JKフードファイター宮古紅姫、ほんわかお姉さんを食べる(百合的な意味で)
宮古紅姫はフードファイターである。
まだ十七歳という年齢ながら多くの大食いメニューを制覇しており、それでいて細身の体格を維持している。年齢の割に低めの身長も相まって非常に小柄で愛らしい。
そんな少女が彗星のごとく登場すれば話題になるのは至極当然。既にその名は広く知れ渡っていた。
しかし、食の探求者を自称する紅姫は名誉などに一切の興味を示さない。美味なるものだけが彼女の心を動かす。
彼女は今日もお気に入りの熊のぬいぐるみを片手に、餌食となる運命をたった今背負わされた店の前へ立った。慣性の法則に従ってブラウスとスカートがふわりと揺れる。
「プリンセスが足を止めました!」
「ここが今日のジャッジメント・ポイントね」
「姫ちゃん、いつ見ても可愛いわぁ……」
周囲に一定の距離を置いて群がるギャラリーに、紅姫は薄黒いショートヘアの隙間から不機嫌そうな視線を飛ばす。紅姫という名前から取られた「姫ちゃん」という愛称で呼ばれることを、彼女は好ましく思っていない。
自分から名乗ることもしなかったのだが、以前挑戦した大食いで成功者の名前を飾ることになり、うっかり本名を提出したために名前まで可愛らしいと言われて今に至ったのである。
「ウザい。姫ちゃんって言うな。殴ってミンチにするよ」
無機質な声で告げたのだが、なぜか相手の女性は頬を染めて胸元で両手をモジモジさせ始めてしまった。
「あっ……私を料理して食べてくれるんですか……? あの、私そんなにボリューミーではないので姫ちゃんのお腹を満足させられないかもしれませんが感度はいい方だと思いますので退屈させるようなことは」
料理して、の部分を聞き終える前に紅姫は店の中へ足を踏み入れた。
ギャラリーを従者のように引き連れる姿はまさにプリンセスであるが、姫ちゃんほどではないが紅姫はその呼び方も好きではない。何度かその意思を先程のように冷たく告げているのだが、これまた先程のように相手が喜んでますます愛称で呼ばれてしまうため今ではもう諦めている。姫ちゃんと呼ばれるのを認めてしまう日も近いだろう。
「いらっしゃ……あ、あなたは!」
「チャレンジメニューの特製カツカレーをお願い」
女性店員は紅姫の顔を知っていたようだが、後ろに控える軍勢までは認識が及んでいなかったらしい。呆気に取られる店員の横をすれ違い、初来店ながらもまるで常連のごとく告げて席へつく。その姿を見守るギャラリーたちも着席して、各々が適当な料理を注文した。店にとっては思わぬ繁盛である。
店内が雑多なモブの話し声で満たされていく。いつの間にか店外にも人だかりができていた。立ち見が出るほどの人気を誇る紅姫は観客など眼中にないようで、胸に抱いた愛用のぬいぐるみに顎を預けている。この時既に片手では収まらない数のギャラリーが紅姫の魅力にあてられてテーブルやカウンターに突っ伏していた。ちなみにギャラリーは全員女性である。
「お待たせしました、こちらが当店のチャレンジメニューでございます」
料理を出すのはプリンセスの後でいい、という観客の総意によって早急に作られた山盛りのカツカレーが紅姫の前に置かれた。テーブルの大半を占拠する大皿に怯む様子もなく、紅姫は淡々とスプーンを手にし、自らの膝に座らせたぬいぐるみの頭を撫でて目を閉じる。このぬいぐるみを紅姫はクマちゃんと呼んでおり抱き枕にして眠るほど愛用しているのだが、それは見物人一同には知る由もないことである。
「プリンセスは何をしているの?」
「ああやって食事前に精神統一をしつつ食への感謝を祈るのがプリンセスのルーティーンなのよ」
「姫ちゃん、お人形さんみたいで可愛いわぁ……」
雰囲気にあてられたギャラリーの声も潜められているが、それでも姫ちゃんという言葉が届いたのか紅姫の眉がかすかに歪む。しかし間を置かずに瞼が開かれたため、彼女の不快を目にできた者はいなかった。
「そ、それでは只今より三十分以内に食べきれば賞金一万円、失敗した場合は七千円の支払いを賭けた挑戦を開始させていただきます!」
店員の掛け声から一拍置いて、気の早いギャラリーが勝鬨のような声をあげた。既に勝利ムードが漂っているが、当の紅姫は涼しい顔で一口目を頬張っていた。ライスとルーを自らが考える最高の割合で掬ったのだが、それを知るのは店内で彼女ただ一人だけである。
舌の上で転がして、噛み締めて。細めた目を縁取る睫毛が揺れて。紅姫は美味なる料理に称賛の意を表明した。もっとも外見上は無表情で食べているだけなのだが、内心ではとてもウキウキしながらこの出会いに感謝しているのである。
それからも紅姫は急ぐことなく、マイペースを保って食事を続けていく。
「ねえ、あんなゆっくり食べてたら間に合わないんじゃない?」
「あなた、もしかして新顔? あれがいつものプリンセスよ」
「大食いと言っても、結局は時間内に食べればいいの。食事はじっくり味わい尽くすのがプリンセス・スタイル。私のことも食べてほしいわぁ……」
先程から訳知り顔で語るファンの女性たちであるが、その言葉が正しいと紅姫が認めたことは一度もない。だが実際それらは真実であり、すべて綿密な観察の結果得られた知識の結晶である。そもそもギャラリーと会話すること自体が、冒頭のような不平を除けば皆無と言える。しかしその無愛想さが癖になるようで、ギャラリーが減ることもまた皆無であった。
かつては無表情の奥で困惑していた紅姫だったが、それは昔の話。今もこうして自分の世界に入り込み、美味なるカツカレーに舌鼓を打っていた。数種類のスパイスに引き立てられたルーをまとったカツの食感にほんのわずか頬が緩んだのだが、その変化に気付いた数人の熱狂的ファンは即時魅了されて心ここにあらずとなってしまったので、結果彼女はマイペースに無表情で食べるプリンセスという印象を強めてしまった。
そういった大食いプリンセスと呼ばれる紅姫であるが、元々の考えは「おいしいものをお腹いっぱい食べたい」という単純なものだった。
一般的な基準よりも食欲が旺盛だと自覚していた紅姫が大食いメニューに挑戦したのはほんの気紛れであり、運命でもあったのだろう。初挑戦の大食いであっさりと特大パフェを完食して景品のクマちゃんを手にした彼女が店を去ったときには、店内にいた客たちがその後ろに親衛隊のごとく付き従っていた。後のギャラリーである。
「そろそろ時間ね……どうなるのかしら」
「ペースは崩れていないようですけど」
「同じリズムで三十分も責められたら私きっと……」
囁き声の中で制限時間が迫り来るが、そんなことは紅姫もわかっている。最初から分量と時間を計算した上で食べるペースを決めていたのだから。瞼にかかりかけたショートヘアをサッと払う余裕まであるようだ。その姿をまともに目撃してしまったギャラリーは、例外なく自身の心底から響くキュンという音を耳にした。
涼しい表情を浮かべたまま、あらかた食べ尽くした皿の表面に残る米粒たちを一箇所に集めていく。出されたものを残すのは紅姫のポリシーに反するのだ。
大皿を軽々と持ち上げ、集めた最後の一口に唇を寄せていく。目を閉じた紅姫が皿とスプーンに口付けをした瞬間新たなる気絶者が周囲に生まれ、彼女たちが上げた幸福な声が完食の合図となった。
「ごちそうさまでした。おいしかったわ」
その一言で店内が静寂に包まれた。誰もが紅姫に見惚れていたのだ。
汗一つかいていない少女が口元をハンカチで拭うと、生唾を飲み込む音がいくつか響いた。ギャラリーの中にはそのハンカチを自分のものにしたいという邪な願いを持ってしまった者もいたが、誰もがノータッチを心がける淑女なので欲望をぐっと堪えてプリンセスに熱い視線を送るに留めていた。
「……お、おめでとうございます! 見事、制限時間内に食べきりました!」
店員の宣言により静寂は破られ、紅姫を賛美する黄色い言葉が飛び交う。大皿を下げようとした店員がキッチンへ入れず困惑しているが、意図せず妨害を続けるギャラリーに助けは期待できない。彼女たちは紅姫に熱い愛を向けるのに必死なのである。
自分に向けられた喧騒を聞き流し、紅姫は壁に張られた紙を見ていた。賞金を渡しに人波を掻き分けて店長が近寄ってきたのを察した彼女は、振り返るなりこう言ってのけたのだ。
「この期間限定コズミック・ブリュレを一つ。お代はその賞金から引いてもらえるかしら」
まだ食べるんだ……と紅姫以外の誰もが心で呟いた。
そして、紅姫の食べっぷりを見ただけで満腹になってしまったギャラリーたちは満場一致で注文をキャンセルした。もちろん店側の人間も全員が紅姫に見惚れて調理の手が止まっていたので、問題なくそれらは受け入れられた。
紅姫は食材が無駄になることを決して許さないのである。
常勝無敗の快進撃を続けてきた紅姫は何があろうとも屈しない。
皆がそう信じて疑わなかった不敗神話に暗雲がたちこめるなど、考えの片隅にすら浮かんではいなかったであろう。
中華料理屋「龍泉」。紅姫が選んだ本日の舞台は既に観客で満員だ。
ギャラリーが固唾を飲んで見守る中、注文したチャレンジメニューが割烹着姿の女性によってテーブルに置かれる。
「お待たせしましたぁ。那由他曝山麺でございまぁす」
気の抜けるような声と共に、特大の丼に盛られたラーメンを持ってきた長身の女性は龍泉の店長にして料理長、九城美水である。一つにまとめた髪と二つの膨らみが歩くたびに揺れ、それを目にしたギャラリーの数人が即時魅了されて美水のファンと化した。浮気性の気があると言わざるを得ないが、溢れ出る魅力に抗う術など持ち合わせていないのが恋多き淑女の常識であるから仕方がない。
「あなたが噂の宮古紅姫ちゃんね。私の力作を食べきれるか楽しみだわぁ」
美水は二十代も後半となる年齢であるが、ある意味若々しい喋り方を好むようである。舌足らずな甘い声と成熟した体に、またしても魅了者が出たのか机に突っ伏す音がした。
ファンが奪われたことに気を留める様子など一切なく、紅姫は目の前で湯気を立てる獲物を視覚で味わっていた。自身の肩幅ほどもある丼にそびえる麺と具の山。圧倒的なその質量はスープを覆い隠しているが、不思議と雑多な印象を紅姫が受けることはなかった。むしろ芸術的とさえ考えながら手元のぬいぐるみを撫でる。
精神統一が始まったのだ。
「プリンセス……応援してますっ」
「店長さん、とても麗しゅうございます……」
「なんとかしてぬいぐるみに……タルパを応用すればあるいは……」
三者三様のガヤを聞き流し、紅姫はゆっくりと呼吸を整えた。箸を持って数秒の瞑想。
瞼が開かれたのを見て、柔らかな笑みで美水が告げる。
「では、これより制限時間三十分を計測しまぁす……はじめっ!」
緩い口調から突然放たれた鋭い号令にギャップ萌えを感じたギャラリーが頬を染めて肩を震わせたが、紅姫は相変わらずのマイペースで麺と野菜を適量つまみ、一口目を咀嚼した。
世紀の聖戦。その行く末は初手で決まっていた。
「……っ」
喉の奥で生じた小さな驚きの声に気付いた者はいない。ただ一人、発生源である紅姫を除いては。顔色の変化を察知したギャラリーは何人かいたが、やはり例外なく心を幸福な花園の果てへ飛ばしてしまったので意識ごと記憶も消えていることだろう。
紅姫はレンゲを取り、麺の縁に沈めてまだ見えぬスープを集めた。たちまち形成される琥珀色の輝きに吸い寄せられて嚥下した紅姫は、瞬間的に全身の力が抜ける気分も同時に味わった。ぽっかりと抜け落ちた空白へ、瞬時に染み渡る中毒性の高い安らぎ――予告なく訪れた膨大なリラックスオーラは、彼女の頬を赤く染めるという形で発現した。それを見た者も空気感染したかのように頬を染めて紅姫から目が離せなくなってしまった。
黙々と食べ続ける紅姫を動かすのは彼女自身の意志だけではない。口にしている食材が彼女を導いているのだ。高名な魔術師が使う宝具に力が宿るように、あまりにも美味なる料理は意思を持つのである。
それほどまでに紅姫はこの特大ラーメンに心を奪われた。
否、これを作った人物にすべてを奪われたのだ。胃袋を掴まれたのである。
イブクロとは意のフクロ。すなわち心を意味する。紅姫の意思と思考は春の到来を告げる桜吹雪のように鮮やかな色に染められた。
食べ続ける中で、紅姫は不思議な感覚を味わった。食事中にもかかわらず空腹を感じたのである。美水の作り出した味が脳細胞へと浸透し、渇望が空腹信号となり全身へ発令されているのだ。食べるほどに増していく空腹感――紅姫にとって初めての経験であった。
たった一口で紅姫を篭絡したプリンセスキラー、美水は腕組みをして紅姫の食べっぷりを見守っている。胸が強調されていることに気付かぬほど集中していたようで、無防備な姿で更に信奉者を増やしていることもまた無自覚であった。
「時間……もう半分過ぎちゃったけど」
「まだ結構残ってますわね」
「大丈夫です、姫ちゃんが負けることなんて……」
食べるうちに紅姫の中で感動が膨らみつつあった。今までに食べたものすべての頂点に君臨する美味。もっと長く、叶うのなら永遠に食べ続けていたい。この味と共にあり続けたい――紅姫は人生で初めて、虜になるという言葉の意味を知った。
ペースは崩れていない。急ぐこともせず、遅くもならず。一定の速度で紅姫の食事は続く。
変わりゆくのは残り時間のみ。既に猶予は残されていない。
「だ、大丈夫なのこれ?」
「急がないと時間が!」
「姫ちゃん……」
ピリリリ、と鳴り響くアラーム音。
挑戦失敗を告げるタイマーを止め、美水は紅姫の隣に移動した。なぜか距離が近く、豊かな胸が座高の低い紅姫の頭に乗りそうである。
「残念、また挑戦してくださいね~。お支払い、税込み六千円でございます♪」
敗北の宣告を受けても紅姫は意に介する様子もなく、那由他曝山麺を食べ続けていた。
美味なる料理を全身で噛み締めるように味わっているのだ。
そして、聖母のような美水の微笑みを目にしたギャラリーも全身で幸福を味わっていたのだった。
戦歴に傷をつけられた紅姫だったが、当の本人はまったく気にしていなかった。食べられればそれで彼女は満足なのであり、そもそも不敗神話で盛り上がっていたのは観戦者たちの方である。
とはいえ、観客たちも紅姫の敗北を目にして離れていくことはなかった。無敗が続くより負けたほうが人間らしくて可愛いとか、負けても顔色一つ変えないなんてさすがプリンセスなどと熱心な信仰の言葉を口にして、今も熱心に視線と意識の大半を彼女の食べる姿に奪われている。むしろ初の敗北という情報が飛び交った結果、新たな顔ぶれも一人や二人ではない。情報化社会恐るべしである。
あの日以来、紅姫は龍泉の味に惚れ込んで時間を見つけては訪れて食事をしている。チャレンジメニューではなく、通常の料理を日替わりで思うままに注文しては静かに舌鼓を打つのが日課となっていた。
当然料金が発生するのだが、定期的に適当な店のチャレンジメニューを制覇して得た賞金を使っているので財布が痛むことはない。経済とはこうして回って巡るものである。
今日のランチは水天小籠包。皮から具材まで美水オリジナルの手法で作り上げた人気の逸品が次々と紅姫の口へと放り込まれていく。溢れる肉汁に火傷を心配したくなるが、鍛えられた彼女の舌と上顎は熱い物を食べても薄皮がめくれることがない。食の探求者であれば口内のケアと鍛錬は基本事項である。
「大食いじゃないけど、これはこれで可愛いからアリね」
「プリンセスが一つの店に通い続けるなんて珍しい」
「美水さん、今日も中華鍋を振る姿が美しいですわぁ……」
紅姫だけではなく、美水を目当てに訪れるギャラリーも増えてきた。龍泉は連日大賑わいであるが、淑女を自称するギャラリーが一般客に迷惑をかけるようなことはない。不届き者は紅姫を追いかける親衛隊にはなれないのである。ちなみに一般客がギャラリーの一員になるという出来事がここ毎日数件ずつ起きている。
「こんにちは。ここいいかしら?」
ランチタイムが終わる頃、紅姫の隣席を示しながら声をかける女性がいた。もちろんギャラリーの面々はそういった逸脱行為を鉄の掟で禁じているため誰かが抜け駆けをしたわけではない。
声の主は龍泉の主、美水である。
「食事中なんだけど」
紅姫は不機嫌をあらわに顔も向けず言い放った。自らの考える至高のペースで食事をしていたのに、そのリズムを崩されたのだから無理もない。紅姫にとって食事とは神聖な時間であり、不可侵の聖域なのである。
「終わるまで待たせてもらうわね♪」
しかし美水は動じない。柔らかな声と笑みを崩すことなく紅姫の隣へ腰を下ろした。突然の急接近を成し遂げた美女二人という状況にギャラリー多数の目線が釘付けとなる。目を向けていないのは視覚から送り込まれた圧倒的な美のオーラに心を骨抜きにされ、幸せ満開の表情で気絶した新入り数名である。初心者には刺激が強すぎたらしい。
「……」
ちらりと隣へ目を動かしただけで、紅姫は食事の手を止めない。本来ならば邪魔者は排除すべきであるが、今味わっている料理を作った張本人であれば話は別である。これほどの味を生み出す美水という女性がどのような人間なのか、顔には出していないが紅姫は並々ならぬ興味を持っていた。
「こっ、これは……」
「一体何が始まろうとしているの……」
「姫ちゃん……美水さん……」
ざわめきながらも見物人は成り行きを見守っている。不意に美水が聴衆に向き直り、唇に人差し指を当ててみせた。たったそれだけで店内は静まり、紅姫の持つ箸が食器に当たる音だけが取り残された。もちろん紅姫は動じることなく食事を続けているが、美水の影響力は内心で認めている。
「皆様、恐れ入りますが間もなくランチタイム終了となります。お会計よろしいでしょうか」
美水は出入口のレジへ手を向けた。間もなく終了なのでまだ少し余裕はあるのだが、つまるところ邪魔者はお帰りくださいとオブラートに包んで告げたわけである。
オブラートの作りはしっかりしていたはずだが、変なところで鋭い淑女一同は一瞬で一から十まで把握したらしい。
「そうですね、あまり長居をしてもご迷惑になってしまいますから」
「素敵な料理、ご馳走様でした」
「今度、我が一族の会食で使わせていただこうと思います」
規律の取れた部隊を思わせる動きで礼節を述べ、列を乱すことなく会計を済ませて彼女たちは店を後にした。ギャラリー同士は顔見知り程度の友好関係であるが、同好の士であれば以心伝心も容易なので一糸乱れぬ統率も可能なのである。
「いつも来てくれてありがとう♪」
二人きりとなった店内に美水の声はよく浸透する。しかし、その言葉が毛細管現象のように吸い上げられて広がっていく先はこの空間ではなく紅姫の心であった。食事中なので彼女は今も無表情を装っているが、筆舌に尽くしがたい味を生み出す麗しのお姉さんが近くにいることで内心はドキドキなのである。
食事と美水どちらを優先すべきか迷う紅姫であったが、食べる手を止めずに考えていたため先に食事が終わってしまった。完食を完全に歓喜していない自分に気付いた紅姫は、戸惑いを隠すためにぬいぐるみのお腹をふにふに触っている。
「どうだった? 私の料理」
「……とてもおいしいわ。ここで食べたもの、全部」
「そっかぁ……ふふっ、嬉しいな」
間近で微笑まれ、紅姫の手は更にぬいぐるみをもふもふし始める。探求者を自称する舌を唸らせる味を生み出す美水は言ってみれば神のような存在であり、そんな女神様が優しく語りかけてくれるのだから紅姫は興奮を隠すのに必死なのだ。嬉しさを全身で表現してはしゃいでしまう唐突なキャラチェンジができるほど彼女は大人ではないし子供でもない。
「今度、改めてチャレンジメニューに挑むわ。その時こそ食べきってみせる」
口をついて出た言葉にハッとする紅姫。強がって喧嘩を売ったような物言いに思えたのだが、美水はむしろ嬉しそうに目を輝かせていた。それを知って紅姫の目は伏せられてしまう。女神の魅力をまともに受ければ紅姫といえど無事では済まないのである。
「いつでも受けて立つわよ♪」
宣戦布告を柔らかく受け取った美水は、スッと手を上げて合図を送る。するとひそかに傍らで控えていた従業員が姿を見せ、紅姫の食べ終わった食器を片付け始めた。鮮やかな早業で机の上は綺麗になり、従業員のお姉さんもいつの間にか姿を消していた。美水の城である龍泉で働く者であればこれくらいのことはできて当然である。
完全に帰るタイミングを失った紅姫であるが、いつまでも座り続けているわけにもいかない。ランチタイム終了をギャラリーに告げておきながら自分には何も言わないことに多少の疑問を感じてはいたものの、すべては美水の視線と笑みといい香りに塗り潰されて紅姫の考えはまとまらなかった。
「……それじゃ」
「……あのねっ」
沈黙を切り裂いたのは同時だった。
しかし紅姫の方が小さな声だったため上書きされてしまい、美水が言葉を続ける権利を得た。
「実は今、新メニューを開発してて……試食をお願いしたいの」
「新メニュー……興味深いわね。どんな料理が出てくるのかしら」
女神直々のお誘いを受ければ、普通ならば返事などできずに卒倒してしまうであろう。しかし紅姫は食への大いなる探究心がある。まだ見ぬ料理への興味が声色の魔力に打ち勝ったのである。
「試食してくれるのねっ? 嬉しい……じゃあ今度の休みに私の家に招待するわね。あ、そうだ連絡先交換しましょ♪」
しかし、次なる怒涛の攻勢にはさすがの紅姫もなすすべがなかった。
美水のペースに乗せられ、流され、導かれ。
気付いた時には約束の日取りを決められていたのだった。
「もうすぐできるから待っててね、紅姫ちゃん♪」
美水の家は龍泉店舗の二階だった。店が広いので部屋も広い。窓際の観葉植物がギザギザの葉で太陽の光を存分に浴びている。
空間を贅沢に使ったリビングに案内された紅姫は、ぬいぐるみをぎゅっと抱き締めたまま座して待った。視線は調理に打ち込む美水の背に一直線である。
「お待たせしました。本日最初の料理でございまぁす」
じっと見つめていたため急に振り返った美水と視線がぶつかったが気合で耐えた。紅姫が健闘できたのは、またしても料理による影響が大きい。それだけ美水が運んできた料理は予想を超えていた。
「……肉じゃが?」
「私の自信作なの! ねえねえ、どうかな? どうかなぁ?」
言いたいことは色々あったが、女神に迫られては従うしかない。ぬいぐるみを愛でるルーティーンも忘れ、紅姫はホクホクのじゃがいもと出汁が染み込んだ牛肉を一緒につまんで口に入れた。
その瞬間、言いたいことのすべてがたった一つの言葉に統一されていた。
「……おいしい」
「よかったぁ……まだまだ作るから存分に味わってねっ」
意気込みたっぷりの言葉通り、美水は次々に料理を仕上げてきた。デミグラスソース添えのオムレツ、バジル香るチキンステーキ、色鮮やかなサーモンカルパッチョ、厳選した黒豚を使ったカツ丼などなど枚挙にいとまがない。
そのすべてを紅姫は食べつくし、めくるめく極上の味にその身を投じたのだが、食べ続けて自分のペースを取り戻すと最初に気になった点が再び顔を出したようだ。
「……ねえ、聞きたいんだけど」
「なぁに?」
「これ、本当に新メニューなの? 中華料理店ではなかったかしら」
節操も統一性もない料理の群れに挑めば、その意見が出るのも頷ける。本当は一発目の段階で思っていたのだが、その記憶は女神の魔力によって消されているので気にしてはいけない。
「変化球もいいかなって。ほら、和食料理屋さんでもデザートにパフェ出してるとこあるじゃない。ああいう感じ」
純真満天の笑みで言われては紅姫も言い返せない。美味を堪能できるのだから文句を言う理由もない。あるのは料理と美水への並々ならぬ探究心だけだ。
食後の紅茶で口を湿らせると、ここで食べてきた料理たちに思いを馳せそうになる。馳せるに至らなかったのは美水が隣に座ったからであり、その上で体を紅姫に近付けてきたからでもある。心の動揺を紅姫はぬいぐるみの手をにぎにぎすることで紛らわした。ここ数日、美水のことを考えるたびに心が騒いでしまう紅姫から濃厚なスキンシップをされているが、愛用のクマちゃんは耐久性が高いらしく今でもふかふかボディを維持している。
「ねえ、紅姫ちゃん」
「……何かしら」
甘い声色に乗せられたわずかな重みに紅姫は身構える。
「チャレンジメニューを制覇したら……また別の店に行っちゃうの?」
「今も別の店に行ってるわ」
「それは知ってるけど、そうじゃなくて……龍泉にはもう来てくれなくなっちゃうの?」
「……それは」
すぐには答えられなかった。
そんなことない、と言うのは簡単だろう。だが、だからといって口に出せるかというのは別の話になる。
「紅姫ちゃんに会えなくなるの、やだなぁ……」
素直な気持ちを乗せた呟きと共に、美水は手を伸ばす。言い終えると同時に紅姫の手へ到達し、ふわりと包み込んだ。
憧れの女神様が自分に触れている。紅姫の動揺は臨界点を超えて無表情を維持できず、影響が頬の赤みとなって具現化し始めた。ぬいぐるみの手を求める速度も増している。クマちゃんの手をにぎにぎする紅姫の手をにぎにぎする美水という奇妙な三連結を披露していることを当の二人は気にしていないようである。
「紅姫ちゃんに教えてほしいことがあるんだけど、いい?」
いつの間にか腕までも絡みつかれていた紅姫に断るという選択肢は存在しなかった。拒否しないということは消極的な肯定の意思なのである。
「あの日、どうして時間内に食べきれなかったの? 最後には完食してたから、お腹がいっぱいだったわけじゃないよね?」
「……」
人生において沈黙が答えとなる場面は多数あるが、今はそうではない。名家な答えを言葉にする必要がある。
伝えたかったけれど口にできなかった想い。他では見せたことのない姿をたくさん見られてしまった二人きりの時間。料理人でありながら美麗な肌を保っている手の感触。頭の中をひっくり返されるような美水の匂い。
様々な事象が紅姫の中で駆け巡り、やがて正直な言葉が誕生した。
「あの料理は……味わって食べたかったの。初めてのおいしさで、時間なんかどうでもよくて、夢中になってた」
「だから、ペースが乱れちゃったのね」
頷く紅姫と頬を綻ばせる美水。
二人が漂わせる雰囲気に味をつけるなら、それは甘い以外にないだろう。
「私の料理、好きになってくれたんだ?」
「……そうよ」
「じゃあ、私のことは?」
「えっ」
「私は紅姫ちゃんのこと、好きよ」
ご存知の通り、紅姫は唐突な攻勢に弱い。しかも相手は心をざわめかせる張本人である。答えなど最初から決まっていた。
けれどこれは紅姫にとって初めての経験。人生という壮大な舞台においても美水とは十年ほどの差がある。
「……私も」
なので、言葉を返せただけで称賛に値すると考えるべきである。か細くて断片的でも、同じ考えだということを示せば十分なのだから。
「これからも来てくれる?」
「……そうね。龍泉以上の味を知らないから」
「紅姫ちゃんの一番でいられるように頑張るねっ」
緊張で乾燥した口内を潤そうと紅姫は紅茶に手を伸ばす。
すっかり冷めてしまっていたが、熱い体を冷ますにはちょうどよい味わいだった。
甘い空気は感覚を狂わせ、物事の始まりと終わりを曖昧にしてしまう。
ぬいぐるみの手を握っていたはずの紅姫は、いつしか美水の手と繋がっていた。
かと思えば、美水の膝に座らされて苺を食べていた。もちろん口に運ぶのは美水の手である。背中にあたる柔らかいものが様々な感覚を狂わせて紅姫の顔は真っ赤になっていた。
曖昧な時間感覚は、二人の時間が永遠であるかのような錯覚を引き起こす。
ぬいぐるみを抱く紅姫を抱く美水という奇妙な三連結の進化系を披露しているが、今回は二人ともそのぬくもりを確かに自覚して心に留めようとしたのだった。
再び訪れた挑戦の日。
待ち受ける結果はわかりきったものだった。
「チャレンジ失敗の料金、ちょうどお預かりしまぁす」
最高の料理と味には相応の礼儀で挑むべし。
紅姫の舌を唸らせ歩みを遅らせる那由他曝山麺は、いつ食べても偉大なのである。
「とびきりの食材を用意しておくから……今夜も来てね」
その囁きは紅姫だけに向けられた愛の言葉。ギャラリーの耳には届いていない。
「美水さんがプリンセスに何かを耳打ちしてますね」
「一体なんでしょうか……あっ、今プリンセスが微笑みました!」
「えっ、いつも通りのクールビューティーなお顔ですけど」
「私にも見えました。姫ちゃん、とても嬉しそうでした……」
「プリンセスの頬を緩ませるほどの味……美水さんであれば当然ですわ」
「もしかして、これはおねロリなのでしょうか……?」
情報が不明瞭である方が、観察眼を磨き上げたギャラリーには好都合のようだ。彼女たちは目の保養ができて精神をぽわぽわさせられれば満足なのである。
店を後にした紅姫を追って店外に出た淑女の方々は、その背中が見えなくなるまで敬愛するプリンセスの姿を見送った。
その夜、美水の家で舌鼓を打つ紅姫の姿があった。
囁かれた予告通り出された料理はどれも一級品で、紅姫は豪華な味覚のオーケストラに陶酔していた。
「やはり私が求めていたのはこの味だわ。あなたの作る料理こそ至高にして究極。いくら食べても飽きないもの」
二人が交際を始めて半月ほどが経過している。それだけの時間があれば、恋愛ビギナー宮古紅姫も愛する人を前にしただけでドギマギすることはなくなった。食の探求者として下すべき判断や味への評価を並べる口調は普段通りだ。
それでも好きなことには変わりないので頬を染めたりはにかんだりといった愛らしい表情を見せることはある。ちなみに熊のぬいぐるみは連れてこなかった。紅姫も乙女なので、二人きりの時間を大切にしたいという気持ちがあるのだ。クマちゃんはベッドの枕元で主人の帰りを待っている。
「もうっ、褒めすぎよぉ……でもありがと。紅姫ちゃんに認められて、すーっごく嬉しい♪」
紅姫が食べる様子を隣でずっと眺めていた美水が頬に手を当てて体をくねらせる。今日は自分の手で「あーん」と食べさせることはせず終始観察を続けたい気分だったらしい。
熱心に見られていても紅姫は動じずに料理を味わえていた。恋人の目を独占していることは照れるけど幸せであるし、視線についてはギャラリーから何度も注視され続けたこともあって耐性がついていたのである。
喜びを全身で表現する傾向にある美水から抱擁を受けても、まだおずおずとだが背中に腕を回して応じられるようになった。料理だけでなく愛の味にもやみつきになったようである。
しばらく体温と柔らかさを堪能していれば、自然と雰囲気はある種の色を帯びていくものである。
美水が耳元で囁いた。
「紅姫ちゃん……メインディッシュはこれからだよ」
何を出されるのか、と紅姫が思う間もなく答えを示された。
物ではなく行動で。
紅姫の頬に唇が触れたのである。
「ひゃっ」
初めて知る感触に押し出されたような声。間近に迫る美水の顔を直視できず、反対側へと視線を逸らす。
しかし顔は固定したまま。美水から逃げることはしない。それが答えのようなものだ。
何が起きてもいいように、紅姫は心の準備だけはしてきたのだから。
頬への短いキスを繰り返しながら、唇の触れる位置が段々と中心へ近付いてくる。
知らぬ間に薄く開いていた紅姫の唇へ。
「……んっ」
規則的だった接触はそこで一瞬の間を置いて。
美水は紅姫と唇を重ねた。
今自分がしていることの意味を知って燃え上がる顔と心を自覚しながら、紅姫は初めての口付けをもっと味わいたくて感触に身を委ねたかった。
なのに。
「ふふっ……おいしかった?」
いいところでお預けを食らった気分である。離れた唇から出る言葉に答える術を紅姫は持っていない。
だから。
「もっと確かめないとわからない……」
告げた。
たくさんの初めてを教えてくれた美水と、更なる初めてを経験したい。探求者は底無しの欲を持つからこそ探求者と名乗るのである。
猫のように形作られた美水の唇が再び接近し、重なる。
すべてを凌駕すると考えていた美水の料理を軽々と追い抜くような、そんな圧倒的という言葉を体現したかのようなキスだった。紅姫はこの瞬間、幸せの味というものを理解し体感し没入したのだった。
「もっと、もっとほしい……」
「紅姫ちゃんは食の探求者だもんね。いいよ、存分に味わってねぇ……」
今の紅姫は飢える狂戦士。瞳に宿るのは欲望の色。美水のすべてを味わい尽くしたくてたまらなくなっていた。
対する美水は熟練の誘い受け。未熟な想い人を導くのが年長者の務めである。
舞台はリビングから別の場所へ変わり、めくるめく時間無制限の食べ放題が開催される。もちろん飲み放題もついてくるので心配無用。
ここからは二人だけの世界。
一人寝が確定したクマちゃんのように、誰も紅姫と美水を邪魔できない。
今度は紅姫から距離を詰めた。
唇同士が重なって離れる。
そんな微かな水音が食事開始の合図となるのだった。