あなたといた夏
第1回なろう文芸部@競作祭『キーワード:夏』投稿作品
――その夏の日の出会いは、果たして誰のためのものだったのだろう。
私はごくごく普通の中学二年生女子だ。
『どこにでもいる』とか『ありきたりな』と表現することはできないけれど、それでも、『普通の』女子中学生だ。
もちろん、本当は『普通』なんかじゃないんだってことはわかってる。
腰まである黒髪に、整った顔立ち。
中学生離れしたスタイル。
そして『本当は心が無いんじゃないの~?』なんて、同じクラスの『心無い女子』に陰口を叩かれる原因のひとつとなっているのであろう、冷めた瞳。
それが、私――河野瞳という人間を構成している要素だったから。
けれど、私という人間にとっては、それこそが『普通』。
そう、この私のような人間こそが、河野瞳という少女の主観においては、『普通の女の子』なんだ。
でも、『心が無い』というのは、ある意味では当たってるのかもしれない。
もちろん、『あんにゃろう、よくも陰口なんて叩きやがったな。いつか絶対後悔させてやるから覚えてやがれ』くらいは思ったりもするけれど、結局は、いつもいつもそれでお仕舞い。
いまだって、お父さまの言いつけに唯々諾々と従って、千葉県某所にあるという空き地へと向けて歩を進めてる。
心の中は空っぽ。
夏休みだというのに、なんで私はこんなことを、なんて考えも浮かばない。
だって、夏休みにやりたいことなんて、なにひとつなかったから。
お父さまに言われたとおり、五日間ほど叔父さまの家に厄介になって、その間、昼には近くにある空き地に必ず足を運ぶ。そして、そこで時間を潰すこと。
それが、お父さまに言われたすべて。
クラスメイトの女子に言わせれば『心が無い』らしい私は、その言いつけを忠実に守り、空き地で無意味な時間を過ごす。
それはきっと、『心のある人間』にはできないことなんだろう。
そして、その初日。
空き地でぼけーっとするのに終始する五日間の、一日目に。
私は、そこでひとりの少年と出会った。
◆ ◆ ◆
その少年は、なにをするでもなく、ただ草の上に腰を下ろしていた。
そうして、空に広がる入道雲を、ただただぼけーっと見上げていた。
――その姿を、いつか私は、どこかで……。
そこまで思考し、私は既視感を覚えた理由に思い当たる。
なんのことはない。
これから私がしようとしていたことと、この少年がいましていたこと。
それがまったく同じだったからだというだけのことだ。
その事実になんとなく親近感が湧き、私は改めて少年の横顔を観察する。
見た感じ、小学生だろうか。少なくとも、中学生ではない気がした。
でも幼い顔に浮かんでいるのは、深く濃い憂いの色で、彼の横顔をどことなく大人っぽく見せていた。
そのくせ着ている服はTシャツに半ズボンと、いい意味で子供っぽい装いで、なんというか……うん、中学生や高校生といった年上の女の子に可愛がられそうな雰囲気が感じられた。
ちなみに、当の私自身がその中学生女子だという事実は……とりあえず、横に置いておこう。うん、置いておこう。
「……僕になんか用? お姉さん」
と、不審そうな声と共に、少年の顔がこちらに向けられた。
うん、そうよね。そういう反応になるわよね。
でも犯罪的ななにかを想像してる感じじゃない。
これは、あれだと思う。
『きれいなおねえさんは、好きですか』効果。
いつの時代も、やっぱり世界は女性に優しくできてい――
「…………。交番、行ったほうがよさそうだな」
「待って、行かないで!」
全然、優しくできてなんかいなかった。
少なくとも、この子に『女性だから』という理由で警戒を緩めるという発想はないらしい。
現に彼は、ぼそぼそと死刑宣告にも等しい言葉を続けていく。
「だって、お姉さん、知らない人だし。知らない人に声をかけられたら大声出すか通報するか交番に駆け込めって学校で――」
「先に声をかけてきたのはあなたでしょー!」
「……あ、盲点。言われてみれば、確かにそうだ」
よ、よかった。いまので思いとどまってくれて、本当によかった。
私が『怪しい人』だっていう誤解はまだ解けてないだろうけど、それでも、これで大声出される危険はなくなったはず。
よし、次に目指すは『怪しい人』から『ちょっと変わった人』へのランクアップ……って、それはランクアップっていえるのかなあ。
「ところで、お姉さん。お姉さんは誰か呼ばなくていいの?」
「え? な、なんで?」
「だってお姉さん、いままさに『知らない人』に話しかけられてるじゃん」
「えっと、それは……」
ああ、『変わった人』なのは、私じゃなくてむしろこの子のほうだったのか。
そして同時に、私は心の中で安堵の感情と共にそっとつぶやいた。
私が女、この子が男の子で本当によかった、もし逆だったら冗談抜きで危ないところだった、と――。
◆ ◆ ◆
男の子は瀬川和樹と名乗った。
この近くにある、私立硝箱学園初等部の五年生。
そんな彼が言うには、親友だと思っていた同性の幼なじみと、ある日突然会えなくなってしまったらしい。
そして心にぽっかりと穴が空いてしまった彼は、なにをしていいかもわからず、その親友といつも遊んでいたこの空き地へと毎日のように足を運ぶようになったのだという。
突然の転校とか、きっとそういうのなんだろうなとは思ったけど、私はそれを口に出しはしなかった。
この少年は、もう充分すぎるほどに傷ついている。
彼の語り口や表情からそれが感じとれたから、これ以上心を抉るようなことは言わないほうがいいだろうと、そう思っての判断だった。
ただ、そう考える自分自身に、少しばかりの『らしくなさ』も感じた。
だって、私は本当に冷たい人間なのだ。
『これ、感動するよ』って本を勧められても、『どうせ作り話だし』と涙の一滴も零さない、そういう『心無い』人間なのだ。
相手のことを慮るなんてことは一切しないし、よほどのことがない限り大きな声を出したりもしない、そんな『無感情』とも思われるような人間なのだ。
だというのに私は、この少年――和樹のことを思って言葉を胸のうちに留めた。
いや、それ以前に、彼には一番最初から強い感情をぶつけてしまった。自然と、そうしてしまっていた。
それは、なんて……なんて、私らしくない行為。
「ところでさ、なんでお姉さんはここにいなくちゃいけないの?」
「ん? ここにいなくちゃいけないって言われてるから、いなくちゃいけないの。あなたが毎日学校に行かなくちゃいけないのと、本質的には同じこと」
「でもさ、学校行くのと違って、これってかなり暇じゃない?」
「……そうでもないわ。あなたが話し相手になってくれてるから」
言って少年の隣に腰を下ろし、微笑する私。
そして、『微笑む』なんてことができたことに、誰でもない私自身が驚いてしまった。
そんな私の心境をよそに、和樹は照れたように「あ、そ……」と私のほうに向けていた顔を逸らしてしまう。お、なんだ。年相応の可愛げもあるんじゃない。
「……でもさ、やっぱり変わってるよ。お姉さんは」
「大丈夫。あなたも充分変わってる部類に入るから」
「ぼ、僕は普通だよ!」
その宣言に、私は思わず遠い目になってしまう。
「ねえ、和樹。知ってる? 自己申告のその言葉ほど説得力のないものもないのよ?」
「え、なに? その妙に実感のこもった口調は……」
だって、他でもない私自身がそうなんだもの……。
けど、まあ、それでも。
「でも、自らの主観において『自分は普通だ』って思うのは、自由よね。うん、それは絶対に許される。罪には、ならない」
「…………。やっぱり変わってるよ、お姉さんは」
少しだけ沈黙してから、和樹はどこか楽しげに、苦笑混じりにそう漏らした。
そんな彼の両頬を、私は『そういうことを言うのはこの口か』とばかりに引っ張ってやる。
ちなみに、涙目になって両の頬を抑えることとなった和樹を見て、思わず『可愛い』と感じてしまったことに関しては……うん、私の中だけの秘密、ということで。
◆ ◆ ◆
和樹と初めて出会った日から、一週間が経った。
そう、一週間だ。
和樹はあれから毎日空き地にやってきては、暇を持て余している私の話し相手になってくれた。
そして彼とすっかり離れがたくなってしまった私は、お父さまの言いつけである五日間が終わると同時、夏休みの間は引き続き叔父さまの家においてもらえるよう、お父さまと叔父さまに頼み込んだ。
そのとき叔父さまは、私のことをショタコンだなんだとからかいはしたけれど、私のお願いそのものは快諾。
お父さまに至っては『こうなるのを狙っていた』と言いたげですらあった。
おまけに、
「お前が望むのなら、硝箱学園に転校させてやってもいいぞ」
とまで言う始末。
もちろん、私と和樹の出会いは、仕組もうと思ってやれるようなことじゃないから、私が勝手に邪推しているだけなのだろうけど。
ともあれ、そんなわけで今日、私は和樹の家にやってきていた。
なんでも和樹が、家で『いつもお世話になってるお姉さん』として私のことを話題に出したら、『ぜひ一度家にも来てもらいなさい』となったらしい。
和樹に一体どんな世話をしてあげられただろうか、と首を傾げたものの、言いつけられていた期間が終わって自由に行動できるようにもなったことだしと、私は謹んでその招待を受けることにした。
そしてリビングで和樹の両親に挨拶し、私に自分の部屋を見せたいという和樹の後ろについて二階に上がり。
いま、私と和樹は。
「あのさあ、まだ八月になったばかりだよね? なのに僕、なんで机に向かって宿題なんてやらされてるの? ひーねぇ」
「私と初めて会ったときに言ったでしょう? なにをしていいかもわからず空き地に足を運んでたって。だから私が、和樹がいまなにをするべきなのかを示してあげたんじゃない」
「だからって夏休みの宿題をやるって選択はないと思うんだよ、僕……」
「なにを言ってるの。夏休みの宿題なんて、七月のうちに終わらせておくのが普通でしょう? まったく手つかずの和樹がおかしいのよ」
「ひーねぇのほうだよ! おかしいのは!!」
「……和樹。『自分のほうがおかしい』っていう自覚のない人間は、みんなそう言うのよ?」
「その『みんな』の中には絶対にひーねぇも含まれてるって!」
「失礼ね。私は『普通』よ。『正常』よ。それにほら、こんなに優しくて優秀な家庭教師につきっきりで教えてもらえる機会なんて、なかなかないわよ?」
「うわあ、自分で自分のことを『優しくて優秀』とか言っちゃってるし……。それに、まだ始めたばかりでこんなことを言うのはアレかもだけど、初めて来た僕の家で『夏休みの宿題をやれ』って言い出すひーねぇからは、優しさよりも厳しさのほうをより強く感じるよ。教え方、絶対スパルタだよ……」
「うるさいわねえ。ほら、ぶつくさ言ってないで進めた進めた」
「うるさいって言った!?」
もうすっかり打ち解けた口を利くようになっている私たちだった。
和樹も私のことを『お姉さん』じゃなくて『ひーねぇ』と呼ぶようになっているし。
それにしても、と宿題を進める和樹の手元を見ながら私は思う。いや、思うだけに留まらず、口にも出してしまう。
「半ば強制的にやらせてる私が言うのもなんだけど、解くの早いわね、和樹。特に暗記系のものは頭の中に教科書がそのまま入ってるんじゃないかってくらいのスピードだわ……」
「んー、そのまま入ってるのと似たようなもんだよ。『思い出そう』とすれば、教科書の内容も先生の言葉も全部思い出せるんだから」
言って向けられた瞳には、『だから勉強はつまらない』という冷めた色があって、それに私は二つの意味で驚いた。
ひとつは、単純に和樹の『記憶力』に対して。
もうひとつは、その冷めた瞳が、鏡で見る私のそれにあまりにも似すぎていたから。
「みんなは『できない』って言うんだけどね、この丸暗記」
「まあ、そうでしょうね……」
でも、そういう『暗記』ができる人間が稀に存在するというのは、お父さまから聞かされて知っていた。
だから、和樹のしている『暗記』は、きっとそれと同じもので……。
「あのね、和樹のそれは、きっと『記憶してる』んじゃなくて『記録してる』のよ」
「『記憶してる』じゃなくて『記録してる』? なにそれ?」
「『一種の超能力』と称するべきなのかしらね。ビデオテープに録画したり、CDに録音するのと同じように、脳に『その光景』を直接、無意識のうちに焼きつけちゃうらしいんだけど」
私は『できない』側の人間だから、どうしたって推測するような言い方になってしまう。
「だから好きなときに『再生』できるんだって、ね。当たり前のことだけど、『思い出そう』とさえしなければ、普通の人と同じようにやっていくことも可能らしいわ」
「……よく、わからないけど。そうすれば、勉強も楽しくなるの?」
「いいえ。きっと、大変になると思う。でも、『退屈』と『大変』だったら、あなたはどっちを選ぶ?」
私の問いかけに、和樹はうつむいて「そういえば、みんな『大変だ』って言ってるもんなあ……」とつぶやいてから。
「あ、でも、『大変だ』って言い合うことはできるようになるよね? ほら、僕が学校で『簡単すぎてつまらない』って言っても、誰も『そうだね』とは言ってくれないから……」
「そうね。間違いなく、共感は得られるようになると思う」
その言葉に、彼は顔を輝かせた。
人間は『退屈』をもっとも嫌い、最大の『苦痛』であると認識するという。
けれどこの少年には、それを上回る『苦痛』があったんじゃないだろうか。
そう、他者の『共感』を得られないという、『孤独』という名の『苦痛』が。
と、そんなことを考えていたら、階下から和樹のお母さんの声が聞こえてきた。
スイカを切ったから降りていらっしゃい、と。
◆ ◆ ◆
リビングにあるテーブルには、綺麗に切り分けられたスイカがあった。
正面からなら半円状にも見える、スーパーでは『八分の一』として売られている形のものだ。
私と和樹は並んで席につき、そのスイカをお皿から直接両の手で持ちあげ、かぶりつく。
もちろん、行儀のいい食べ方でないことはわかってる。
でも、このほうが楽しいんだって、私は和樹と接することで知った。
子供はいつか必ず大人になる。だから、子供でいられるうちは『子供らしく』していたほうが幸せなんだって、そう気づけた。
赤いスイカは水分たっぷりで、両手も口の周りもすぐにべとべとになってしまって。
でも、それすらも楽しく感じられて。
いままで私はなんてつまらない人生を送ってきたんだろうって、どれだけの時間を無意味に過ごしてきたんだろうって、いまさらながらに、そう思った。
私のほうへと向けられた和樹の顔には、満面の笑み。
とてもとても子供っぽい、年相応の、無邪気な笑顔。
それに私も、私にできる精一杯の笑顔を返す。
そんな光景を胸に刻みながら、私は誓った。
この一週間を、忘れない。
『心の無かった私』が心を取り戻せたこの夏を、私は、絶対に忘れない。
失くさない。
見失わない。
取り戻した『私の心』を、私は、もう、二度と――。
◆ ◆ ◆
あれから月日が流れること、六年。
私は和樹に、私が知るありとあらゆることを教えながら日々を過ごした。
それは和樹のためというより、ただ単に私がお姉さんぶりたかっただけなのだけど、それでも、結果的には和樹のためにもなったのだと思いたい。
そして、私がそんなふうに可愛がっていた和樹は、いまはもう私の隣にはいない。
離れたのは、私のほうからだった。
いまから約三年前のある夏の日。お父さまから『すべての真実』を聞かされて、そうするように言いつけられた。
端的に言って、私と和樹の出会いはすべて、周囲の人間たちによって仕組まれていたことだった。
お父さまや叔父さまはもちろんのこと、和樹のご両親までもが示し合わせて。
当時の和樹は、『親友である幼なじみ』を唐突に失って、茫然自失の状態に陥っていた。
私と出会ったときにはそこそこ立ち直れていたようだけれど、最初の頃は本当に酷いものだったらしい。
和樹の両親は、そんな和樹に明るさを取り戻させなければならなかった。
取り戻してほしかったのではなく、取り戻させなければならなかった。
そして、彼に気力を取り戻させるための人物として、私に白羽の矢が立った。
つまるところ、私はそのためだけにお父さまに『使用』された道具、というわけだ。
そして、そんなふうに『出会い』を仕組まれた人間は、世界を見回せば数えきれないほど存在するのだという。
もちろん、私はその事実に反感を覚えた。
その真実を教えられたときには、もう和樹のことを愛しく感じるようになってしまっていたから、それは余計に強いものとして表れた。
仕組まれたからこそ、私たちは出会えた。
仕組まれなければ、私たちは絶対に出会えなかった。
それが理解できるくらいには大人だったから、どうしても。
だから、私が和樹から離れたのは、お父さまの言いつけに従ってのことじゃない。
むしろ、逆だ。
そうすることで、私はお父さまに反抗したのだ。
表向きは、きっと同じことなんだろうと思う。
結局は、お父さまに従ったことになるんだろうと思う。
でも私は、『出会い』を仕組まれたのが嫌だったから。
素直に『出会えてよかったね』って言えない環境が、『どうしてこんなことを』とお父さまを憎めない現状が、どうしようもなく嫌だったから。
だからせめて、私と同じような出会い方をする人たちを、『出会い』を仕組まれる人たちを、少しでも少なくしたいと思った。
そして同時に、和樹とは距離を置かなければとも、強く思った。少なくとも、『出会えてよかったね』って、私が心から言えるようになるまでは。
そうして、私と和樹の歩む道は二つに分かれた。
――わかってる。
これはただの、私のエゴだ。
別れなんて、和樹は絶対に望んでなかった。
でも、私にはこうすることしかできなかった。
お父さまに反抗する他の手段が、私にはどうしても思いつけなかった。
もちろん、この選択に悔いがないといえば嘘になる。
私は和樹の『親友』と同じ仕打ちを、彼にしたのだ。
心にぽっかり穴が空いて、茫然自失にまでなるような苦痛を、もう一度彼に味わわせたのだ。
それは、彼の心を傷つける行為だっただろうと思う。
彼の心の『闇』を濃くする行為だっただろうと思う。
それを申し訳なく思い、涙を流すことは幾度もあった。
『こうすることしか選べないお姉ちゃんで、本当にごめんなさい』と、別れるときに口にした言葉を、何度となくつぶやきながら。
――ときおり、思うことがある。
あの夏の日の出会いは、果たして誰のためのものだったのだろう、と。
私という人間は、和樹を救うための『道具』だった。
そのように、お父さまによって『使用』された。
でも、あの出会いのおかげで『救われた』のは、本当に和樹のほうだったのだろうか。
違う。
救われたのは、私だ。
失くした心を取り戻すことのできた、私のほうだ。
あの夏の日がなければ、いまの私はきっとなかった。
あの夏の日がなければ、きっと私は『現実』と向き合うことすらできないまま終わっていた。
あの夏の日がなければ、きっと私は――
「ヒトミ、ちょっといいかしら?」
私の部屋の扉をノックする音と共に、私のいまの『仲間』である幼い少女の声が聞こえてきた。
それに私は長いことうつむけていた顔を上げる。
そう、和樹との別れは自分で選択したことなんだから、いつまでもうつむいてなんかいられない。
――夢のような毎日だった。
過ぎ去っていく時間が、すべてキラキラと輝いて見えていた。
それは三年にも満たない短い日々だったけど、本当に楽しかった。幸せだった。
その思い出を支えにして、私は私の道を歩んでいこう。
そう、少しでも早く、あの夏の日に還るために――。
ジャンルを『恋愛』にすべきか否か、六年という期間の空白をどうやって表現しようか、この二つで大いに悩みました。
この物語は、長編『黒き魂を持つ者たち』の前日譚的エピソードではありますが、『ひとつの短編』として読んでもらえるように頑張って書いてみたつもりです。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。