21 ある男の人生②
リメイク版です。
男は、以前のように、杉本の生活を監視することから始めた。
杉本は、電車で一時間ほど離れた街にあるマンションへと引っ越していた。今は次女と二人暮らし。長女の姿はない。次女は二駅ほど離れた場所にある高校に通い、杉本はというと、変な宗教にはまっているようだった。
「頭が逝かれちまったのか?」
男でも戸惑う変化だった。
杉本の通っている宗教団体について調べてみると、ネットでは、オカルト集団に認定されているきな臭い連中だった。精神的に弱っているところに付けこみ、信者を増やしているとか。
「相当、こたえたみたいだな」
杉本にダメージを与えたという点では嬉しいが、素直に喜べる状況ではなかった。
変な宗教にはまっているとはいえ、信仰心のある人間にさらなる揺さぶりをかけるのは難しい。信じるモノが彼に救いをもたらすからだ。ゆえに男は、まずは次女の方を不幸にすることにした。宗教なんかでは救えない現実を痛感させてやろうと思った。
次女の行動を観察する。家から学校に行くまでのルートとどの時間帯か。そして、学校から家に帰るまでのルートとその時間帯。さらに、交友関係についても調べた。
次女には仲の良い友達が三人いる。放課後、四人で一緒にいるのをよく見た。友達と楽しそうに喋っている次女を見ていると、形容しがたい息苦しさを感じる。もう二度とは経験できない現実がそこにはあった。
そしてある日のこと。いつも通り、四人で美術館に行った。そこまでは良かった。しかし、同級生と思しき少年が声を掛け、合流した瞬間、男は殺意を覚えた。青春のきらめき。自分が欲してやまなかったもの。そのきらめきを次女が手にしようとしている。
「何で、あんなクズの娘が、人並みの幸せを手にできるんだ」
不幸にしたい。男の中で黒い感情が渦巻く。親が償うべき罪を、子供に償ってもらおうと思った。
次女たちが受付へ移動する。次女は少年と楽しそうに話をしていた。そのとき、少年の一人と目が合いそうになって、男は慌てて目をそらす。次女に話しかけた少年だ。
次女たちはそのまま展示室へ行った。
どうする? 男は考える。ここで次女を不幸な目に遭わせるか? それとも別の場所でやるか……。
そのとき男は、一枚のポスターを見つけた。『変なオブジェ展』と書かれたそのポスターの背景には、金色の球の写真があった。近くにいた職員に話を聞くと、この展示物は屋上にあるらしい。
男はポスターを眺め、もしかしたらこれは使えるかもしれない、と思った。
受付を済ませ、入場。男は屋上へ急いだ。屋上には、まだ、次女たちの姿はなかった。男は『金未来』というオブジェを注意深く観察する。球はしっかりと固定されているようだ。球を叩いてみる。音の感じから空洞のようだ。
男は気難しい顔でオブジェを眺めた。うまくできるだろうか。
「まぁ、やるのは俺じゃないしな」
男がオブジェから離れたタイミングで、次女たちが来た。男は暇を持て余す公園のサラリーマンめいた風貌でベンチに座り、次女たちの行動を眺めた。あくまでも自然に。
眺めながら男は不安になった。次女は自分が期待するような行動をしてくれるだろうか。しかしその心配は杞憂だった。次女は友達がいるベンチから離れ、話しかけてきた少年がいる手すりの方へと向かった。
もしかして、あいつは彼氏なのか?
男は唇を噛む。あの少年が何者であっても関係ない。運がなかったと思って、受け入れろ。少年に対する慈悲はなかった。
男は立ち上がると、掃き掃除をしていた清掃員に話しかけた。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
体格の良い中年男性だった。男は清掃員の目を見つめる。意識を、捉える感覚があった。久しぶりだったが、うまく力を使うことができた。清掃員の目が濁り、夢でも見ているかのような顔つきに変わる。
男は耳元で囁いた。
「あの少女に向かって、丘の上の球を押せ」
「わかりました」
男はニコニコ顔で、清掃員から離れた。
清掃員は箒を持ったまま、オブジェと近づいた。オブジェに手を付けると、押し始めた。清掃員の顔が赤くなり、二頭筋が盛り上がる。ぴしっ、ぴしぴしっ、と剥がれるような音がして、球が外れた。
球は、次女に向かって、勢いよく転がる。
悲鳴が上がる。男は確信し、ほくそ笑む。
が、丘を下ったところで、オブジェが跳ねた。
「何!?」
思わず声が出て、男は慌てて口を押える。そんな馬鹿な。あと、少しだったのに。男は放物線を描きながら落下するオブジェを見送った。
くそっ、あと少しだったのに。
「待て!」
我に返った清掃員が追いかけられている。ここにはもう用はない。男は苦虫を潰したような顔で、足早に出入り口へ向かった。
翌日。男は次女の行動を観察しながら、次女を不幸にする方法について考えていた。
次女は昨日の少年と二人でデートをしていた。アイス屋で一緒に仲が良さそうにアイスを食べていた。やはりあの二人は付き合っている。何としても不幸にしたい、と男は思った。
しかし二人の間の楽しそうな雰囲気も、次女にかかってきた一本の電話で変わった。誰と話しているのかはわからないが、目に見えて次女が不機嫌になって、それで、二人のデートもグダグダな感じになった。
どうしたんだ? その日は余計なことをしないことにした。
次の日の土曜日。杉本は出かけたが、次女が外に出ることはなかった。
日曜日。昼を過ぎたところで、次女は出かけた。本屋によって、コンビニに立ち寄る。外出時間は一時間ほどだった。
そして翌日の月曜日。駅の改札を抜けたところで、振り返り、ホームに向かう次女を見つけた。今日はいつもより早い。男は慌てて改札を再び抜けたが、次女が乗った電車には間に合わず、次の電車で、高校の最寄り駅まで行った。
次女を見つけることはできるのだろうか。男は電車を降り、急いで次女を探した。そして見つけた。あの少年と一緒に登校する後姿を。
わざわざ朝から見せつけるために早く登校したのか?
男は馬鹿にされた気がして、突発的な怒りが湧いた。
その怒りに任せ、男は二人を追いかけ、二人が学校前の橋へと続く横断歩道を渡ったところで、コンビニの駐車場に停車中の車に目を走らせる。運転席でコーヒーを飲むサラリーマン風の男がいた。
男は駆け寄り、ウィンドウをノックした。運転手はウィンドウを下ろす。
「何ですか?」
「俺の目を見ろ」
「えっ?」
運転手の意識を掴むのに時間は掛からなかった。運転手の濁った瞳を見つめながら、男は言った。
「あの橋の上にいる二人をひき殺せ」
男は気づく。あまりにも抽象的な言い方で、運転手にちゃんと伝わらない可能性がある。男は橋の方へ向けた。二人はもう少しで橋の中ほどまで進む。
「さっきの命令は訂正だ。○○高校の制服を着たカップルをひき殺せ。いいな?」
運転手は頷く。幸いなことに、コンビニから二人の間まで、条件に一致する人間はいない。
男は運転手が橋へと続く信号を渡ったのを見届けると、悠然とした足取りで、自分も橋を目指した。
クラクションが鳴る。誰がやったのかは知らないが無駄だ。車が歩道に突っ込んでいくのが見えた。さらに、対向車線の車も手元が狂ったのか、車道へと進み。事故が波及する。だが、男にとってはどうでもいいことだった。次女と彼氏さえ死んでくれれば、それでいいのだ。
事故現場に到着する。男は不敵な笑みを浮かべていたが、目の前の光景を見て、愕然とした。
二人は生きていた。しかも、見つめ合って、いい雰囲気である。
「そんな馬鹿な。何で」
動揺する男。「なぜ?」で頭が埋め尽くされるが、パトカーのサイレンで我に返る。男は舌打ちし、足早に駅へと戻った。
その日の放課後。男は学校前にあるカフェから正門を監視していた。
頻繁に利用するため、店員から不審な目で見られていることは承知している。だから、小説家だと言って、パソコンで作業し、店員にも気さくに話しかけるようにしている。変な客だとは思われているだろうが、警戒まではされていない……と思う。
その日は放課後になっても次女が現れなかった。代わりに彼氏が、気難しい表情で正門のそばにいた。
彼も次女を待っているのだろうか?
男は彼氏を睨みつけた。
それから30分ほど経っても、次女は現れない。
もしかして裏門から帰った? それとも部活?
男は裏門を調べるべく、店を後にして、学校の周囲を歩いた。怪しまれないように、学校の方を見ながら、次女の影を探した。しかし見つからなかった。
正門の方へ戻ろうとしたとき、男の隣を彼氏が過ぎた。次女の香りがして、男は振り返る。が、次女の姿はなかった。
気のせいか?
男はカフェには入らず、人を待つフリをして、正門の監視に戻った。
待つこと10分。次女と仲が良い友達三人が、悩ましい顔つきで現れた。男はその後をつけ、耳を澄ませる。うまく聞き取ることはできなかったが、断片的な話から推測するに、次女は彼氏とともにどこかに行ったようだ。
男は慌てて、先ほど彼氏とすれ違った道へ戻る。しかし、当然だが、彼氏の姿はなく、男は「くそっ」と近くにあったペットボトルを蹴飛ばした。
次女がどこに行ったかわからないので、マンションの前で待機していると、19時ごろに次女が現れた。街灯で照らされた彼女を見るに、泣いているようだった。
彼氏とでも喧嘩したのだろうか。慰めたいと思って、声を掛けた。
「あの」
次女が振り返る。男を見て、眉をひそめた。警戒されている。男は笑みを作り、慰めるように言った。
「どうしたの? 泣いているみたいだけど」
「何でもないです。大丈夫なんで」
次女は撥ねつけるように答え、背を向けた。その態度に、男はムッとする。心配しているのに、その態度はあり得ない。やはり、こいつは杉本の娘だな、と思った。
「ああ、ちょっと待って。君、杉本義則君の娘さんなんだよね?」
「そうですけど」
男はじっと次女を見つめた。意識を捕まえた感覚はあるものの、いつもより不安定で、瞳の濁りは薄く、するりと逃げてしまいそうだ。早く何か命令しなければ。男はとっさに頭の中の言葉を口にした。
「死ね」
次女が目を見開く。濁りは晴れ、男を睨む。
「ああ、ごめん」
男はまごつき、頭を掻く。次女は逃げるようにその場から去った。その背中を眺め、男は唇を噛む。なぜ、「死ね」なんて命じてしまったのだろう。もっと、別の命令をすれば良かった。杉本を苦しめるようなそんな命令。
いや、でもこれで良かったのかもしれない。男は思いなおす。今の杉本にとって、唯一と言っていい理解者が死ねば、杉本はもっと苦しむはずだから。
男はこれで良かったんだ、と自分に言い聞かせる。しかし心配そうに、杉本が住む部屋の窓を見上げた。
翌日。男は反省を活かし、朝からマンション前の公園で待機していた。しかし、いくら待っても次女は現れなかった。
自殺してしまったのか?
男は焦る。それにしては、マンションは静かだった。事件があったようには見えない。
10時頃、杉本が現れる。いつものように足を引きずりながら、どこかに行くようだ。反応を見るに、次女は死んでいないようだ。しかし本当に死んでいないのか? 男は不安になって、杉本に声を掛けようとしたが、体は動かなかった。
「くそっ、あいつはもう恐れるに足りない奴なんだぞ!」
男が自分を叱咤しているうちに、杉本の姿は見えなくなっていた。
それから約1時間後に、杉本が買い物袋と小さな箱を持って、戻ってきた。男は弱気な自分を奮い立たせ、杉本の前に立った。
男は中々、杉本の顔を見ることができなかった。遠くから見る分には問題ないが、いざ対峙するとなると、高校時代の嫌な記憶が胸を引っかいた。
俺はもう、昔の俺じゃない!
男は勇気を出して、顔を上げた。そして、呆気にとられた。杉本が、昔よりも小さく見えたからだ。
あのときの杉本は狂犬めいたぎらつきのある男だった。しかし、今、目の前にいる男に、そんな鋭い光はなくて、流木めいた老いが滲み出ていた。
こんな男だったか? 杉本は?
呆然とする男に杉本は言った。
「あの、どちら様でしょうか?」
「あ、えっと」男は一瞬まごつくが、目の前の老人には負けまいと強気になって答える。「俺だ。佐藤真治だ」
「佐藤真治? ……あぁ、真治君か」
真治君?
杉本の君付けに、男は寒気を覚えた。杉本は、自分に対し、君付けをするような人間ではなかった。と同時に、ふつふつと怒りが湧いてきた。自分が復讐したい相手は、こんな杉本じゃない。
「どうしたの? 今日は? もしかして、手紙の件で?」
「そうだ」違うけど、文句の一つでも言いたい気分になった。「お前に言いたいことがある」
「ああ、そうか。そうだよな」
杉本は知った風に頷き、申し訳なさそうに眉尻を下げる。その態度に、男のイライラはさらに募るのだった。
杉本に部屋に案内される。リビングへ通された。その途中で、次女を見かけることはなかった。男は何気なさそうに聞く。
「一人で住んでいるのか?」
「いや、娘が一人いる」
「そうなんだ。学校?」
「今日は行かないらしい」
「何で?」
「さあ? 俺にも教えてくれない」
「ふぅん。それじゃあ今、いるのか。挨拶でもしようかな」
「いやいや、真治君の手を煩わせるわけにはいかないよ。俺が呼んでくる」
杉本が次女の部屋へと向かった。その後ろ姿を見て、男は舌打ちした。
杉本が戻ってくる。しかし次女の姿はなかった。
「寝ているみたいだ」
「そうなんだ」
次女の無事を確認したかったが、後回しにしよう。まずは、この男の相手が先だ。
「ああ、お茶を出さなきゃな。ちょっと待っててくれ」
杉本は台所へと向かい、何かしらの作業をする音が聞こえた。が、途中で音が止まった。男が目を向けると、杉本は手元を見て固まっていた。手元に何があるかは、男からはわからなかった。
「どうした?」
「いや、何でもないよ」
杉本は笑い、また作業に戻って、お茶とケーキを持って戻ってきた。
「これを食べてくれ」
「すまない」
杉本は居心地が悪そうに、男の対面に座った。
沈黙。
その沈黙を破るように、杉本が言った。
「それで、えっと、真治君は手紙の件で来たんだったよね」
「そうだ。あんな手紙じゃ、お前からの謝罪の気持ちなんて、さっぱり伝わらない」
「そうか。そうだよね」
杉本はおもむろに立ち上がると、男の前で土下座した。
「真治君。あのときは、いじめたりして、申し訳なかった」
力のこもった声音だ。
しかし男は、冷めた目で杉本を見下ろした。
ああ、何て軽い土下座なんだろう。
男は当時の自分の土下座を思い出す。あのときの自分は、不愉快な思いをさせて申し訳ないという謝罪の気持ちがあった。しかし、それだけではなかった。何も悪い事をしていないにも関わらず土下座をしなければいけない理不尽さに対する嘆き。他の人にも見られているという屈辱。自分を見て笑う杉本たちに対するどうしようもない憤り。そういった複雑な感情が重なり合った土下座だった。
しかし、目の前の男はどうか。ただ、謝罪をすれば、それで許されると思っている人間の土下座だった。そんな人間に土下座されたところで、男の心には響かなかった。むしろ込み上げるのは、怒りである。杉本の土下座は自分を馬鹿にしているようにしか見えなかった。
「ふざけるな!」
男は大声を出して、立ち上がった。テーブルの上にあったティッシュを、杉本に投げつけた。杉本はじっと耐える。
「ふざけるな。そんな、そんな謝罪で、許されると思うなよ! 俺の、俺の人生が、そ、そんな謝罪で」
「わかってる。だから、ちゃんと、謝りたくて」
「それが、わかってないと言ってるんだろう!」
男の額に青筋が浮かぶ。この馬鹿にわからせるためにはどうしたらいい? やはり、この男には復讐が必要だ。自分が行ってきた罪の重さを理解できるだけの復讐が。
そのとき男は視線を感じ、顔を上げた。リビングの扉の隙間から、次女がこちらを見ていた。目が合う。その瞬間、男は思いついた。杉本を苦しめる最高の復讐を。
「おい、杉本」
男はしゃがみ、杉本の肩を叩く。杉本が顔を上げる。救いを求める顔だった。
「許してほしいか?」
「は、はい」
「なら、俺の目を見ろ」
男は卑しく笑った。




