電車と肩
彼女とのデートがキャンセルになった。僕は少し寂しかったけれど、空いた週末を利用して故郷に帰ることにした。
当初の予定では日曜日の夕べに実家を出るつもりだった。しかし、思いの外故郷は居心地がよかったので、僕は一日延ばすことを決めた。幸い、月曜日の授業は二限からだ。
朝七時、通勤ラッシュの電車に乗った。実家から一人暮らしをしている家まで、電車で三時間はかかる。少し長旅だが、読書をしていればあっという間についてしまうだろう。僕は読みかけの本を丁寧に読んだ。
ところで、僕は電車というものが苦手だ。正確には人の密集した空間が嫌いなのだが。通勤ラッシュはどうしても人で溢れてしまう。その息苦しさに加えて、躰が触れることがなにより嫌だった。隣の座席の人と躰が触れ合うと、自分の座る範囲を守れと云いたくなるのだ。僕は見かけによらず、とても自尊心が高い性格で、動物的だ。だから自分のテリトリーというものに敏感だである。こうした感情は少なからず誰しもが持っていると僕は信じている。
僕が読書をしていると、隣の席に若い女性が座った。ネイルをしていないところをみると、僕の苦手なタイプではないとわかった。しかし好みのタイプであるかと訪ねられても、それはどうかわからない。ただ、この女性はどうやらとても眠そうにしているらしかった。
予想されたことだったが、彼女は僕に寄っかかってきた。もちろんこのとき、心に大きな不快感が沸いてくる。テリトリーを犯された不快感だけではない。読書を邪魔されたことも加わるのだ。世の中には「若い女性に寄っかかれて、むしろありがたいじゃないか」との声も聞くが、僕の中では許されない行為だ。僕は女子供容赦はしない、修羅な人間である。いや、さすがに子供は許すのだけれど。
はじめの内は肩を預けさせてあげたが、次第に不快感に我慢できなくなり、こちらから対抗手段に出ることにした。寄っかからせて、一気に身を引くのだ。すると彼女の躰は支えをなくし、ガクンと体勢が崩れるのである。そうして「寄っかかられるの、嫌なのでやめてください」と暗に示すのだ。しかしこの若い女性、懲りもせず何度も僕に躰を預けてくるのだ。このままでは僕が疲れてしまう。
僕は次の対抗策に出た。不快感を強く醸し出すのだ。具体的に僕がしたのは咳き込みだった。不快感を出すためによくおじさんが使うテクニックだ。これをすると、僕もおじさんに近づいているのだな、としみじみと考えてしまうのがデメリットだ。しかし、これ以上に不快の意思を表す行動はない。僕は肩に重さを感じるたびに、強く咳き込んだ。
……まったく効果がなかった。どれだけ厚顔無恥なんだ、と口の中で呟いた。周囲の乗客は僕が寄っかかられているのに気づいている。中には視線を送るものもいる。しかし、彼女は僕の肩で眠るのを諦めない。次第にほんの少しイライラとしはじめた。
僕は本に集中できず、肩に圧迫を覚えながら、悶悶とした電車の時間を過ごした。どうすれば、この苛立ちは消えるのだろうか。
少し思考を変えてみることにした。想像してみたのだ。僕が彼女ならばどうだろう。昨日はあまり眠れなくて、けれど今日も仕事がある。躰は棒のようで、立ってるのもやっとだ。そんな時、たまたま座席に座れた。ようやく眠れるのだ。降車駅までまだ少しある。この時間を利用しないわけにもいかない。
僕だったら、隣の人に寄っかからない。けれど、人には人の事情があるのだ。第三者の僕が案ずる必要はないのかもしれないが、思いやりというのも必要なのだろう。そう考えると肩にかかる重みが苦痛ではなくなった。苛立ちも次第に薄れ、大らかな気分になった。彼女は僕に躰を預けながらぐっすりと眠っている。
他人のために自分を曲げることを「負け」だと云う人がいる。確かに相手だけ得をして自分が損をすれば、その気持ちは当然なのだろう。けれど、張り合わずに引くことで、損だと思う感情が消えることはある。
要は自分の気持ち次第なのだ。肩が当たって嫌だと考えるよりも、肩を貸してあげようと考えるほうが気が楽になる。この対処法は自己満足なのかもしれないが、それで気が晴れる方が良いだろう。人間は内側の世界ですべてが完結する、都合のいい生き物なのだ。
終点に着くと一斉に人が流れ出た。僕は少しだけ待って、すがすがしい思いで降車しようと思った。隣で彼女が目を醒ます。僕はちらりと顔を伺った。美人なら嬉しいな、と。
人間とは内側で完結する生き物。美人に肩を貸せたと思えたなら、もう少しだけ軽い足どりで電車を降りられたのだろう。