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二つ目 二つの果実は始まりの日に

 世界は雄大だ。

 当たり前のようで、それは、とても貴重なことだった。

「綺麗だ……」

 僕もそう思う。

 心の中で言いそうになって、笑った。今のは僕の声だ。誰も聞いたことがなかった、僕の声だ。

 森があって、山があって、海があって、川があって、勿論、街がある。

 僕がいるのは、街の中の酒場だった。

 わいわいと賑わう酒場でお酒の代わりに何冊かの本を注文する。ここを初めて訪れた人には無償で配っているという入門書だ。お酒どころかジュースの一杯も注文しなかった僕に、カウンターの奥の美人は優しげに微笑んでくれている。

「行ってらっしゃい」

 そう言われるのが久しぶりだったせいで、思わず、振り返りかけていた顔を彼女に向けてしまった。お姉さんは少し首を傾げる。悪戯っぽい微笑が、正直、可愛い。

「行ってきます」

 背後のテーブル席で僕の顔よりも大きなジョッキを掲げていた男女のグループが手を叩いて笑った。手を振る美人なお姉さんに背を向ければ、彼ら彼女らと目が僕を見ている。

「困ったことあったら、言えよ」

 一番背の高い男の人が特大ジョッキを突き出してきた。

「……はいっ!」

 それだけで嬉しくなって、僕は酒場を後にする。男の人と一緒にお酒を飲んでいた人たちからもなんやかんやと声を投げられた。最後に振り返ってぺこりと頭を下げれば、ほんの数人の声援を背に酒場の扉を押し開けるだけ。

 途端、視界いっぱいに街並みが飛び込んできた。

 酒場は高台にある。眼下に赤や黄色や緑の果物を置く露天商が見えた。馬車の幌を捲り上げて即席の露店にしているところもある。真昼の太陽を反射する剣や盾、柔らかそうな布の胸当て。あそこに寄ってみたい。

「ううん、でも、ダメだったね」

 道の端、街を流れる川に向くベンチに腰を下ろす。渡されたまま握っていた本を開いて、ぺらぺらと流し読み。

 入門書は大切。でも、時間はもっと大切。

 僕たちに許された時間は、そんなに長くないのだ。入門書がいくら薄くても、ちゃんと読んでいけば全部で一時間も二時間もかかってしまう。

 それに、頭でっかちになるのは好きじゃない。まずは歩こう。自分の足で。

 ――そうだ。自分の足で歩くんだ。

 都合四冊にもなる入門書を、全部鞄に押し込む。腰に下げた、鞄というよりはポーチに近い代物。今着ている布の服と、安い革の靴、それから鞄の中に入っている本と手袋と小銭入れだけが、僕の全て。

 ベンチに座っているのが嫌になった。

 いいや、嫌なんかじゃないのかもしれない。ただベンチに座っているだけで、僕は落ち着かなくなっている。ベンチに座っているだけなのに、楽しい。それこそ胸が躍る。

 でも、もっとやりたいことがあった。

 踏み固められた道なんか無視して、川沿いを歩く。ほとんど駆け下りるように往けば、幌馬車の武具商が声をかけてきた。

「ごめんなさい。また後で来るからっ!」

 心に思ったことが、そのまま口を衝いて出てしまう。我慢できなかった。しようとも思わないけど。

 幌馬車や風呂敷が並ぶ露店通りを抜けると、街に自然が溶け込んでいく。

 傾斜が緩くなって、僕の足も少しずつ休み始める。高ぶった気持ちが落ち着いてきて、でも、まだ我慢はできそうにない。多分、しばらくは続く。

「ねぇ」

 やっぱり、思ったことを我慢できなかった。

 道端で突然話しかけられた小さい女の子は、驚いたように僕を見上げてくる。ほんの少ししか背は違わないはずなのに、彼女は色んな気持ちを瞳に浮かべていた。

 怯え、不安、願い、興味。

「そのリンゴって、売り物かな?」

 両手で抱えていた籠を指差し、それから、また女の子の瞳を覗く。籠いっぱいに詰まった果物よりずっと澄んだ紅。

「え、えっと……はいっ!!」

 うん、元気な返事だ。花丸の代わりに、僕は鞄から小銭入れを引っ張り出す。小銭入れの上に本が積まれていたせいで妙に手間取った。まったく誰なのか、こんな適当に本を突っ込んだのは。

「一個欲しいんだけど、これで足りるかな?」

 銅色の硬貨を一枚差し出す。女の子は目を見開いてから、ぶんぶんと首を横に振った。

 あれ。困った。これは困った。

 咄嗟に入門書を出そうとして、はたと気付く。

「これって何個買えるの?」

 銅貨一枚じゃ高すぎる。半銅貨や四半銅貨、それか物々交換で手に入れるものだったのだ。

 それは女の子の表情から分かった。「なんだこの失礼な客は」じゃなくて「なんでこの人はこんなにいっぱい」って顔だったから。

「ふ、二つ……、です」

 ほら、正解だ。僕の勘も悪くない。

「じゃあさ、一つ貰ってくれない?」

 籠を片手とお腹で支えながらポケットに空いた手を伸ばす女の子。必死な表情は、多分、「お釣りの半銅貨ありますよ」とか、そんなことを言いたいんだと思う。

「一緒に食べちゃ、ダメ?」

 違うんだよ、と暗に言ってみる。僕が欲しいのは半銅貨じゃない。もっと言えば、リンゴみたいな赤い果物でもないのかもしれない。

「僕はね、笑いたい。沢山、笑いたい。それは売り物だけどさ、僕が買って、その僕が君にあげるんじゃ、ダメかな?」

 女の子は困っているようだった。当たり前だ。突然こんなことを言われたら、大人だって困ってしまう。親か親戚に売り子を任されているらしい女の子には、もう天変地異か何かに見舞われたくらいの混乱があるはずだ。

「ね?」

 今のは、ちょっとずるかったと自分でも思う。

 困りながら、でも、女の子は果物から目を離せないでいた。僕が籠から一個貰って横に座ると、まだ困っているようだったが、彼女も座る。

 二人で足を投げ出して、子供みたいに――というか、一人は本当に子供だ――果物にかぶりついた。女の子が持っていた籠は、僕と彼女の横に置かれている。

 これは、僕が守るから。食べ終わるまで、ちゃんと。

「美味しいね」

「うん……あ、はい!」

 果物はリンゴに似た味がした。品種の違いまでは分からない。普通のリンゴに似た味、としか言えない。

 まぁ、でも、そんなことは気にしなくていいか。

 リンゴに似た果物は瑞々しくて、まず手が甘い汁で濡れる。次に口元から果汁が垂れて、顎から落ちる前に袖で拭う。

「あぁ、美味しい……」

 まだ我慢はできなかった。

 僕と女の子を横目で見ながら歩いていく人がいる。笑いかけてくる人がいれば、顔を顰めて足早に去っていく人もいた。そんなこと、気にはしない。笑いかけられたらにっこり笑って返すけど、嫌な顔をされたら見なかったことにする。

 五人か、六人か、七人か。途中は夢中になって食べていたから、細かい人数は分からない。

 でも十人も通り過ぎないうちに、僕の手から果物がなくなっていた。ヘタはなかったけど種はあったから飲み込んだ。隣の女の子は、綺麗に種の周りだけ残していた。どっちが年上か分からない。

「おい……美味しかった、です」

「うん。とっても」

 可愛かった。ほっぺたまで果汁で濡らした女の子。なんだろう、変な罪悪感がある。別に僕は悪いことはしていない……と思う。自分にちゃんと言い聞かせる。

「もう一個、貰っていい?」

 乾いてしまう前に、服で手の果汁を拭った。ペタペタしなくなったのを三度も確かめてから、僕は、銅貨を手渡す。


 渓流、だろうか。

 こんなのを見るのは初めてで、あと渓流の正しい意味も知らなくて、僕は少し悩んでいた。そんな悩みも楽しい。

 右手にリンゴ風果物、左手に入門書という装備で、僕はそこを歩いていた。

 左手には太陽の光を浴びてきらきらと線が走る林。右手には街にあった川と同じところに流れ出るだろう川。どちらも、深くなければ広くもないが、そう小さいものでもなかった。

「ほんと、何も知らなきゃ迷っちゃうよ」

 左手の入門書は地図として働いてくれている。何度も何度も入念に折ったから、力を込めなくても地図のページを開いたまま。……まぁそもそも、この入門書は十ページくらいの薄いものだけど。

「東かぁ……。一番は南寄りの道を行った橋、だよね?」

 果物を持っている右手の小指だけを地図に向ける。指差し確認は大切。声出し確認も多分大切。

「でも、北に大回りすれば街道に出る。山とか、ある」

 声に出す前から決まっていたようだ。声に出して気が付いた。

 果物の種だけ吐き出して、あとはぺろりと完食。

 周りに何もいないことを確認して、渓流のすぐ脇に腰を下ろす。膝を地面について、お尻もちゃんと踵に乗せた。川を覗き込んでも、これなら落ちない。

 手を伸ばして、渓流でちゃばちゃばと洗う。

「しまった」

 ――いやいや、いやいやいや。

 誰もいないからといって手についた果汁を舐めるなんて真似はできない。迷いが生まれる前に洗ってしまってよかった。

 ぶんぶんと首を振っているうちに、手洗いも終わり。立ち上がって川から離れ、万能手拭きアイテム『布の服』に手を擦り付ける。後で洗濯する。絶対に。だから許してほしいし、許してくれないならハンカチの一つでも恵んでほしい。

「静か、だな」

 忙しい思考を置いてけぼりにして、口元は呟きを漏らしていた。

 勿論、自然の音は溢れている。鳥や虫が飛ぶ音。風の音と、木の枝が揺れ、擦れる音。川が流れる音は、後ろから聞こえる。

「あぁ、あぁ…………、ダメだ」

 それは心に染み渡る『静けさ』。心を乱すばかりの喧騒なんかじゃない。無粋な人工音じゃない。粋で、胸を躍らせる、自然たちの合奏と合唱だ。

 居ても立っても居られなくなって、気付けば、僕は走り出していた。街の中の駆け足とは全然違う。全速力の、猛ダッシュ。

 苦しさからか、悔しさからか、悲しさからか。

 嬉しさからか、楽しさからか、それとも――。

 溢れた涙が頬を斜めに切って、耳の下を濡らしていく。髪が濡れるのが分かった。風が濡れた髪を引っ張る。川と木と鳥や虫が奏でる歌に、胸が躍って足が踊った。

「うおぉ――っ!!」

 晴れ渡る空のもと、歓喜の叫びが響いた。

 渓流と林を背景に、僕は一面に広がる世界を両手に抱く。抱えきれるわけがない。世界は雄大なんだから。

「よう、駆け出し(ルーキー)

 緑色の先に一筋の砂色。雄大な世界のちっぽけな一角にある、あまりにささやかな街道。その先から、その人は声を投げ、駆け寄ってきた。首から下を立派な鉄の鎧で包み、腰には直剣、掲げられた左腕には小ぶりの盾が固定されている。

「こっちは違うぞ? 東に行くには遠回りだ。こっちが北で、あっちが南」

 背は決して高いとは言えない男の人が伸ばす腕は、きっと、僕より沢山の世界を抱いてきたはずだ。僕よりずっと多くを見て、多くを想ってきたはずだ。

「あの、僕はっ!」

 叫んで、咳き込む。ずっと走ってきていたんだ。地図では数センチの距離でも、実際に走れば息も切れる。今になって、ようやく、僕は疲れていることを自覚できた。

「石頭かよ」

 必死に息を整えていた数秒、……いいや、数瞬のうちに、人影が増えていた。

 男の人の唯一鎧に守られていない頭を後ろから軽く叩いて、もう一人の男の人が歩いてくる。靭やかな身体を、布と獣毛を合わせたような外套で包んでいた。

「やぁ、兄弟」

 彼は笑った。

「どうだ? 世界は広いだろう?」

 示されるまま、ちっぽけな世界から、雄大な世界を覗き込む。

 天井などない突き抜けた蒼穹。湖を漂う気ままな小舟にも似た切れ切れの雲たち。

 真っ直ぐ見やった遠くには白い山。その上空を覆う積乱雲の隙間を、横長の影が泳いでいった。

 白い山の裾野には灰色があって、砂色、青々とした緑へと伸びていく。

 緑から右へ右へと視線を進ませれば、小さな小さな鋼の輝き。林立した尖塔の頭上には雷雲があった。稲光が走るごとに、尖塔が煌めく。

 遠く遠くに旅をしていた視線が、すぐ目の前に帰ってきた。

「見たかったんだろ? 俺もそうだった。見たかった。こんな世界を、見たかった。我慢できなくて、走って、走って走って走って、景色に見惚れてから、自分の足がガクガクになってるって気付いたよ」

 外套の男がニヤッと笑う。

 嬉しい。楽しい。

 嬉しさと楽しさが心をいっぱいに広がって、頭の中まで占領しちゃって、他に何も考えられなくなっていた。

「でも、街道沿いは危険だ。視界が開けてるし、なまじ整備されてるせいで盗賊も出る」

 そうだった。

 当たり前のことが、抜け落ちていた。今の僕では、盗賊どころか大きな虫と鉢合わせただけで大変なことになってしまう。

 急速に冷えていく頭の奥から、凍ったように冷たいものが目に流れていく感覚。

「たーだーし、今回は特別っ!」

 涙で霞みそうになった世界に、細くても力強い親指が見えた。外套の人は眉を吊り上げ、鎧の人に笑いかけている。

「護衛してやる。特別だぞ? 他の誰にも言うなよ?」

 悪戯めいた笑みを浮かべる彼に、僕は力いっぱい頷いた。

「あの、僕はっ――」

「ストップ、ストップだ。一回しかない最初の自己紹介はまだ取っておくこと。それに、名乗られたら俺も応えなくちゃいけなくなるしな」

 自己紹介を温存する意味があるとは思えない。

 でも、まぁ、そういうことにしておこう。

「ま、俺たちはもう兄弟みたいなもんだ。兄貴って呼んでくれても――」

「ただの通りすがりの先輩、よろしくお願いしますっ!」

 仕返しに笑ってみせて、一歩近寄る。いつもなら不安に駆られ竦んでしまうはずの足は、なんの躊躇いもなく踏み出していた。

「フラれたな」

「うっせえよ。お前は警備依頼ちゃんとこなせ」

 鎧の人が笑うと、外套の人が悔しそうに言い返す。

 そして、『兄貴』は、僕のほうを見た。

「さて、行こうか。見たことのない、広い広い世界に」

 差し出された拳に、僕は、拳を返した。

 華奢な見た目に反して力強い拳と、見た目通りの小さく非力な拳が、こつん、とぶつかる。

 世界は雄大だ。

 それは本当に、――本当に当たり前のことなのに、僕は見ようとしていなかった。

 心の底では分かっていたはずなのに、僕は、ちっぽけだと笑っていた。

 でも、今日。

 今、この時。

 ちっぽけな世界を走り抜けた先に、雄大な世界が――嬉しくて苦しくて、辛くて楽しくて、だからこそ心躍る世界があることを、初めて知った。

出典:なし(初出)。

参考:とある手記。及び、とある物語。

備考:この一日の物語を前日譚にできる時が来ることを、切に。


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