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21.杉本菜穂①

 3歳ごろの記憶なんてほとんどないけれど、菜穂が覚えていることが一つだけある。


 母親の棺の前で泣き崩れる父親の姿だ。


 母親は交通事故で死んだ。父親と一緒に車で出かけた帰りにトラックと衝突したらしい。母親は即死で、父親も重体だった。


 そのため、父親は葬式の日も病院にいるはずだった。しかし父親は、病衣を着て、体中に包帯やらギブスやらを巻いて、松葉杖をつきながら現れた。その異様な姿に、場内は騒然とし、菜穂もギョッとしたことを覚えている。


 父親は、大声をあげ、棺の前で泣いていた。何と言っていたかは覚えていないが、謝罪の言葉を口にしていたような気がする。医者や看護師が駆けつけ、親族の男たちも手伝って、父親は連れていかれた。そのときも、駄々をこねる子供のように、ずっと、その場に留まろうとしていた。


 その思い出話をすると、姉の恵美はいつも、「あれはあの男のパフォーマンスよ」と言う。恵美は父親の話をするとき、不機嫌になる。


「あの浮気をするようなドクズが、ママのことを、重い体を引きずって駆けつけるほど愛していたわけがないもの。あれはパフォーマンス。ああやって、俺はこんなにもこの女のことを愛していたって周りに示すことで、良き夫としての体裁を保とうとしたのよ。如何にも、クズが考えそうな、浅はかな演出よね」


 恵美は父親のことが大嫌いだった。恵美は、交通事故が起きる一年前、不審者に熱湯をかけられた。そのときの火傷の跡が、今でも左肩から胸にかけて残っている。そして熱湯を掛けられた際、不審者に「お前の父親が悪い。お前の父親さえいなければ」と言われたらしい。それ以来、父親のことを蛇蝎の如く嫌っている。


「でも、パパって本当に浮気していたの?」

「してたよ。私、見たもん。あのクズが、ママ以外の女の人と一緒にいるところ。それに昔の写真を見ればわかるでしょ? あの、いかにも遊んでますな見た目。あれが妻子ある男がするべき姿だと思う? 茶髪にピアスをしてさ。馬鹿なんじゃないかなって思うわ。父親なら、どこに行っても恥ずかしくないくらい、真っ当な格好をすべきよ」


 確かに昔の家族写真なんかを見ると、恵美の言わんとしていることもわかる。茶髪でピアスをして、おどけた調子で写真に写る父親は、遊んでそうな雰囲気はある。でも今の時代、茶髪の父親なんて普通にいるし、写真に写る父親は、いつも家族のそばにいて、笑っているのだ。そのため菜穂は、父親を、恵美ほど嫌うことができなかった。むしろ、恵美のことを羨ましく思うことさえある。『人間らしい』父親との思い出が、良いことばかりではないかもしれないが、あるのだから。


 菜穂が最後に見た『人間らしい』父親は、棺の前で泣き崩れる父親だった。





 母親が死んでから、父親は変わった。


 退院して、家に戻ってきたときから、すでに変わっていた。


 退院直後に家の前で撮影した家族写真を見ると、父親は、そのときから坊主頭になっていて、頬がこけていた。親しみのある笑みを浮かべていたお調子者は、寡黙な隠者となった。


「どうしてこのとき、写真を撮ったんだっけ?」

「叔母さんが、新たな生活の始まりだからって。余計なお世話よね」


 と言う恵美は、父親から離れ、隅の方にふて腐れた顔で写っていた。


 事故で足を悪くした父親は、それまでの仕事を辞めた。父親が新たに始めた仕事について、菜穂は小学校の高学年になるまで、よく理解できなかった。


 小さいころ、父親に聞いたことがある。


「パパって、どんなお仕事をしているの?」

「パパの仕事は、お経を唱えることだ」

「お経を唱える?」

「いつも仏壇の前でやっているだろう?」


 父親は、家事の時間以外は、和室の仏壇の前でぶつぶつと何か言っていた。


「えっと、それじゃあ、お寺の人ってこと?」

「イメージは近いけど、やってることは全然違うかな。お寺の人は金を稼ぐためにお経を唱える。でも俺は俺の運命を変えるためにお経を唱えている」

「どういうこと?」

「わかりやすく言うと、俺は悪い子だったんだ。菜穂のお母さんが死んでしまったのも僕が悪い子だったから。そしてこれからも悪いことが起こり続ける。だから、そうならないように、お経を通じて、神様にごめんなさい、許してくださいと伝えているんだ」

「ふぅん」


 よくわからなかったから、恵美にも聞いた。


「あいつ、変な宗教にはまってんのよ。そこで金を稼いでるんじゃないの。叔母さんも心配してたし。マジでウザいわ。あいつが死ぬべきだった。今さら、ごめんなさいとか、そんなんで許されると思ってんのかしら。だったら先に私に誠心誠意謝るべきでしょ。あいつのせいで、私は……」


 このときの恵美の心境を理解するのにも、やはり時間が掛かった。


 それから菜穂は、父親がお経を唱えているときは、近づかないようにした。仕事の邪魔をすべきではないと思ったからだ。そもそも、お経を唱えているときの父親は異様な雰囲気があったから、声を掛けることができなかった。


 その後、事故や事件が起こることもなく、菜穂は小学三年生になった。ある日、仕事に関する授業を受けた際、笑顔で働く人々を見て、いつも気難しい顔でお経を唱える父親も、もっと楽しく仕事をすればいいのに、と思った。では、どうやったら父親は楽しく仕事ができるのだろうか、と考え、自分の教科書に描かれた落書きを見て、「これだ!」と思った。あの本に落書きをすれば、きっと、パパも笑いながらお仕事ができる。


 そして菜穂は、父親が仏壇にいない隙を見て、仏壇から本を取り出し、仏壇の前に座って、落書きを始めた。もちろん、邪魔にならないように、空白に描きこんだ。気づかれないうちに止めるつもりだったが、書き始めているうちに楽しくなって、ついつい夢中となってしまった。


 ハッとして振り返る。父親が立っていた。菜穂は困ったように、笑いかけて言った。


「あの、パパ、これは……」


 そこで菜穂は気づく。父親が怒っていることを。目が血走り、今まで見たことがないほどの怒りの表情を浮かべ、「何やってんだ、馬鹿野郎!」と怒声を上げた。


「ご、ごめんなさい……」


 菜穂の目にじわりと涙が浮かぶ。こんなに怒られるとは思わなかった。


 父親は本を拾い上げ、ページをめくり、わなわなと震えた。


「謝れぇ! 早く、謝れぇ!」

「ごめんなさい……。ごめんなさい……」

「ちがぁう! 俺にじゃない! 仏様に謝るんだぁ!」

「ほ、仏様?」


 父親は菜穂の隣に座り、仏壇に向かって、土下座した。


「すみません! 仏様! うちの娘がとんだご無礼を……」父親は頭を下げたまま、菜穂に顔を向け、「早くお前もするんだ」と言った。

「え? え?」

「早くするんだよぉ!」


 父親は、戸惑う菜穂の頭を掴み、床に押し付けた。


「いたいっ、いたっいよ、パパ!」

「早く謝れ! 早く!」

「ごめんなさい。ごめんなさい」

「声が小さぁい! そんなんじゃ、許してもらえないぞ!」

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

「すみません、神様! どうか、どうか、娘の不祥事をお許しください」


 二人が土下座したまま幾ばくかの時間が流れた。その間、菜穂の涙は止まらず、嗚咽が混じる。


 不意に電話が鳴った。父親は、ポケットから慌てて携帯を取り出して、「はい、もしもし」と言った。それから父親は何事か、電話の向こうの相手とやり取りをしていた。もう、いいのだろうか。菜穂は顔を上げようとしたが、父親に押さえつけられた。


「ああ、本当ですか!? はい。はい。ありがとうございます!」


 と父親は歓喜の声を上げ、電話を切り、額を畳に擦り付けた。


「ああ、ありがとうございます。仏様! 何と、慈悲深い。菜穂も早く!」

「あ、ありがとうございます」

「仏様は許してくれた」


 父親が上体を起こす。菜穂もおそるおそる上体を起こす。そのとき初めて、仏壇に飾られた仏像と目が合った。柔和な笑みを浮かべた人形にしか見えなかった。なぜ、父親はこんな人形に必死になるのだろうか?


「だが、条件があるらしい」と言って、父親は本を開いた。「このお経を唱えよとのことだった」

「え? 私が?」

「当たり前だろ! お前がやったんだろうが!」

「わ、わかった。わかったから、そんなに大きな声を出さないでよ……」


 菜穂は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で本を受け取り、お経を唱えようとする。が、涙で視界が滲むし、一文目から読めない漢字で言葉に詰まる。


「どうした? 早く読め!」

「読めないよ……」

「『バア』だ! バアと読むんだ!」

「バア……」

「次は?」

「次は……読めない」

「『シャア』だ! シャア!」

「嫌だよ、パパ。こんなこと、したくない」

「お前が悪いんだろ! お前が! だから、早く唱えろ! お前が早く唱えないと不幸になるんだぞ! 読めないんだったら、パパが教えてやるから!」


 それから菜穂は、恵美が学校から帰ってくるまでの長い時間、涙や鼻水を拭うこと、足を崩すことすらできないまま、父の怒鳴り声を耳元で受け、わけのわからぬ漢字を読み続けた。


 それ以降、仏壇に近づかなくなったし、父親を怒らせるようなことはしないことを心がけた。

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