9 仲良くなるには
リメイク版です。
悩み相談を聞いた後の反応に違う部分がある。
橋の上の会話や展開が違います。
事件があった翌日。真治はいつも通り登校した。
「昨日は大変だったね」と菜穂は語る。「あの犯人は、無実を主張しているらしいよ」
「らしいね」
新聞にもそう書いてあった。
「素直に認めればいいのに。危うく、大きな事故になるところだったんだよ」
「そうだな」
昨日の男の顔を思い出す。必死に「知らない」を繰り返す男。嘘を吐いている人間の顔には見えなかったが、真治にはよくわからなかった。
「ねぇねぇ、真治ぃ。アイスを食べに行こうよ」
「今日?」
「うん。気分を変えたいからさ」
「まぁ、いいけど」
「やった。それじゃあ、決まりだね」
そして、放課後。菜穂と一緒にアイス屋へ行った。菜穂と店の近くに設置されたテーブルでアイスを食べていると、菜穂のスマホが鳴った。菜穂はスマホを手にとり、眉をひそめた。
「どうしたの?」
「パパからだ。何だろう? ちょっと、ごめんね」
菜穂は離れた場所で電話に出た。
真治はアイスを食べながら、菜穂を待った。二三分経っても、帰ってこないから、目を向けると、口論しているようだった。菜穂の顔が苛立っている。
何か問題が発生したのか? 真治は心配そうに眉根をよせる。
菜穂が戻ってくる。先ほどまで、ニコニコしていたが、今はむっとしている。席に戻るなり、「最悪」と口をとがらせた。
「何か、あったの?」
「パパが、昨日のこと、私が美術館にいたことを、今頃になって知ったらしく、それでいつもの、『何か悪いことをしたのか』って。ひどい父親だと思わない? 普通、娘の心配をするでしょうが」
いまいち状況はわからないが、真治は取りあえず頷く。
「確かに。ひどい父親だ」
「はぁ、マジで何なんだろう。あの人……」
真治は何と声をかけるべきかわからず、小さくなってアイスをつついた。初めて二人を見たときは和やかな雰囲気に見えたが、色々複雑な事情があるようだ。
「これ、あげる」
菜穂がアイスの入ったカップを真治に寄せる。
「え? いらないの?」
「何か、そんな気分じゃなくなった」
「ふぅん。ありがとう」
真治はアイスを受けとり、菜穂を一瞥する。
菜穂は物憂げな表情で目を伏せ、思案している。そんな彼女に、何と声を掛けるべきか、やはり、わからなかった。
思えば45年間、人の悩みに真摯に向き合うということができなかった。自分に相談する人が少ないということもあったが、それはきっと、悩みを相談する価値がない相手だと思われているからだ。そして、その評価は正しい。数少ない相談に対し、的確な返答をすることができなかった。いつもみんな、「ありがとう」とは言うけれど、それ以降、自分に相談することはなかった。
「45年、生きてきたんだけどなぁ」
真治はぼやく。圧倒的な暴力じゃなくて、対話で人に勇気を与える、司教みたいな力が欲しいと思うことがある。
その思いが今、強くなっている。
菜穂への電話があってから三日が経った。あれ以来、菜穂は元気がない。真治が話しかけると、ちゃんと笑顔で対応してくれるが、その顔には影があって、自分の抱える悩みを話そうとはしなかった。
やはり俺は相談するに値しない男なのだろうか。年齢に比例しない自身の精神的未熟さに、真治はため息をもらした。
「焦りすぎだと思いますよ」
その声に耳を傾ける。ラジオの人生相談のコーナーだ。たまたまつけていたら、自分と同じように、最近仲良くなった友だちが悩んでいるが、その悩みを話してくれないことを嘆いているリスナーがいた。
講師は言う。
「あなたたちはまだ、出会って間もないんでしょう? なら、あなたは、まだまだその友だちのことを理解していないでしょうし、あなたの友だちもあなたのことを理解していないんだと思います。だから、今は焦らないで、ゆっくりと互いのことを理解して、信頼関係を構築すべきだと思いますよ」
良いこと言うなぁ、と思った。
確かに、自分は菜穂のことをよくわかっていないことに気づく。出会ってまだ一ヶ月。菜穂の父親が杉本であることは知っているが、他の家族についてはよく知らない。菜穂は肉や魚が好きなことは知っているが、どんな料理が好きかは知らない。バニラが好きと言っていたけど、他に好きな味はあるのだろうか。二人で出かけたりして、仲が良いと思っていたけれど、まだまだ知らないことの方が多い。
「焦らないで信頼関係の構築を、か……」
では、どんな風に信頼関係を築けばいい?
考えているうちに、真治は思った。
「何か、こういうの久しぶりだな」
適当に生きていれば、人間関係すら何とかなった異世界とは違う。
真治は自分が元の世界に戻ってきたことを実感し、苦笑した。
週が明けた月曜日。駅の改札を抜けると、菜穂の後ろ姿があった。元気のない背中。その背中に、何と声を掛ければいいのだろう? 考えはまだ、まとまっていなかったが、取りあえず、声を掛けることにした。
逃げるな、おっさん!
真治は自分を叱咤し、菜穂に駆け寄った。
「おはよう、菜穂さん」
菜穂は振り返り、真治を認めると、微笑んだが、影がある。
「おはよう、真治」
「珍しいね。こんな時間に登校なんて。いつも、もう少し早くない?」
「うん。まぁ、そんなときもあるよ」
「へぇ」
菜穂が歩き出す。真治も隣を歩いた。
二人の間に会話は無い。何か話さねば。真治は空を見上げる。
「今日は良い天気だね。洗濯物でも干してくればよかったかな」
「確かに、よく乾きそうだよね」
「うん、だよね」
会話が途切れる。返事のチョイスを間違えた。もう少し、会話を広げるような返事をすべきだった。
しかし、会話を続けた方が良かったのか。菜穂の横顔を見ていると、そんな疑問が浮かぶ。今の彼女には、どれほど面白い話でも、楽しむ余裕が無いように見える。
では、どうすればよいのか。
真治は考え、ストレートに質問しようと思った。自分は話術のプロではないから、巧みなアプローチによって、彼女の悩みを聞きだすことはできない。そのため、直球勝負が最善策だ。しかしそれは、諸刃の剣でもある。下手したら、今の関係に、悪い意味で大きな変化が生じるかもしれない。それでも、何もしないよりかはましだった。
吉と出るか凶と出るか――。
学校へ行く途中にある橋の中ほどで、真治は口を開いた。
「菜穂さん。最近、元気ないみたいだけど、何かあった?」
菜穂は何も言わなかった。
まずったか。真治は顔をしかめる。
しかし菜穂は無視をしたわけではなかった。数秒の間があってから、立ち止まり、真治を見すえる。
「私、元気がないように見える?」
「うん」
「そっか、やっぱり、そう見えるのか。この前も言われたんだよね。最近元気ないねって」
自分以外にも菜穂を気遣う人がいた。それは良いことであるはずなのに、真治は少しだけ面白くなかった。
「何かあったの? もしかして、父親のこと?」
「まぁ、そんなとこ」
菜穂は暗い顔で目を伏せた。この先を聞いてもいいのだろうか。真治が逡巡していると、菜穂は欄干に手を置き、川へ目を向けた。真治も菜穂と同じ景色を眺める。
「最近、パパとどんな風に接したらいいかわかんなくてね。まぁ、昔からわからなかったんだけど」
「なるほど。親との付き合い方か。その気持ち俺もわかるよ」
「本当?」
菜穂を一瞥する。菜穂は真治の次の言葉を期待していた。しかしできれば、親の話はしたくない。そこで真治は気づく。自分が心を開かなければ、相手も心を開かないのではないか、と。だから真治は少しためらいながらも、口を開いた。
「俺の母親は、俗に言う、マルチ商法ってやつにはまっててさ、困ったんだ」
「え、そうなの?」
「ああ。誰にも話してないんだけど。誰にも話せないし」
「確かに、そうだよね」
「だから、誰にも相談できなくて、すげぇ、悩んだな」
「そう、だったんだ。真治も大変なんだね」
「まぁ、今は縁を切ったから、そうでもないんだけど。でも、当時は大変だった」
切ったというよりも勝手に切れたという方が正しいか。15年も前のことだから、よく覚えていない。思い出したくないだけかもしれないが。
真治は自嘲する。
「ろくでなしの親を持つと大変よな」
「そうなんだ。真治も親のことで悩んでいたんだ……」
菜穂は悩ましい顔つきで川を眺めた。何か考えているようだ。真治は急かすことなく、菜穂の言葉を待った。
すると菜穂は、意を決した表情で真治を見た。
「実はね、真治。私のパパもね――」
そのとき、けたたましいクラクションとともに、歩道にトラックが突っ込んできた。
菜穂は振り返り、大きく目を見開く。真治は即座に動き、菜穂の手を引くと、抱きしめ、車道へ跳びだした。と同時に、【念動魔法】を発動する。トラックを欄干にぶつけながら減速させ、前を歩いていた歩行者にぶつかるギリギリの所で止めた。
しかし事故はそれだけでは終わらなかった。車の後ろを走っていた後続車が、突然車道に出て来た真治に驚き、ハンドルを切って、反対車線に進入。反対車線を走る車とぶつかる――寸でのところで、真治は反対車線の車の軌道をずらし、正面衝突を回避させた。車体がこすったものも、命に比べれば安いものだ。
問題はまだまだ続く。トラックの後続車は、正面衝突は回避したもの、反対車線の後続車とぶつかりそうになっている。また、反対車線を走っていた車は歩道に乗り上げ、歩行者をひき殺そうとしている。さらに、後続の後続車の運転手が、パニックになって、手元が狂い、新たな事故が起きそうだ。混乱が橋全体に伝播している。
ええい、面倒くせぇ!
真治は橋全体に【念動魔法】を掛けた。人や車だけではない。羽を休める蝶でさえも、真治の思いのままに動く。大事故になってもおかしくない状況を、死傷者を出さず、かつ自然な感じで乗り切る。簡単なことではないが、難しいことでもない。真治は不敵に笑った。
橋のあちこちで悲鳴があがり、車が急ブレーキをかける音が聞こえ――静かになった。
その橋の上で起こったことを理解できている人間は一人しかいなかった。が、人々は状況を理解し始め、橋の上は騒然となった。
「もう、大丈夫だ」
真治は菜穂を抱きしめていた手を解く。
菜穂はおそるおそる真治の胸から顔を放し、辺りの状況を確認した。歩道に突っ込んだトラックを認め、運転席の辺りにできた人だかりに息を呑む。
「安心しろ。誰も死んでないから。あれは、運転手を心配して、人が集まっているんじゃないか?」
「そうなんだ、良かった」
そこで菜穂は、真治が近いことに気づき、赤くなって、真治を軽く突き飛ばした。
「ち、近いって」
「ああ、すまん。助けようと思って」
「あ、そうか。真治が私を助けてくれたのか。ごめん。ありがとう」
「いいってことよ」
菜穂は、輪郭の柔らかい目つきで真治を見つめた。顔は赤いままである。
「大丈夫?」
真治が歩み寄ろうとすると、菜穂は後ずさった。
「だ、大丈夫だから」
「ふぅん。なら、いいけど」
「そう言えば、さっきの話なんだけど」
遠くの方でサイレンが聞こえた。警察がやってくる。
「すまん。その話はまた後で。今は、他にすることがあるだろう?」
「そ、そうだね」
菜穂のどこかぎこちない態度を、不思議に思いながらも、真治は鞄を拾い、運転手を気遣う人だかりに向かった。彼が怪我をしていないことは知っているが、何故突っ込んできたのか、その理由を探るためだ。
運転手の男は呆然と事故現場を眺めていた。言葉を失い、自分がこの事故を引き起こしたとは思ってもいない表情だ。この状態だと何も聞きだせないな、真治は諦める。
――後で警察から聞いた話によると、男が覚えていないと主張しているため、警察は居眠り運転が原因とみて、調査しているらしい。




