


その結果旅順が陥落して改めて乃木を加えた5人の皿回し師たちを集結して奉天大会戦を戦い勝利するのであった。


私見ではあるがいろいろな書物を読んで乃木と児玉の性格の差を考えるのであるが、どう読み解いても乃木は児玉のような「長期ビジョンに立った明確な強い意志」を感じないのである。


もちろん明治天皇崩御の際に妻とともに自刃したことや日露戦争で自分の長男と次男が戦死した報に接したときに「よく死んでくれた」と微塵にも感情を出さなかったという彼のストイックさを表現するエピソードはあまたあるしまたそれ故多くの部下から神格視されたことも事実である。


しかし国家百年の計を考え日本の将来のために外交、開戦への働きかけ、インフラ整備などの信念に基づいた「組み立て能力」は児玉には遠く及ばないであろう。




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