四つ目 先立つ者に贈る詩
沈むような声だ。
泥沼に足を取られ、そのくせ足掻きもしない声だ。
ただただ潜るかのように、沈んでいく声だ。
いつもそうだ。
「行ってくる」
彼は、その声だけを置いて部屋を出る。
眩しくて、眩しくて、目を開けていられない外の世界へ。
私には、見送ることしかできない。
彼の背中を、光に消えていく背中を見つめることしかできない。
そして、その背中を見失う。
いつもそうだ。
何度でも、何度だって、彼の背中を見失う。
暗い部屋の中。
何も見えない、闇の中。
何も見えず、何も聞こえず、そのくせ何かが見え、何かが聞こえる。
気のせいだ。
分かっていても、目を閉じる、耳を塞ぐ。
「ただいま」
浮かれた声が。
海に沈めた浮き輪が跳ね上がってくるような声が。
抑え難い衝動を、だから抑えられなかった声が。
彼の声が聞こえて、ようやく私は顔を上げる。
けれど。
部屋は暗闇のまま、彼の顔を見ることは叶わない。
それでよかった。
見えなくても、分かるから。
彼が笑う。
何かを言った。
声は、言葉を結んでいないけれど、それでよかった。
聞こえなくても、分かるんだよ。
「……」
彼が何かを言った。
「……」
私は何も言わずに答えた。
暗闇の中、彼と私を遮るものは何もない。
どんな声でも、どんな思いでも、届いてしまう。
だから、なのだろう。
私は彼が動く度に一緒に動いて、彼は私が動く度に何事か言った。
言葉はいらない。
声もいらない。
私たちには必要ないのに。
そんなものがなくても、理解し合えるのに。
だから、だったのかな。
「また明日」
彼が言った。
私たちの間に、帳が下りる。
夜の帳だ。
唯一、私たちを分かつもの。
私は眠る。
泥のように。
沈むように。
潜るように。
そして朝、窓から差し込む光に目を覚ます。
「……」
部屋を見回す。
見慣れた部屋に、見慣れない視界。
知っていた。
気付いていた。
だけど、言う必要はなかっただろう。
また明日。
彼がそう言うなら、そうなのだから。
「おはよう」
返されないと知っていて笑い、支度を済ませる。
戸の前に立ち、一言、
「行って」
あぁ、違うね。
「行ってきます」
私が言う。
浮かれた声で。
海に沈めた浮き輪が跳ね上がったような声で。
抑え難い衝動を、抑えようともしない声で。
「……」
誰かが、何かを言った。
私の背中に、届かぬ言葉を投げてきた。
それでいい。
言葉は無駄だ。
声は邪魔だ。
私と君との間に、距離なんてないんだから。
やがて私は、光の中に溶けていく。
眩しくて、眩しくて、目を開けていられない世界へ溶けていく。
そして、笑うのだ。
「おはよう」
今日からは、私の番。
この子の、この人の、中に眠る。
「あ、おはよ。どうよ、今日は。調子いい? やっぱ保健室?」
「やっぱってなんだよ、やっぱって」
「や、だって――とかうるさかったんだぜ、見舞い行こうよーって」
「困るな、そりゃ」
「だよな、迷惑だろ」
「ほんと。仮病がバレる」
笑って、笑って、笑って。
笑えばいいさ。
君が笑っている間、私が代わりに覚えておくから。
目を閉じ、耳を塞ぎ、衝動のままに叫んでやるから。
それは違うよ、間違いだ。
私は知っている。
私が知っているから、その間だけ、君は忘れてしまっていい。
忘れて、忘れて、忘れて、
笑えばいいんだ。
それくらいなら、できるだろう?
ねぇ、――。
夜の帳が下りた。
だから私は、彼に言う。
「おやすみ」
彼は眠った。
だから私も眠った。
明日は、またやってくる。
いつもそうだ。
けれど、いつでもじゃない。
ただ、明日だけは、またやってくる。
今日の私には、それだけで十分だ。
出典:なし
備考:実話をあまり元にしてないフィクション
解説:……