3 浦さん雑貨①
リメイク版です。
旧版との違いはとくにありません。
目を開けると、川があった。上流に長いつり橋があって、橋の向こうには、林立するビル群が見える。シンジはその橋に見覚えがあった。レインボー橋である。シンジのよく知る観光名所の一つだ。
「帰ってきたのか」
シンジの横を二人の老婆が通り過ぎる。そのとき、老婆が日本語で話しているのを聞いた。老婆の背中を視線で追いかけると、『犬の糞は持ち帰りましょう』と日本語で書かれた看板が目に入った。
「やはり日本か」
シンジは大きく息を吸った。風に匂いなんてあるわけないとは思うが、その風は、日本の風だった。この場所に帰ってきたって気がする。シンジの顔は自然とほころんだ。
それからしばらく懐古の念に浸っていたが、思い出したように顔を上げる。
「さて、どうしようかな」
シンジは辺りを見回す。昔より、建物が多くなったような気がする。
「まずは、現状の確認だな」
歩き出そうとして、シンジは自分の体が異世界にいたときと同じままであることに気づく。中肉中背の三十歳の肉体ではない。若い肉体だ。さらに魔力も感じる。魔法も使うことができそうだ。
試しに人差し指に魔力を集中させた。その結果、ライターほどの小さな火が点いた。シンジの顔が喜色に染まる。
「もしかして、レナさんの言っていたプレゼントってこのことか? すげぇ、ありがたい」
シンジは唇を撫で、レナの温もりを感じた。ありがとう、レナさん。彼女に対する感謝の念は尽きない。
「よし、んじゃ、行きますか!」
シンジは気合の入った顔で、一歩を踏み出した。
「時代が変わったんだな」
シンジは駅ビルの本屋で、ここが日本であること、そして自分が異世界に転生してから15年の月日が流れたことを確認した。
シンジは駅前に移動し、ベンチに座る。十五年という月日は短いようで、人々の生活が変わるのには十分すぎる時間のように思った。スマホといった技術的な面もそうだが、感覚的にも変わったような気がする。どんな風に変わったか、うまく言えないけれど、笑っている人が多い。
「って、もしかして俺、笑われてる!?」
そこでシンジは気づいた。自分が勇者の格好のままであることに。そりゃあ、笑われるわけだ、と呑気なことを言っている場合ではない。巡回中と思しき警察官と目が合った。
警察官は苦笑し、シンジに歩み寄る。逃げると面倒なことになりそうなので、シンジは大人しくその場に留まった。
「君、ずいぶんと気合の入ったコスプレをしているねぇ」
「あ、はい。頑張って作りました」
「最近多いんだよね、君みたいな子。まぁ、個性を出したいのはわかるけど、時と場所は考えるべきだよ」
「はぁ、すみません。気を付けます」
「んじゃ、今度見かけたら、補導するからね」
と言って、警察官は去って行った。
「大丈夫か、この国」
シンジは肩をすくめ、トイレに向かった。
個室に入り、シンジはベルトの金具に触れる。シンジが着ている服は、魔力を注入することで、自由に形を変えることができる魔導具で、シンジは魔力を注入し、ジーンズにシャツと紺色のカーディガンというスタイルにチェンジした。
「まだ全力はだせないな」
魔法を使用した際、筋肉痛で動き回る際に生じる不快感と似たものを覚えた。この世界で魔法を使うためにはもう少し慣れが必要みたいだ。
トイレから出て、駅の構内を歩く。そこでふと思い出した。
「そう言えば、俺の部屋ってどうなったんだろう?」
シンジは昔の居場所を思い出し、行ってみることにした。が、金がないことに気づき、眉根をよせる。
「困ったなぁ。どうしよう」
そのとき、自分の足元にカードが落ちていることに気づいた。シンジは拾い上げ、確認する。公共交通機関で利用できるICカードだった。
「すまん。使わせてもらいます」
シンジはカードを改札でかざし、ホームまで進んだ。入場する際に表示された9200円を見て、申し訳なく思った。後でちゃんと返すことを誓い、電車に乗った。
電車に揺られること12分、駅からさらに10分ほど歩いた場所に、シンジが住んでいたアパートがある。しかしそこにあるはずのアパートは無くなっていて、代わりに駐車場ができていた。
「俺のせいかもな」シンジは目を伏せる。「いわくつき物件に住みたがるやつなんていないもんな」
シンジはため息を吐き、駅に戻った。駅前のベンチに座り、ぼうっとする。毎朝のように通ったこの駅も小奇麗になっていた。
色々なものが変わってしまった、とシンジは思った。今の日本に自分の居場所はないように思える。しかし、望んでこの場所に戻ってきたのだから、頑張ってこの場所で生きていかなければいけない。でも、どうやって?
「……45年かけて培った精神力が試されるな」
そのとき、制服を着たカップルがシンジの前を横切った。シンジは羨望の眼差しでその背中を追う。俺もあんな青春を送りたかったと思う。
「あれ? でも今の俺ならできるのでは?」
シンジの肉体年齢は15歳である。15歳の少年ならば高校に入学することができる。つまりそれって、制服を着て女の子といちゃつくことが可能ってことだ。
「でも、色々問題があるぞ」
一番大きな問題は自分の戸籍がないことだ。今の日本では戸籍がないことには、人並みの生活を送るのは難しい。もちろん、複雑な事情をくみ取り、対処してくれる組織もあるだろうが、探すのが面倒だし、事務手続きも面倒そうだ。
シンジは考える。そして、解決方法を思いつく。
「あそこにならあるかもしれない」
シンジはポケットのカードを確かめ、駅に向かって駆け出した。
ベイ横は平日の昼間にも関わらず、人が多く活気があった。ここは相変わらずだな、とシンジは苦笑する。シンジは人混みを避け、人気の少ない通りを進んだ。目的の場所は横丁から外れた場所にある。
15年以上前の記憶だから、たどり着けるか不安だったが、無事に目的の店を見つけた。喧騒から切り離された静かな路地の一角にある『浦さん雑貨』。それがシンジの目的の場所だった。この店は怪しげな人間が出入りし、アウトローな商売をしていると聞いたことがある。どこでそんな話を聞いたかは覚えていないが、前に来たときには、店頭で東南アジア系の男がキャッチをしていたから印象に残っていた。ここなら、戸籍が手に入るかもしれない。
店の前に細身の人の良さそうな黒人の男が立っていた。男はシンジを認めると、笑みを浮かべ、「おう、ブラザー! よかったらコップでも買って行かないか?」と流暢な日本語で言った。
「えー。どうしようかなぁ。今月はお金がないんですよねぇ」
「まぁまぁ、そう言わず。滅多に買えない、品物があるよ」
男は有無を言わせず、シンジの手首を掴み、強引に店の中へと引きこんだ。振り払うことは容易だったが、シンジは渋い顔でついて行った。
店内は狭かった。縦に長い造りで、大人が二人並ぶと通路は塞がれる。奥に扉があって、その前にカウンターがある。左右の壁には棚が設置されていて、雑貨が陳列されていた。
「これなんて、おすすめだよ」
男が棚のコップを指さしたが、シンジは首を横に振った。欲しいのはコップなんかじゃない。
「うーん。なら、これなんてどうだ」
それから男は、次々とおすすめの商品を紹介する。しかしシンジが買う気配を見せないから、徐々に苛立ちが顔に表れる。
冷やかすのはあまり良くないな。シンジはさっさと本題を切り出すことにした。
「あの、欲しいものがあるんですけど」
「お、何だい?」
「戸籍です」
「は?」
温和な笑みが消え、男の表情は冷ややかなものに変わる。
「戸籍が欲しいんですけど」
「そんなもの。ここには売ってないよ。冷やかしなら帰ってくれ」
「なら、どこで売っていますか?」
「そんなの俺が知るわけないだろう。何だ? もしかして俺が違法滞在者にでも見るのか? ここにレイシストがいるって警察に電話するぞ」
「でも、あなたのこれ、偽造したカードですよね?」シンジは在留カードを掲げ、意地の悪い笑みを浮かべ、「ダニエルさん?」と言った。
男はポケットをまさぐる。カードが無くなっていた。男の顔に動揺が走る。カードを掏られたことも驚きだが、目の前の少年が自分の名前を知っている風であることも驚いた。一体、どうやって自分の名前を知ったのだろうか。
シンジはその答えを示すように首元を指さした。男はハッとして、シャツの中を覗いた。ネックレスに自分の名前が刻まれている。しかしいつの間に見たんだ? 男は警戒の色を濃くして、シンジを睨んだ。
「仲良くしましょうよ、ダニエルさん。俺は別に、対立したいわけじゃない。ただ、戸籍が欲しいだけだ」
「これは面白いお客さんがいらっしゃったようだ」
店の奥、扉の向こうから声がした。扉が開き、中から男が現れた。和服を着た、髪の長い、年齢不詳の男だ。男はじっとシンジを見すえ、微笑する。
「浦さん! こいつ、さっさと追い出しましょうよ! 気味が悪いよ!」
「まぁ、落ち着いて、ジョン。たまの来訪者だ。大切にしようじゃありませんか。さて、少年」と男がシンジに視線を戻す。「ジョンにそのカードを返してくれませんか? 話しはそれからです。おっと、ジョンと言うのは彼のことです。少なくともこの場所では、彼は『ジョン・スミス』なんです。そのカードにもそう書いてあるでしょう?」
シンジはカードとジョンを交互に見やり、ジョンにカードを差しだした。ジョンはカードを素早く取り、シンジを睨みつけたまま、ポケットへしまった。
「返しましたよ」
「そうですね。じゃあ、話しをしましょうか。ああ、そうだ。その前に自己紹介をしましょう。私の名前は浦孝四郎。皆からは浦さんと呼ばれています。君の名前は?」
「……シンジ」
「シンジ君か。で、シンジ君は戸籍が欲しいとのことでしたね?」
「そうです。ここで戸籍は手に入るのですか?」
「その問いに対する私の答えは『イエス』です。君はここで戸籍を手にすることができる。ただし条件がある」
「条件?」
「おっと、そんなに警戒しないでくれ、条件と言っても、当たり前のことです。戸籍を手に入れるためには、金が必要なんです」
「金」
「そう、金。多分、20万くらいになるけど、君は用意できますか?」
「……できません」
「なら、戸籍を用意することはできませんね」
「だったら何か仕事を紹介してください。ここなら、20万なんてすぐに貯まるような仕事があるんでしょ?」
「ここをどこだと思っているんですか?」孝四郎は苦笑する。「ここはしがない雑貨屋です。……ただ、まぁ、無いわけではないんですが」
「本当ですか?」
「本当です。でも、大変な仕事になるかもしれませんよ?」
「やります。体力とかには自信があるんで」
「なら、簡単な仕事ですよ。きっと」
孝四郎は不敵な笑みを浮かべた。




