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三つ目 醜い女

 朝だ。

 ぼんやりとした頭で辺りを見回し、見知ったカーテンでここが自室だと気付いた。その隙間から差し込む強い光に、意識が晴れていく。心の奥に仕舞い込まれた淡い高揚感を見つけ、全てを思い出した。

 日差しの強さからして、もう夜が明けてかなり経つ。悠長に座り込んでいる暇もないだろう。

 ベッドから足を下ろし、そのまま椅子の背にかけておいた羽織を掴む。それを肩に引っ掛け、自室を後にした。部屋を出てすぐの廊下の窓にカーテンはない。自室のそれとは比べものにならない朝日が僅かに残っていた眠気さえ吹き飛ばすようだった。

 一歩踏み出すほどに現実感が増していく。

 今日はほんの数日前に決められた見合いの日だった。見合いとはいいつつ、実情はほとんど別物である。事実上の婚約状態にある私と相手が顔を合わせ茶でも飲みながら他愛ない言葉を交わす場。

 とはいえ家の都合だけで強引に決められた話というわけではない。家の都合ではあるのだが、私も、もう良い歳だった。そろそろ跡継ぎのことも……、と乞われ、ほとんど流れに任せる形ではあったものの、私自身の意思で頷いて今日に至る。

 洗面所でちらりと見やった時計が私を急かした。

 手早く着替え――形だけとはいえ、今日は見合いだ。現役の当主である父が家の誇りをかけて用意した衣装が、いつでも着られるように準備されていた――、普段は使わない廊下を歩いていく。

 埃こそないが、くたびれた廊下だ。踏みしめるごとに床が軋み、その音が胸の奥に沈んでいく。起きた時にはあったはずの高揚感が、気付けば色を変え、自覚せざるを得ないほどの不安感となっていた。

 見合いの席は、確か、広すぎる家の中でも特に奥まった部屋のはずだ。家の裏にある小さな庭に面しており、縁側に座り込んで茶を飲めば風情もある。今は季節ではないが、春先などは梅の花が美しく咲いていた。見合いには持って来いの一室と言えよう。

 しかし、そんな風情ある部屋に近付くほどに、私の心は曇っていった。

 その理由を探ろうと意識を心中に沈めていたからだろうか。気付いた時には、それがひどく神経を刺激していた。

 臭いだ。

 香りと呼ぶには相応しくない臭気だった。

 花のようではあるのだが、想起させるものは春先の梅から程遠い。生けた花を、その命であった水を、ただ腐らせただけではこれほどの臭いにはなるまい。話に聞く食虫植物が捕まえた虫とともに腐っていけば、こんな臭いを放つのだろうか。

 いいや、それでも、まだ足りぬ。

 この臭いこそを筆舌に尽くし難いというのだろう。

 とまれ私の心中をひどく掻き乱す臭いだった。

 あぁ、そうか。床の軋みが私の心を沈ませたのではない。まだ上手く掴みきれないほど些細だった頃から、この臭いが心の重りとなっていたのだ。

 一歩、また一歩と床が軋み、一歩、また一歩と臭いが強くなっていく。

 頭を割らんとするほどの臭気に顔を顰めそうになり、首を振った。ここは自室ではない。何より見合いの前だ。どこに人の目があるか分かったものではない。

「若旦那様」

 ほら、聞こえた。

 もう何年になろうか。気付いた時には傍にいて、気付いた頃から変わらぬ姿の老紳士が脇に立っていた。私の第二の学び舎であった書庫の番人にして、私の第一の教師である。祖父に等しい年齢ながら、実の父より父らしい存在でもあった。

「気になるのは分かりますがな、いずれ夫婦となる方の支度を立ち聞きなされるのは、遠慮したほうがよろしいかと……」

 言われ、はっとした。

 立ち止まってしまったのは貴様のせいだぞ、などとは言えまい。ここは私が生まれ育った家だ。わざわざ目を向けずとも、そこに何があるのか手に取るように分かった。

 私のすぐ右手には障子がある。この部屋は少々手狭で、使うとすれば、奥の一室に客を通した際の給仕部屋にする程度だった。見合いの今日は、どうやら手の込んだ支度をするらしい相手方の控室というわけか。

「……分からんか」

「心中を察するからこそ、僭越ながら助言致しているのでありますよ」

 これほどの臭気に気付かぬとは、流石に老いがあるか。

 顎を引くのみで偽りの心中を示し、私は逃げるように奥の部屋へと入っていった。既に用意されていた席に腰を下ろし、横目で庭を見やる。臭いなど届いてくるはずもないだろうに、鼻の奥で嫌な臭気が渦巻いていた。

 こんな季節にも咲く小さな花たちを眺める。

 廊下の床が軋む音。

 我知らず眉間に皺が寄る。そう緊張なさることはありませぬよ、と微笑する老紳士の囁き声で知ったのだった。臭気が強くなってきている。

 嫌だ。

 ようやく自覚した。

 あぁ、嫌だ。

 深く考えもせず、ただ自ら相手を探すよりは疲れず、また上手くいくだろうと頷いてしまった自らを許せない。床を軋ませる臭気が、季節外れの花の香りを踏みにじってくる。

 しかし。

 そうだ、そうなのだ。私は知らないではないか。体臭なのか香水なのか分からないが、この臭気の主を、私は知らないのだ。一目たりとも見てはいないのだ。

 無礼を通り越し、むしろ滑稽であることを承知で、一切の偽りなくざっくばらんに言うならば。

 その女は、臭気とは似ても似つかぬ麗しさやもしれぬ。

 なんと……、なんと私は愚かだったか。これは家同士の話なのだ。血と財産の存続、何より威信と自尊のための見合いなのだ。いかに人情に無頓着で合理主義を愛する我が父とて、豚舎の薄汚い獣よりも汚らしい相手を認めるはずがなかろう。

 縋り付くための幻想を、それは打ち砕いた。

「……これはこれは、麗しゅう」

 老紳士が恭しく頭を下げ、それを迎え入れる。

 それは、お辞儀で返したのだろうか。

 分からなかった。私には、何一つ分からなかった。

 左右で不揃いの、真っ直ぐ横に並んですらいないそれは、果たして瞳なのか?

 潰れたような両の目より大きく、息をするごとに荒々しい音を立てるそれ。

 歪んでしまって真一文字に結べぬらしい唇の奥に見えた黒は、時代錯誤に染めた歯だったのか、それとも見えるはずのない空洞だったのか。

 なぜ右肩だけやけに持ち上げているのか、いいや、そんなことすら些事に思わせる、『それ』は、女である以前に――。

「~~、~~~~」

 声は、言葉ではない。何かを、状況からして顔合わせの挨拶を口にしているはずなのに、そこに言葉を捉えることはできなかった。

 老紳士が何かを言っている。気付いた頃からの付き合いだ。湛えられた笑みが偽りではないことなど嫌でも分かる。

 それの背後から、廊下の角を曲がって、幾人かの影が現れた。両家の当主だ。あの仏頂面しか見せなかった父が、世辞を大いに嫌う父が、相手方の当主と談笑しながら歩んでくる。また何事か口にしたそれを見て、いやいや大変に麗しく……などと微笑みまでした。

 違う。

 こんなものは違う。

 これは何かの間違いだ。

 何もかも間違いで、――そう、夢なのだ。

 これは、こんなものは、夢に違いない。

 明日の朝起きて、羽織を掴んで、支度を済ませて花の香りを楽しみながら席で待っていれば、そこに…………。

 ぐちゃり。

 頭の奥で、何かが壊れた。

 私の向かいに座る女の顔はひどく、ひどく醜く……、そして…………。

 どこかで――。


   ×××


 夜だ。

 冴えた目が慣れてしまった闇の中でカーテンを見据え、毎朝眠りを妨げてくる日差しがないことを確認した。脳裏に焼き付いた情景に、心臓が早鐘のように打っている。心の奥底からわいてくる嫌悪感を認め、全てを吐き出したい衝動に駆られた。

 吐くものなどない。昼食はほとんど口にせず、夕食は用意すらしなかったのだから。

 季節も考えずに座り込んでいたせいで突き刺さるほどになっていた寒さが、心臓を凍らせてくれたようだった。這い出すようにベッドから降り、寝る前に脱ぎ捨てたセーターを羽織る。今度は床に座り込みたくなる足に鞭を打ち、震える腕をベッドに伸ばして体重を支えた。

 一秒ごとに嫌悪感が膨れ上がる。

 今日はほんの数日前に申し込んだ見合いの日だった。見合いとはいいつつ、実情は少々品がある代わりに必死さを滲ませる合コンのようなものだ。

 家の都合というわけではないが、なまじ歴史ある商家のせいで親は必要以上に子を望んでいる。私も、もう二十七だ。子供をもうけるには悪くない時期で、期限を何週間も過ぎた頃に問い合わせても滑り込ませてもらえる歳でもある。

 見合い……というか、婚活パーティーは、昼前からランチを挟んで夕方まで続くらしい。夜の部も催され、意欲があればそのまま……、という狙いがあるようだった。

 そう考えれば、今はまだ早すぎる。逃げるように掴んでいたスマホが示す時刻は、丑三つ時をやや過ぎた程度。

 しかし、再び寝る気にはなれない。

 悪夢だった。

 とっくに明かりをつけ、暖房で心地よい室温になってなお、心中を凍えさせる悪夢。どろどろと粘る冷気がいつまでも渦巻いているように感じられる。

 セーターを羽織ったまま、足には引っ張ってきた毛布をかけ、ベッドに座り込んでいた。何時間だろうか。いつもは忌々しく思うカーテンの隙間から差し込む朝日に、今日ばかりは救われた思いだった。

 母親からしつこく電話された翌週か、翌々週辺りに誘われたディナー。交際を断った週の終わりに婚活パーティーの申し込み期限が迫っているという広告か何かを見かけたはずだから、もう一ヶ月以上も前になるか。クリーニングから返ってきて一度も着なかった少々堅苦しい服に一ヶ月ぶりに袖を通し、私は部屋を後にした。

 今住んでいるのは夢に見たような平屋の豪邸ではない。時折噂を聞く同級生たちよりはいくらか高級だが、また別の同級生の男がもっと良い部屋を一括で買ったという話も聞いた。私の場合は親の金が半分、親のツテで入社した企業の給料が半分で月極を払っている程度。

 それでも一応は高級マンションということになっており、自動ドアが開ききるのを待っている数秒にも羨望の眼差しは認められた。

 三十手前だろう。レディススーツをきっちりと着た女の視線に込められた羨望が、何も高級マンションに対するものだけではないと知っている。しかし、それがなんだと思う自分のことも、私は知っていた。

 パーティーの会場までは少々の距離がある。レディススーツのピンと伸びた背を追おうかとも考えたが、すぐに我に返ってタクシーを止めた。追い抜いていく車たちの一台に私が乗っていることなど、あの女は興味もないだろう。

 そして労せず会場に着き、いささかの喧騒の中を通り抜けていく。受付で名前を告げて身分証を見せると、私より若い女はにこやかに笑い、然り気なく廊下の奥に手を向けた。がやがやと立ち話をする男女の間を縫って歩いていけば――。

「あぁ、お久しぶりです、お嬢様」

 見知った紳士に捕まった。老齢に差し掛かっているはずだが、髪はやけに黒く、背筋も伸びている。私に社会での立ち回り方を教えてくれた、父の旧友にして私の教師。

「わたくしなどは驚きすぎて棺桶に入ってしまうかと思いましたがな、奥様は大変にお喜びですよ。……あの男も、いつもの仏頂面を貫けずにいるようでした」

 父とは幼少期からの付き合い、……というか世話係として家に置かれていた子供の一人だったというが、今では家に仕えつつ旧友をからかうことを生き甲斐としているらしい。

「良い相手がいればいいんですけれど。……それより、これはなんです?」

「なに。お嬢様のような方を立たせておくのは気が引ける、という思いは、わたくしどもに限ったことではないのですよ」

 紳士が軽く頭を下げ、身を脇に寄せた。反射的に右足を引き、一瞬前まで右手があった方向へ会釈する。

「珍しい顔だ」

「お互い様ではありませんか」

 若さと威厳を兼ね備えた美男。

 知り合いだった。学校や職場の、ではなく、家の付き合いで幾度か話した相手。この手の催しに参加する男だとは思わなかったが、そこまで含めてお互い様だろう。

 やはり互いに興味を失って、それぞれ仕切られた空間の対角へと足を向けた。用意された椅子に腰を下ろし、開場を待つ。要は特別席というわけだ。婚活パーティーと聞いて男女の偏りを想像していたが、なるほど、資産家で知られる美男が来るとなれば事情はいささか異なるか。

 広くはない通路と隠しもしない警備員を挟んだ向こう側とは裏腹に、この特別席は沈黙に支配されていた。開場の合図は届かなかったが、前もって係の者が告げられた上、突然沸いた向こう側からの声を聞けば合図など不要だ。

「それでは、わたくしはこれにて」

 紳士が去っていく。資産家の男の付き人はここに残るようだったが、向こうは嫁を探すつもりなど元よりないのだろう。一方の私は、曲がりなりにも真っ当な参加者である。知人を待たせておいて朝まで顔を見せなかった、では事情を全て説明してしまっているようなものだ。

 喧騒が会場内へと移っていくのを見て、私もようやく席を立つ。

 警備員と受付嬢に笑みを向けられながら、慎ましくも豪華に飾られた入り口をくぐった。

 圧倒、という他ない。

 良い意味でも、悪い意味でも、そこは圧倒的な空気に支配されていた。

 件の資産家よりは数段劣るものの、それでも十分すぎる立場を持つ中年の男が一角に陣取っている。周囲には女。中には参加者の親ではないかと目を疑ってしまうほどに歳を重ねた女までいた。そんな女たちを遠くからチラチラと見やるような男たちもいる。女の中央にいる男へ、羨望よりも憎悪に近い眼差しを向ける者さえいた。

 中年の資産家が支配する一角から離れたところには、幾段も規模の小さい、それでいて賑やかな集団が見える。ややくたびれたスーツの男たちに囲まれ、良いとも悪いとも言えぬ、若いとも老いているとも言えぬ女が笑っていた。

 三十半ばか前半であろう女の曖昧な笑み。

 ここには、羊などいないのだろう。いるのは狼か、羊の皮を被る狼か、あるいは狼と羊など眼中にない獅子の類いだけ。

 私も――。

 私は…………。

「おや、どうかされました?」

 緊張気味の、しかしはっきりとした声だった。男で、声からして四十前後だろう。振り向き、男の顔を見た。

「っ。……気分でも悪いのですか? どうにも優れない顔色ですが」

 一言で切り捨てるならば、醜い。

 私の後ろ姿を――その不健康ではない痩身を、不潔ではなく高慢そうでもない適度な長髪を、卑屈ではない伸びた背筋を、そこに帯びる一抹の憂いを――見て、それでもある程度の妥協を覚悟して声をかけてきたのだと思われる。

 だが、現実は妥協どころの話ではなかった。

 私は、自分で言うのもなんだが、ある程度整った顔立ちをしている。学生時代には幾人かに交際を迫られたし、社会に出てからも真剣な想いを告げられたことがあった。中には同級生や同僚が羨むような男もいる。

 そんな顔立ちに加えて、高めに見積もってもまず三十路には見えない若さと、自立していながら完璧すぎない佇まい。大凡この場にいるような人種ではないのだった。美男の資産家と同じく、客寄せとして使われる側に近い。

 それは後ろ姿を見ただけの男が想像するはずもない女だったはずだ。

 少々見苦しい肥満体を無理やり細身のスーツに詰め込んだ男は、額や鼻から脂汗を垂らしている。十秒にも満たないはずの沈黙にも、男の脂汗は倍々に増えていくようだった。

「……いえ」

 微笑のみで一蹴できたものを、無意識に答えてしまっていた。相手の鼻息が荒くなるのが分かる。

「~~、~~~~」

 しかし、次の瞬間には意識から消えていた。男がぐだぐだと並べる言葉に意味などない。意味のある言葉ではなかっただろうし、私に向けることで特別に意味を帯びるものでもなかっただろう。

 ただ、私はその目を見据える。その目に映る、私自身を。

 大きすぎない瞳に、小さすぎるほどの鼻、薄いが血色の良い唇。小さく笑った時に覗く歯は白く綺麗に並んでいて、口元に添える手は握り締めれば溶けて消えてしまうかのように儚く欲望を刺激する。

 だが、その内側は?

 一言も喋らずにただただ眼差しのみを向けている私に、男は何かしらの誤解――いいや、それは願望だったのかもしれない――を抱いたらしいが、最早私には関係ないことだった。

 男の欲に塗れた目の奥に、私は私を見つける。

 とうの昔に自覚していた。

 私は知っている。良家に生まれ、正しい愛と教育を受け、人から羨まれる程度には美しく育った、その女を。

 朝起きて鏡に向かう度、その顔を見てきた。夜になり入浴する度、その身体を見てきた。

 しかし、私はそれ以上に見てきたのだ。

 自分を。

 自分の夢を。

 自分の心の奥底にある、冷え切った汚泥のようなそれを。


「あぁ、嫌だ」

 朝なのか、夜なのか、私には分からない。

 カーテンなどない、朝日が照らすことなどない、暗闇の中で。

 私は見る。

 私を見る。

 醜い女が、そこにいた。

出典:なし(初出)。

参考:とある男と犬の話。

解説:自身の醜さを知っているから、他者の醜さを知る。自身の醜さを許せないから、他者の醜さを許せない。そうして、また醜くなっていく。

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