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28.菊を添える理由

 父親の心臓を食べるのに夢中になっていて、娘が気絶しているのに気づかなかった。


「ああ、何だ、刺激が強すぎたか」男は血だらけの口で笑う。「でもまぁ、そっちの方が良かったかもなぁ。楽しみが増える」


 男は娘に歩み寄り、血だらけの手で娘の眼鏡を外した。


「ほぅ。可愛い顔してんじゃん。こいつは旨そうだ。若くて、可愛い女は、本当にうめぇからな」


 男は娘の頬を舐め、不敵に笑う。そして娘を担ぐと、父親も担いで、階段を下りた。二人を食すには、あの部屋は狭すぎる。


 どこか良い部屋はないかとうろついていると、和室を見つけた。仏壇が男的にはポイントが高かった。仏様の前で人肉を食す。最高に背徳的ではないか。


 男は机の上に、娘を寝かせ、隣の部屋から持ってきた椅子に父親を座らせた。娘の姿がよく見えるように。


 男は娘の腹に頭をのせ、父親に向かって微笑む。


「お父さん。見ていてくださいね。娘さんをおいしくいただくところを」


 男は顔を上げ、娘のスウェットのズボンを下ろした。


 白く健康的なむちむちとした肉付きの腿が現れ、男は涎を垂らす。今すぐにでもむしゃぶりつきたいが、我慢する。その代り、娘の腿に頬ずりした。


「あーすべすべ。これは、いい肉だ」


 男の視線は腿のつけ根に向けられた。手を伸ばそうとするが、ぐっと我慢する。


「いや、これは後だ。起きてからの方が楽しい」


 男は次にスウェットの上を脱がせようとした。が、そのとき、腹が鳴った。胃に物を入れたせいで、次をよこせと騒いでいる。


「仕方ねぇな……」


 男は娘のふくらはぎの肉を食べることにした。男は自身の指をナイフのように使い、娘のふくらはぎの表層から1 cmの部分を削いだ。ふくらはぎの刺身の完成である。


「見るだけで涎が止まらねぇぜ。そうだ、父親の肉と食べ比べしてみるか」


 父親のふくらはぎも削いで、娘の肉の隣に並べた。


 男は並べた肉を見て、不満顔だ。


「こうしてみると、あんまり旨そうじゃねぇな……」


 美しさが足りない。やはり、ただ肉を食べるだけでは、犬や猫と一緒である。


「そうだ。皿の上に盛り付けよう」


 男は台所から大皿を持ってきて、その上に肉を持った。並べられた肉が、しゃぶしゃぶの肉のように見える。


「こいつはいいな。後で、しゃぶしゃぶにして食べよう」


 北陸でカニしゃぶと一緒に食べた肉を思い出し、腹が鳴った。


「わかってるって。それじゃあ、いただきますか」


 小皿に醤油を垂らし、わさびもそえる。男は嬉々とした表情で、娘の肉を箸で掴むと、醤油につけ、口の中に放り込む。


「う、うまーい!」


 頬が落ちてしまいそうだ。この肉は、これまで食べてきた肉の中でも上質な部類だ。


「どれ、父親の方も食べてみるか」パクリ。「うーむ。やはりこれもうまい。ただ、脂は娘の方が乗ってるな。どれ今度は焼いてみるか」


 男は自分の左手に娘の肉を一枚乗せた。じゅうと焼ける音がして、肉の香りが漂う。男はその匂いを恍惚とした表情で楽しみ、肉の裏面にも焦げ目をつける。


「いただきますか」


 少し赤い部分があるが、それが焼肉のアクセントだ。


 男は焼いた肉を咀嚼し、やはり、とろけた表情で唸る。


「ああ、これもうまい。やっぱ、肉が良いと何してもうまいな」


 男は目の前に横たわる娘を見て、満面の笑みをうかべる。東京に来て、まずい肉しか食べていなかったから、この出会いは、男にとって運命を予感させるものだった。


「ありがとう。えっと、何ちゃんだっけ?」


 まぁ、名前なんてどうでもいい。後で聞きだせばいいし、それに数時間後には胃の中にいる存在だ。しかし感謝しなければいけない。食べ物に感謝する。それは人として当たり前のことだ。


 男は娘の左手を手にとり、自分の口元に寄せ、手の甲にキスをした。ああ、幸せだと思った。これから数時間、この幸せに浸っていられると思うとより幸せになる。



 ――少なくとも、このときはそう思っていた。あの声を聞くまでは。



「そんなに愛おしそうに魚にキスするなんて、あんた、かなり変わってんな」



 ハッとして目を向ける。対面に少年が座っていた。黒髪の精悍な顔つき。少年は呆れ顔で男を見ていた。


「魚? あっ」


 男はギョッとする。確かに男が握っていたのは、肉の削がれた魚だった。男は驚いて手を放し、「く、くせぇ!」と口元の生臭さにもだえる。


 さらに男は自分がいる場所に気づき、驚いた。和室にいたはずなのに、台所前の食卓に座っていたからだ。娘や父親の姿はなく、食卓の上の大皿にあるのは魚の刺身だった。


「な、何だこれ、どうなってやがる! 何で、魚の刺身が!? 肉は、肉はどうした!?」

「自分で捌いていたじゃん。すげぇ、楽しそうに。そして、すげぇ、おいしそうに食べてた。あんた、食レポの才能があるんじゃね? どれ、俺も食べてみようかな」


 少年は自分の小皿の醤油に魚の刺身をつけ、口へ運び、咀嚼する。


「っていうか、誰だ、てめぇ! 勝手に――」

「黙れ」と少年は男を睨む。「食事中だぞ」


 男は少年の『凄味』に圧倒され、息を呑んだ。男は背筋に寒気が走った。この少年はただの少年ではない。修羅場を生き抜いた猛者めいた風格がある。


「確かに旨いな。ただ、もう少し、味にアクセントが欲しいところだ。そうだな……あんた、小菊って知ってるか?」

「こ、小菊?」

「そうだ。あの、刺身とかについているあれだ」と言って、少年が食卓の上に置いたのは菊だった。「まぁ、待て。あんたの言わんとしていることはわかる。これは小菊じゃない。ただの菊だ。でも、大は小を兼ねるって言うだろ? だから持ってきたのさ。で、菊の食べ方だが、こうやって、醤油に花びらを散らすんだ。そして菊と一緒に、刺身を食べると……」少年は菊とともに刺身を口に運ぶ。「うまい! シャキシャキ感が出て、おいしいんだ」



 男は喉を鳴らした。少年に対する疑問よりも食に対する探究心が勝ってしまった。


「どうだ? あんたも食べてみるか?」


 少年はにこやかな表情で男に菊を差しだす。


 誰だこいつ? いや、それよりも菊を散らして食べるという発想は無かったな……。


 男の意識はあっさりと食の方へ向いてしまった。こんなときも食に対する探究心を忘れないなんて、俺は本当にグルメな人間だなぁ、と呑気なことを考え、右手を伸ばしたときだった。


 少年に右手を掴まれ、ベキボッ! と指をへし折られたッ!


「い、いっだーい!」


 男は飛び退き、震えながら自分の右手を見た。人差し指と中指があらぬ方向を向いている。


「こ、このクソガキ! 何しやがる!」

「ああ、すまん。あんたに嘘をついてしまった」少年はひどく冷たい声で言った。「この菊は食べるために持ってきたんじゃない。この菊は――てめぇへの手向けだッ!」


 少年――杉下真治は、憤怒の表情で立ち上がったッ!

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