31.娘と父
病室に菜穂の姿は無かった。看護師に聞いたところ、先ほどまで警察と話していたから、気分転換のために屋上にいるかもしれないと言われた。
看護師の言う通り、菜穂は屋上にいて、ベンチに座り、青空の下に広がる街並みを眺めていた。
「よっ、元気?」
真治が声を掛けると、菜穂は微笑んで、迎える。
「うん。どう似合うでしょ?」
と言って、菜穂は病衣を見せつける。
「ああ、似合ってるよ」
「ばーか。病衣が似合うなんて言われて、喜ぶ女の子なんていないって」
「確かに、それもそうだな」
真治は隣に座る。
「明日、退院なんだって?」
「うん。検査の結果、とくに異常なしだって。でも、今日は大事を取って入院するらしい」
「そうか」
「真治」
「何?」
「ありがとう」
「何が?」
「私が今、こうしていられるのも、真治のおかげ。真治が駆けつけなかったら、私は多分、今ここにいなかった」
「どういたしまして? なのかな。でも俺は、菜穂に謝らなければいけないことがある」真治は表情を引き締めて言った。「菜穂の父親を守ることができなかった。すまん」
「……そのことで、私は真治を責める気はないかな。私がもっとしっかりしていれば、救えたかもしれないから。私がすぐに異変に気付いて、電話なり、戦うなりすれば、パパは死なずに済んだかもしれない……」
「菜穂……」
沈黙。空気が重くなりそうになったとき、菜穂はパンと手を叩いた。
「止めよう。自分が悪いとか、ああすれば良かったとか、そういうの。そんなことしたって、どっちも苦しくなるだけから」
「……わかった」
「それにしても不思議なんだよねぇ」
菜穂は気分を変えるような明るい声音で言った。
「何か気になることでも?」
「うん。警察の人の話だと、パパは強盗に胸を刺されて死んだんだって。でもね、私見たんだ。パパの心臓が抜き取られるところ。あと、その強盗が、パパの右腕を食べるところも。でも、霊安室でパパを見たとき、パパの右腕はちゃんとあった」
「……夢なんじゃないか? だって、心臓を抜き取るとか、右腕を食べるとか、そんなこと現実に起こるわけないだろう?」
「うーん。だよね。やっぱり夢なのかなぁ」
「うん。夢だよ」
菜穂は悩ましい顔つきで腕を組んだ。真治としては、夢であると思ってくれることが望ましい。
「気になることは他にもあるんだ。何で強盗は私を放置して、金目の物を漁ったんだろう?」
「どういうこと?」
「警察の人の話だと、強盗は父を刺した後、気絶した私を放置して、家の物色を始めたんだって。普通なら、私も殺すべきじゃない? 警察の人は金目の物を優先したとか言っていたけど、でも、私に顔を見られているんだよ?」
「誘拐するつもりだったのかもな。犯人は単独犯じゃなかったから。これは聞いたかもしれないけど、あのとき強盗は、俺に気づいて家を飛び出した後、協力者が運転する車に乗って逃亡したんだ。目撃者もいる。だから、誘拐することも可能だった」
「なるほど。でも、どうして私なんだろう?」
「だって、そりゃあ、菜穂は可愛いし」
菜穂に赤い顔で睨まれる。
「何?」
「べーつにぃ。ってかさ、それ!」
「それ?」
「何で真治は私の家を知っていたわけ? それに、あのとき、どうしてすぐに駆けつけられたの?」
「菜穂の家を知っていたのは、この間、生徒手帳の写真を見せ合ったときに住所が見えたからだ。それで、わかった」
「何勝手に見てんのさ、えっち」
「ま、結果オーライだろ?」
「そうだけどさー。なら、今度は真治の家に行くから!」
「はいよ。で、あのとき、すぐに駆けつけられたのは、その、言いにくいんだけど、前日のこと、謝ろうと思って、近くまで来ていたんだ」
「前日? ああ……うん。べつにいいよ、そのことは……」
菜穂は気まずそうに体を小さくする。
「でも大事なことだと思ったから」
真治は菜穂を真剣な目つきで見つめる。菜穂はまごつき、目が泳ぐ。
「話は変わるけど、菜穂、あんときはごめんな。ちゃんと、告白に応えることができなくて」
「あれはべつに……。何でもない、続けて」
「あれから俺は考えた。でも、まだ、自分の気持ちに結論を出すことができない。だから、告白に対する俺の答えはもう少し待ってくれないか? 中途半端な気持ちで、菜穂を傷つけるようなことしたくないから」
「……この前は、好き同士じゃなくても付き合えばいいみたいなことを言っていたくせに」
「それが全く知らない相手だったり、どうでもいい相手だったらな。あれはただの『遊び』だったとか、『そういうこともあるよね』みたいな割きり方ができる相手だったらいいさ。でも俺にとって、菜穂はそういう存在じゃない。少なくとも、命を掛けて守りたいほどには大事に思ってる」
真治の言葉に、菜穂の口元がふっとゆるむ。気恥ずかしそうな、嬉しそうな、そんな感じ。
「……変なところで真面目なんだから。その真面目さが憎らしいよ。いいよ、わかった。待ってあげる」
「ありがとう」
「でも、ずっとは待たないから」
「わかってる。ちゃんと、答えは出すよ」
二人は見つめ合い、微笑み合った。
菜穂が大きく伸びをする。
「ちょっと、色々ありすぎて疲れちゃった。病室に戻ろうかな」
「それがいいかも。でも、安心したよ。思ったより元気そうで。父親が死んで、気落ちしているんじゃないかって心配した」
「パパのことは……そうね。殺されたって実感があまりないんだよね。さっきも言ったけど、よく考えたらあり得ない殺され方してるし、少なくとも私の認識の上では。だから、何かファンタジーみたいで、実感がわかない。それに、霊安室でパパの遺体を見たとき、悲しいという気持ちはあったけど、心にぽっかりと穴が空くほど悲しいかと言われると、そうでもないんだよね。ひどいよね、娘なのに」菜穂は苦笑する。親不孝な自分を自嘲するように。「正直、よくわかんないんだよね、パパのことは。パパは私にとって近くて遠い存在だった。だから、父の死に対しても『もっと遠くに行ってしまったんだ』としか思えないんだ」
「……なるほど。父親のこと、嫌いというわけではないんだよな?」
「うん。嫌いではないよ。でも、好きかと言われたら……わかんない。正直、私はパパのことをどれくらい『父親』として認識してたんだろう」
「……あくまでもこれは俺の意見なんだが、菜穂の父親は娘思いの良い父親だったと思うよ」
「どうして?」
「話は変わるんだが、菜穂の父親って、魚や肉は食べないって言ってたよな?」
「うん」
「でも菜穂は魚や肉を食べるんだろう? そのときって、父親にお願いするのか、それとも、菜穂が自分で買うのか?」
「両方かな。父親に言えば文句を言いながらも買ってくるし、私が自分で買うこともある」
「ふーん。なるほど。じゃあさ、例えば魚を買ってきてと言ったら、父親は魚を何匹買ってくるんだ?」
「一匹だけだよ」
「どうして?」
「だって、私しか食べないもん」
「買いだめのために複数匹買ってくる可能性は?」
「ないかな。肉なら話は別だけど、私は同じ魚を続けて食べるなんてことしないからね。冷凍とかもしないし」
「ふぅん。なら、やっぱり、菜穂の父親は良い父親だと思うよ」
真治はポケットに手を突っ込み、折りたたんだ紙を取り出した。
「本当はこれも、警察に見せるべきだったんだけど、勝手に持ってきた」
「何それ?」
真治は紙を開き、菜穂に渡した。その紙はレシートだった。
「これは○×デパートのレシートだ。そこにサヨリって書いてあるだろ? それは菜穂の父親が、あの日、買った魚だ。そこそこ良い魚らしくて、それなりの値段がする。菜穂の父親は、何でそんな魚を二匹も買ったんだろうな?」
「何でって……」
菜穂は目を見張り、息を呑んだ。
それ以上、自分が何か語るのは無粋か。真治は視線を街並みの方へ移した。
幾ばくの時間が過ぎ、「……遅いんだよ、ばか」と菜穂が呟くのが聞こえた。
「真治」
「何?」
「やっぱりもう少しここにいる」
「そうか」
「肩貸して」
「どうぞ」
真治が間を詰めると、左肩に菜穂の温もりを感じた。真治はその温もりを静かに受け入れる。
真治は気が済むまでここにいいればいいと思った。今日は心地よい風が吹く、晴天なのだから。




