17.風の吹く街
意気揚々と正門で待っていた真治であったが、菜穂は中々現れなかった。
5分、10分、30分……。時間だけが過ぎていく。心の中のイケメンも貧乏ゆすりが止まらない。
菜穂の気配は感知している。教室で友達と話しているようだ。幻視虫を飛ばすのは躊躇われたので、真治は菜穂が来るのを信じて待つしかなかった。
そして待ち始めて1時間。ついに菜穂が動いた。真治は暇つぶしのためにいじっていたスマホをしまい、表情を引き締める。胸の鼓動を感じる。ドキドキしながら人を待つのは久しぶりのことだった。
そして、菜穂が現れた。まだ不機嫌さは残るものの、先ほどよりは怒りが収まっているように見える。ありがとう、弥恵とその盟友たち。真治は心の中で感謝し、菜穂の進路を遮るように自転車で進んだ。
目の前に現れた真治に、菜穂は眉をひそめる。
「朝、約束したよな。困っていたら、白馬で駆けるって。でも、白馬はぶらさげたニンジンを追いかけてどっかに行っちまった。だから、チャリで来た」
「そうなんだ」
菜穂は素っ気なく答え、帰ろうとする。その手首を真治は掴んだ。
「何? 離してくれない? 叫ぶよ?」
「菜穂」
真治は真剣な目つきで菜穂を見つめた。
「な、何さ、急に」
菜穂はたじろぐ。
「一緒に来てほしい所がある」
「は? 何で? 武森さんと行けばいいじゃん」
「菜穂じゃなきゃ駄目なんだ」
真治は目に力を入れる。イケメンは多くを語らない。
10秒ほど見つめ合った。不快感を露わにしようとした菜穂だったが、諦めたように肩の力を抜く。
「わかった。行くから、離してよ」
「ありがとう、菜穂」
菜穂は真治から目をそらし、自転車のカゴに鞄を置くと、荷台のクッションにまたがった。
「勘違いしないでね。べつに真治のためじゃないから。ここで断ったら、やえっちに悪いから。どうせ、やえっちからの入れ知恵でしょ」
「それでも嬉しいよ。ありがとう、菜穂」
どん、と菜穂は額を真治の背中に当てる。
「だから、違うから。って言うか、菜穂って」
「駄目か?」
「……駄目じゃないけど」菜穂は呆れ顔で額を果たす。「それより、どうするんですか、先生ぇ? 二人乗りなんかしたら、補導されちゃいますよ~」
「その辺なら大丈夫だ。人気のない道を進むから」
と言うが、別の理由がある。菜穂に対し、【透明魔法】を掛けるつもりだ。この魔法によって、真治以外には菜穂の姿は見えなくなる。菜穂も鏡に映る自分の姿が見えなくなるが、幻視虫を使い、映っているように見せる。
「それじゃあ、行きますか。俺に掴まってくれ」
「は?」
「だって、危険でしょ」
「でも」
「いいから」
真治は振り向き、菜穂に微笑みかける。
菜穂は、不服そうな顔で、それでもちょっと頬を染め、後ろから真治の腰に手を回した。
「それじゃあ、行きますか」
真治は自転車をこぎ出した。
自転車はスピードに乗り、風を切る。
「それでー。どこに行くの?」
「それはお楽しみ」
「ふぅん。だいたい予想は着くけどねー」
そのとき前方からパトカーが近づいてきた。しかし菜穂には見えていない。そして、パトカーの運転手にも菜穂は見えていなかった。パトカーは止まることなく通り過ぎた。
住宅街を進むと、坂道が現れる。
「大丈夫?」と菜穂が声を掛ける。
「何が?」
「上り坂だけど」
「問題ないさ」
上り坂に突入する。真治は前傾姿勢となって、ペダルを漕ぎ続けた。真治の脚力をもってすれば、立ち漕ぎをする必要はない。100メートルはある長い坂道であったが、真治はすいすい進み、呆気なく、目的の神社の前に到着した。
「着きましたよ、お姫様」
「反応に困るなぁ」と菜穂は苦笑する。「もっと、苦戦しても良かったのに。多分、やえっちもそんな展開を望んでいたと思うよ」
「俺は彼女のためにここに来たわけじゃないし、べつに気にしないさ。あ、もしかして、菜穂もそっちの方が良かった?」
「私はどっちでもいい。でも、今回の方が気楽かな。一生懸命だと何か申し訳ないし」
「そうか。なら、良かった。ちょっと、自転車を止めてくるね」
真治は駐輪場に自転車を止め、菜穂の下に戻る。菜穂は神社の鳥居の前に立って、街を眺めていた。その場所からは街が一望できる。穏やかな表情で髪をかきあげる菜穂を見て、真治はこの場所に来て良かったと思った。
「ごめん。お待たせ」
「とくに待ってないよ」
「それじゃあ、行こうぜ」
真治は先頭に立って、鳥居をくぐった。境内に人の姿は無く、20メートルほどの参道の先に、古びた社殿があった。
「真治は、この神社が何の神社が知ってるの?」
「ああ。ここは……」真治は視線を走らせる。よく知らない。立札を見つけ、読み上げる。「恋愛成就の神社だろ? 恋愛成就!?」
「知らないで来たの?」
菜穂はくすくす笑う。
「いや、知ってたけど」
「ふぅん。どうだか」
二人は作法通りに参拝した後、境内を散策するようなことはせず、すぐに鳥居の前に戻った。
「あそこに座ろうよ」
菜穂が指さしたのは、崖に面したベンチだった。断る理由がないので、真治は頷き、二人はベンチに座る。
眼下の街並みを眺めながら、真治が初夏の風を感じていると、菜穂は口を開いた。
「真治は何をお願いしたのさ」
「え? 世界が平和でありますように、って」
「うそだ~。ここは縁結びの神社だよ? だから、きっと、武森さんとうまくいきますようにとかお願いしたんでしょ」
「してないよ。ってか、俺は武森さんに対して、何か特別な感情があるわけじゃないから」
「本当? だって、武森さん、綺麗だよ。思春期の発情したサルだったら、喜んでウキウキするでしょ?」
「なら俺は思春期の発情したサルじゃないってことだな。確かに綺麗だとは思うけど、それだけで相手のことを好きになったりしないよ」
「ふぅん。ならさ、真治はどんなタイプの女の子が好きなのさ」
「好きなタイプか……わからん」
「むっ、そうやってごまかす」
「いや、ごまかすわけじゃないよ。本当にわからないんだ」
「本当かな? 中学のとき、好きになった子とか、気になった子とかいないの?」
「……いないかな」
「えー。つまんなーい」
「しゃーないだろ。ないんだから」
「告白されたこととかないの?」
「ないよ。と言うか、菜穂はどうなの? 告白されたこととかあんの?」
「あるよ。3回」
「え? マジで? 付き合ったの?」
「うんうん。何か、そんな気になれなかった」
「へぇ。タイプじゃなかったの?」
「それもあるかな。ちょっと、ガキっぽかったし」
「なるほど。大人な奴が好きなのか?」
「……どうだろうね。わかんない」
「おい、俺に何か言ってたくせに」
菜穂はえへへと笑ってごまかす。
「ってか! 真治とこんな話をするなんて、新鮮だね!」
「確かに、そうだな」
そこで真治は思い出す。昨晩のこと。この流れなら、菜穂のこと、もっと知ることができそうなこと話せるかもしれない。では、何を話そうか。考える真治に菜穂は言う。
「真治は普段、恋バナとかすんの?」
「しないよ」
「だよね。あのメンツは、そういうのしなさそうだもん」
「馬鹿にしてんの?」
「いやいや、そういうわけじゃないよ」
「菜穂はするの? 恋バナ」
「するよー。まぁ、ニャースには関係のないことなんですが」
「ニャース?」
「いっつも一緒にいる4人のこと。名前の頭文字をとると、N、Y、A、Sだからニャースと呼んでる」
「へぇ。そのメンツで付き合っている人はいないんだ」
「うん。でも、クラスだとそれなりにいるよ。みっちゃんとか佳保子とか」
誰だそれ、と思ったが、口にはしない。何となく、想像はできる。
「進んでるんだな」
「だよね。まぁ、他にも付き合ってる子はいるんだけど、付き合った理由とか聞くと、何となく、とかさ、とりあえず付き合ってみようと思った、とかさ。それで、いいのか。と思っちゃったりするんだけどね。真治はどう思う? そういうの」
「そういうのって?」
「だから、その、好きじゃないけど、付き合う、みたいな」
「……いいんじゃないか。付き合ってみればわかることもあるだろうし」
どうせ、と口から出そうになった言葉を、真治は呑み込む。
「そ、そうなんだ。真治は、そういうのOKなんだ」
「菜穂はどうなの? やっぱり、お互いが好きじゃないと駄目だと思うの?」
「え? 私? 私も、べつにいいんじゃないかなって思うよ。二人の間に合意があれば、だけど……」
数秒の沈黙。真治は菜穂を一瞥する。菜穂は街の方に目を向け、真治は見ていなかった。耳まで赤く、表情は強ばっている。腿の上で手を握り、少し震えていた。何か、言葉を掛けた方が良いのだろうか。しかし、真治が話しかけるより先に、菜穂が口を開いた。
「じ、実はさ。最近、困っていることがあるん、だよね」
「何?」
「真治とのこと、よく聞かれんだ。ほら、教室でよく一緒に話しているじゃん? だから、付き合っているのか? って。真治はどう? 私とのこと、聞かれたりする? 武森さんには聞かれたと言っていたけど」
「うん。まぁ、たまに聞かれるね。付き合ってるのかって」
「そ、そうなんだ。それに対し、真治はどう思っているの?」
「どう思ってる?」
「例えば、ちょっとウザいな、とか」
「まぁ、そんな風に思うことがないわけではないかな」
「そうなんだ。私も、聞かれ過ぎてうんざりしてる。あ、でも、それは、その、真治とそういう風に見られるのが、嫌だとか、そう言うわけじゃなくて。その、否定するのがめんどいと言うか、その、えっと、だからさ! ――」
「――付き合おうか、私たち。そしたら、そしたら、否定しなくていいし……」
真治はその言葉の意味を理解するのに時間がかかった。多分、10秒とか、それくらい。付き合おうか? どういう意味だ? 話の流れを整理する。恋バナをしていて、そして付き合おうかと言われた。ああ、そうか。菜穂と恋人になるということか。菜穂と恋人になる? 俺が? 真治は菜穂に目を向ける。菜穂の感情がわかった。菜穂は今、緊張しているのだ。何か答えなければ。真治が口を開こうとしたとき、遮るように菜穂は言った。
「な、なーんて。ビックリした?」菜穂は真治に笑いかける。ぎこちない笑みで。必死にごまかすように。「冗談だよ? もしかして、本気にしちゃった?」
「え? 冗談?」
「そうだよ。冗談。私が、真治と付き合うとか、そんなの、そんなの……」
目に見えて、菜穂のテンションが下がる。しぼむ風船みたいに。そんな姿を見せられて、何だ冗談かよ、人が悪いな、なんて笑うことなんてできない。昔の自分なら道化を演じることができたかもしれないが、菜穂に対し、道化を演じる気になれなかった。他に、彼女を元気づける方法はわからないが。イケメンに問いかける。イケメンも首を振った。
風が吹く。心地よいと思った初夏の風が、肌寒い寒風のように感じた。
二人の間に会話がないまま、時間だけが過ぎる。
「……帰ろうか」
菜穂が言った。
「ああ、そうだな」
「ごめんね、何か、私のせいで」
「何で、菜穂が謝るのさ」
「空気を悪くしちゃった」
「なら、謝るなら俺の方だ」
菜穂はぎゅっと口を結んだ。
居心地が悪い。真治には逃げるように言った。
「自転車とってくるね」
真治は足早に駐輪場に行った。
どうする? ここで何か策を練るか? だが、時間をかければ、いらぬ心配を菜穂にかけてしまうかもしれない。真治の顔に焦りの色が浮かぶ。しかし何もできなくて、すぐに諦めの色に変わる。真治はため息を吐き、自転車の鍵を差しこんだ。
自転車を引き、菜穂の下に戻る。菜穂は俯いたまま顔を上げようとしない。
二人はお互いに言葉を交わすことなく、自転車に乗った。菜穂の真治を掴む手は先ほどよりも弱かった。
「行くよ」
「うん」
真治は自転車を走らせ、坂道を下った。
走りながら真治は気づいた。ブレーキがかからない。さっきはちゃんと使えたのに、壊れたのだろうか。このままでは、制御不能で事故が起きる。しかし今の真治にとって、そんなことは些細な問題だった。ブレーキがかからないなら、魔法をかければいいのだから。
真治は【遡行魔法】を発動した。この魔法は無機物にのみ効果がある魔法で、対象の時間を任意に遡行することで、壊れる前の状態に戻すことができる。真治は自転車を借りる前の状態に戻した。こんな風に時間を巻き戻せればいいのに、と思いながら。
駅の近くまで来て、真治は止まった。人気のない場所を選んだ。いきなり菜穂が現れたら、周りの人はびっくりしてしまうだろう。
「この辺で、降りた方がいいかもな」
「うん。そうだね」菜穂は自転車から降り、ぺこりと頭を下げた。「今日はありがとう。そして、色々ごめん。それじゃあ、またね」
真治の顔を一度も見ようとせず、菜穂はその場から離れようとした。
「待って」と真治は声を掛ける。「俺も一緒に行く。ホームまで行くよ」
「でも、電車、違うでしょ?」
「いいから、行く」
真治は適当な場所に自転車を置き、菜穂とともに改札を抜け、地下鉄のホームに立った。帰宅ラッシュということもあり、ホームにはたくさんの人がいた。
菜穂は並ぶことなく、ホームのベンチに座った。膝の上に鞄を置き、俯く。真治は隣に座った。
電車が到着するアナウンスが鳴った。菜穂に動く気配はない。だから真治も口を閉ざしたまま、座っていた。
電車が止まる。多くの人が電車から出て来た。そして多くの人が電車に入る。潮の満ち引きのような人波の動きを何度か見ているうちに、ホームの喧騒は収まり、人の姿もまばらになった。
辺りが静かになって、菜穂はようやく重い口を開いた。
「真治はさ、朝、どうして、あんなこと、私に言ったの?」
「力になりたいと思ったから。菜穂が困っていたら、助けたいと思ったから」
「何で、私を助けたいの?」
「人を助けるのに理由なんて必要なくね」
「……なら、私と武森さんが助けを求めたとき、真治はどっちを助けるの?」
真治は想像する。二人から助けを求められる状況を。今の真治なら二人を助けることは可能だ。それが、目に見える諸悪の根源を駆逐することで、解決する問題だったら。
「……どっちも助ける」
「……そうなんだ。真治は優しいんだね。立派だと思うよ、そういうの。理由なく人を助けるの。でもね、真治」菜穂は腿の上においた手を握る。「それって、助ける側の身勝手な理論だよ。助けられる側の気持ちを考えていない……」
真治は言葉に詰まった。菜穂の、言う通りだった。
電車の到着を知らせるアナウンスが鳴る。菜穂は立ち上がった。真治も立ち上がる。
「今日は色々ごめん。また、明日ね。さようなら」
「ああ、さようなら」
電車がホームに入ってきた。地下の風を吹かせ、電車は止まる。ドアが開く。下りる客はいない。菜穂が電車に乗る。寂しげな背中に真治は「菜穂!」と声をかける。
「何?」
と菜穂は言う。背中を向けたまま、顔だけ向けて。そして、真治の顔は見ない。それでも真治は言った。
「さっきの質問。俺は想像したそんな状況を。俺はどっちも助けると言った。でも、最初に手をとったのは菜穂だった。だから俺は、二人から助けを求められたら、最初に菜穂を助ける。でも、どうして? って聞かれると答えることができない。多分、怖いんだと思う。自分の本音と向き合うことが。でも、菜穂が、今度は『冗談』だなんて、ごまかさなくてもいいくらい、自分の気持ちに正直に向き合えたなら、俺もちゃんと向き合うから」
ドアが閉まる音が鳴って、「ドアが閉まりまぁす」と空気の読めない高音に真治は苛立つ。菜穂は大きく目を見開き、驚いた表情で振り返る。真治はそんな菜穂をまっすぐ見つめて言った。
「だから、そのときは、もう一度――」
ドアが閉まった。二人の間を分かつように。菜穂はドアに駆け寄り、窓越しに真治を見た。その顔からは様々な感情が読み取れる。
――やり方が卑怯だったか。それでも真治は、目をそらすことなく、菜穂を見送った。
電車が去った。地下鉄の風も止んだ。真治は大きなため息を吐き、ベンチに座った。都心の地下鉄。人の多い地下鉄。しかしその場所には今、真治しかいない。
どうして、菜穂を助けたいと思うのか?
それは、真治が見て見ぬふりを決めたことだった。だから、指摘されたときは焦った。その答えを出す気など無かったのだから。
真治は考える。菜穂を助けたいと思う理由を。「愛」とか「恋」を理由にするのは簡単だ。周りの人間もそれらを理由にすれば納得するだろう。しかし真治には「愛」や「恋」を理由にする気は無かった。それらは全部、自分に、そして他人に対する欺瞞でしかないのだから。「好きだ」とか「愛している」だとか、そんな言葉は全部、快楽依存的な、その場限りの戯言でしかない。
では、どうして自分は菜穂を助けたいと思うのか?
電車の到着を知らせるアナウンスが鳴った。都心の時間は早い。そして、人の姿もいつの間にかあった。真治は投げ出すように呟いた。
「独り身が長すぎた」
その呟きは、地下鉄の風にさらわれた。




