全能の竜と死に臨む少女の願い
竜は全能である。
いつから存在していているのか、竜自身ももう覚えていない。
自分が生まれた世界の終わりを越えてから、いくつの世界の終わりとはじまりを繰り返したかも、もう数えてはいない。
世界の終わりに己が直接関わったことも、はじまりを導いたこともあったはずだがもうそれも朧だ。
それでも微かに残る、誰かの肩に止まっていた小さな己の記憶。
それすらも消え去った時、竜はやっと全能の竜として完成するのかもしれない。
見上げるばかりの大きな体は、これ以上大きな生き物はいない。
鋭い牙を揃えた口は、世界のどんなものでも噛み砕く。
金色を基にすべての色が混じった瞳は、どこまでも見通すことができる。
背に生えた翼は、大きな体を何よりも速く空を飛ぶことを可能にし、風を起こせばすべてを吹き飛ばす。
漆黒の竜鱗はあらゆるものを弾き返し、竜に危害を加えることは不可能だ。
そして竜がその大きな口から火を噴けば、どんなにつよい生き物も、どんなに固い建物も、たちまち燃え落ちて消えてしまう。
一個の生物としての強さもさることながら、竜の本当の「力」はその強さではない。
竜は、誰かの願いをかなえることができるのだ。
誰のでもというわけでは、もちろんない。
誰よりも強い願い。
どれだけ深い絶望の淵にあっても、いや絶望の淵にあってこそ、自分自身を犠牲に捧げてすら、それでも祈り続ける願い。
それのみが、常は眠っている竜の意識を呼び覚まし、その全能をもってその願いを叶える。
その願いがどんなものであっても、竜は頓着しない。
己を呼び起こすに足りた祈りを、その願いを、己の力全てを使って叶えるのみ。
そこに理非善悪はない。
だが竜の「全能」にもルールはある。
それは竜が己の願いのために、その「全能」を駆使することができないという、一点のみだ。
誰かの望みはその「全能」をもって叶えることはできるが、己の望みにその「全能」を使うことはできない。
もしそれをすれば、その願いを最後に、竜は消えてしまう。
かつては竜も、己の願いを持っていた気がする。
もう擦り切れて忘れてしまったが、それで己が消えてしまってもいいと思えるくらいの、願い。
だがその願いは、その願い故に叶えることはできなかった。
なぜなら「あの人」がそれを望まなかったから。
だからこそ竜は、狂おしいまでの祈りに、願いに呼応してそれを叶えるのかもしれない。
永遠に続く代償行動。
全能なはずの己。
叶えられないままの願い。
――終わらない絶望。
これはその「全能の竜」が、終わりを迎えるお話し。
ずいぶんと久しぶりに、「祈り」に反応した。
何年振りか、あるいは何千年ぶりか、もう竜にはわからないし、興味もない。
ただ深い絶望の微睡から、極偶に己を世界に喚び戻す祈りを、竜は嫌いではない。
もはや何のために持っているかわからないくなった己の「全能」を十全に使い、ただただ己を喚んだ者の「願い」を叶えることは、遥か時の向こう側でもう顔も思い出せなくなっている「あの人」と共に戦っていた日々の匂いが、少しだけする。
尤も己が叶えた願いは、結局すべて絶望で終わる。
これは全能の力を得ながら、己自身も絶望で終わった呪いなのかもしれない。
まあそんなことも、もはやどうでもいい。
どうあれ願いを叶えればそれでいい。
その時だけは、少しだけ楽になるから。
今回の祈りはずいぶん強い。
願いはなんだろう。
祈りの主の下にその巨大な体を移動させながら、竜は思う。
祈りはみな一様に強く純粋でも、その主が願うものは一人ひとりずいぶん違う。
「復讐」を願った少女がいた。
戦乱の中で、素朴に暮らしていた村を焼かれ、両親と弟を殺され、偶然生き残った少女。
略奪を指示した国王を、実行した将軍を、その下で栄える国を同じ目に合わせることを祈り、願った少女に応え、竜はその「力」となった。
力を得た少女は「黒竜の魔女」と呼ばれ、善も悪もなくその国を蹂躙した。
一切の慈悲はなく。
罪悪感に「願い」をぶれさせる事もなく。
眉一つ動かすことなくその国の住民悉くを自分の村がされた事と同じ目に合わせ、最後に一人残した自分と同じ年の、「黒竜の魔女」が国を襲うまでは何不自由なく育てられた「王女」に質問した。
右手に父親である王の首を、左手に次期国王になるはずであった兄の首を持ち、足元には王女の夫となるはずであった、王女の幼馴染にして有力な貴族の跡取りであり、剣聖とまでよばれた男の骸を踏み敷いた状態で。
「私が憎いか?」
と。
その返事を聞いた元少女は狂ったように笑い、自ら竜の吐く焔につつまれて復讐を終えた。
『もうよいのか?』
と問うた、竜に答えることもないまま。
一筋だけ涙を流して。
「人々の平和」を願った少年がいた。
勇者として選び出され、魔族と称される力ある種族に挑み、力及ばず破れた。
それでも人々のために友の命を、想い人の命を、自分の命をも犠牲にしてまで「人々の平和」を願った少年。
人々を虐げる魔族を、それを統べる魔王を、人々の犠牲の上に栄える魔族の国を滅ぼし、自分の愛する人々に穏やかな暮らしを送って欲しいと祈り、願う少年に応え、竜はその「力」になった。
力を得た少年は「黒竜の勇者」と呼ばれ、正義を掲げて魔族の国を蹂躙した。
正義のためだった剣を、想い人と友の復讐のために振るい。
自分が守ろうとした人々と、魔族というだけで何も変わらない者達をその手にかけて。
もはや己が、正義だの人々のためだのはどうでもよく、一緒に戦った友と、本当はそれさえ守れれば後はどうでもよかった「彼女」を奪った相手に復讐しているだけだという真実から目をそらし、その最後の相手である「魔王」と対峙しながら少年は質問した。
再び出来た友と呼べる仲間と、応えてはあげられなかったが想いを寄せてくれた少女の骸と、魔王を守るために死ぬまで戦った、本当は自分達と何も変わらない魔族の骸に周りを囲まれながら。
「僕はどこで間違ったんだ?」
と。
その返事を聞いた少年は魔王と刺し違え、守ろうとした人々に再び会うことなく「人々の平和」を得た。
『それでよいのか?』
と、問うた竜に答えることもないまま。
苦笑いを一つ残して。
「ごめんね」
「悪かったな」
他にもたくさん、たくさんいた祈り、願った者たちはみな、最後には「力」をくれた竜に詫び、自ら命を絶った。
だれも本当に竜が欲しい言葉をくれず、願いは叶ったはずなのに絶望して死に至る。
死に至る病を絶望という。
祈り願った人々を、その全能により絶望と死に誘うのであれば、己は悪魔なのかもしれない。
年経た黒き巨竜にはそれも似合いか。
今回の世界はずいぶん変わっている。
祈りに喚ばれる時期によって文明のレベルが全く違うのは当然のことで、原始古代社会レベルから、星を越え宇宙へ進出しているレベルの時もある。
それ故に文明が進んでいようがいまいが新鮮な驚きはないが、今回はどうもちぐはぐな印象を受ける。
「全能」をもって、世界を掌握する。
よくある進化途中の文明で、人はそこまで世界に満ちてはいない。
大陸にいくつかある大きな城塞都市を中心に、中規模の町、小さい村落が複数ある。
繰り返される戦は未だ剣と矢、人馬が主役であり、人の争いが世界を壊してしまう域にはまだまだ達していない。
この世界にも魔法は存在し、故に魔物も魔族も存在しているようだ。
今までいく度も目にしたよくある世界と言っていい。
だがところどころに、人が自らの世界を壊してしまう域にたどり着いていなければ存在していないはずのものが確認できる。
竜は理解する。
これは「前回の世界」が中途半端に残っている世界だ。
まれにきちんと終わりきれなかった世界が、次の世界にその最終段階でたどり着いた、ろくでもない遺産を残すことがある。
中にはその恩恵で、一時的とはいえ地上に顕現した楽園のような時代を築き上げる世界もあるが、多くはその遺産に振り回されて悲惨な世界になることが多い。
今回もどうやらそのパターンか。
世界の各地に残るまだ新しい破壊の傷跡は、本来のこの世界の技術レベルで可能なものではない。
今竜が向かっている場所も、そういった前回の世界が残した「逸失技術」を研究する施設の様だ。
建物自体も「逸失技術」の一つのようで、今の世界にあふれる多くの建物とは全く違う趣をしている。
白く、窓もなく、地上部分に半円を見せている。
おそらく地下に同じ半円が埋まっているのだろう。
竜の接近を感知し、それを退けようとする動きが生まれる。
建物自体から、魔法ではない光が複数竜に向けて発射されたのだ。
躱そうとすると追ってくるので、うっとおしいからそのまま受けることにする。
当然黒い鱗に傷一つつけることができずに霧散する。
数千の光を打ち込んでも悠然と近づいてくる竜に、無駄と知ったのか攻撃はやむ。
あきらめたのかと思ったタイミングで竜が飛ぶ空よりも遥か高空から、先のものよりももっと強烈で竜の巨体すべてを包みこむほどの大きい光が、降ってきた。
星の外に浮かべた城塞からか。
過去にも似たようなものを作った世界はあった。
小賢しい。
竜が咆哮を上げると、衛星軌道上の衛星が瞬間で崩壊する。
この世界の住人にとって、神の御業としか思えない天空の城塞を咆哮で無力化する黒い巨竜。
彼らにとってみれば、突然現れた厄災そのものであろう。
知ったことではない。
自分をこの世界に喚んだ祈りはこの建物から発されている。
いかなる防御機構があったのは知らぬが、その悉くを無力化して祈りの主の元へその巨体を降り立たせる。
『強い祈りを持つ者よ。汝の願いを言うがいい』
建物の上部を吹き飛ばし、完全に露呈した地下基部の広く白い空間。
そこには己を喚んだ存在――小さな白い少女が、無数のコードを繋がれ、この世界の人間が完全に理解してはいないであろう機械を繋がれた状態でベッドに寝かされていた。
実験体か。
首から上の部分を完全に覆う装置のせいで、顔は見えず、声を発することもできない。
その装置から溢れ流れる、己と同じ黒い髪が、竜の何かを刺激する。
もとより竜の言葉は念話だ、声を出さずとも会話を成立させることはできる。
『だあれ?』
目も見えてはおらぬのか。
竜は己の力で、己の意識の世界に少女の心を呼ぶ。
『これでよいか』
己の意識世界に具現化した少女は、未だ十歳には届いていないであろう幼い姿。
実際は妙な装置の中で痩せ衰えているのであろうが、ここでは年相応の姿になっている。
竜の無意識がそうさせるのか。
長く伸びた黒髪と、それと揃いの黒い瞳は、かつて竜が最も大切だと思った「あの人」と同じもの。
『ふわあ、おおきいねえ。お名前なあに』
『名はない。汝の願いをかなえに来た。願いを言うがいい』
精神世界に呼ばれた割には動揺がない。
こういう状況に驚かないだけの経験があるということだ。
『そうなの? じゃあ神様かな。神様にはお願いできないかなあ』
『少なくともこの世界の神ではない。我が全能は汝のいかなる願いも叶えよう。そのもはや死を待つしかない身体を健康なものに戻し、何やら無理やり呼び出そうとしていた能力を宿し、汝をそのように扱った者ども全てにその報いをくれてやることも可能だ。何を願う』
これだけの強い祈りだ、どんな願いを持っているのか。
自身の解放と復讐、今回の祈りはよくあるタイプのものか。
『そんなことまでわかるんだ、すごいねえ大きい竜さん。――じゃあお願い、あたしの友達になってくれる?』
『了承した。汝が生に厭いて死すまで、我は汝の友でいよう。それで最初に我は何をすればよい。まずはその身体を治すか』
こういう人間は結構多い。
強大な存在である竜と、友誼を結ぶことによってその力を行使する形を取ろうとする。
そんなことをしなくとも、竜は惹かれた祈りの持ち主が死ぬまでは、無制限にその願いに応えるというのに。
『んーん、そういうのはもういいの。あたしの願いは一つだけ。お友達になってくれたんだから、もうすぐ死んじゃうあたしのことを覚えていてね。そんでそんで、できたらあたしがいなくなったら悲しんでくれるとうれしいかな』
少し驚いた。
「全能の竜」として、祈りに呼ばれ、願いを叶え続けてきた中で初めてのことかもしれない。
『あたしねえ、最後の一人なんだよ、こう見えても。ああ、竜さんから見たらそのまんまかなあ。お友達はみんな先に死んじゃった。あたしが正真正銘最後の一人。そういうのあたし、わかるんだあ』
『最後の一人だからと死ぬこともあるまい。我が全能であれば、死んでしまった友達をよみがえらせることも可能だが』
『んー、そういうのはいいかな。そもそもあたしたちは「そういう」実験のためにうまれたものだからねえ。この世界の人たちはよくわかってなかったみたいだけど。せっかく「終われた」友達を呼び戻したら、あたしが怒られちゃうかなあ』
今の世界ではなく、ひとつ前の世界の生き残りなのか。
「永遠の命」の実験でもしていたか。
永遠の命に必要なのは器ではなくて心だ。
器が完成しても、心が永遠に耐えることができなくて、結局成立しない。
現にいま目の前にいる少女も、生き続けることに対する執着など、とっくに失ってしまっている。
『それでもあたしねえ、友達が死んじゃうのはすごく悲しかったんだよ。ずっと一緒にいたのに、みんないなくなっていっちゃう。ちょっとうらやましかったのもあるけどね。そんであたし、全員の事、ちゃんと覚えてるんだ。そんでそんで、自分の番が来た時に思ったの』
あれだけの強い祈りを生んだのはそれか。
ただ友達が欲しいというだけで、全能の竜たる己を喚ぶほどに。
『やっとあたしの番だなあ、って嬉しかったんだけど、あたしが死んだらもう、だれもあたしのことを覚えててくれないなあ、って。あたしがおぼえてるみんなの事はくわしく知らなくてもいいから、それを大切に覚えてたあたしのことだれかにおぼててほしいなあって思ったの。あとこれはできればでいいんだけど、いなくなったあたしの事、悲しんでくれたらなあって』
そういって微笑んだ。
竜にはそれが何か特別なものに思えた。
『それがあたしのお願い』
恨みも何もない。
ただ自分の居たことを誰かに覚えていて欲しくて、できれば悲しんでほしい。
それだけ。
少女はずっと悲しんできたんだろう。
友達が一人一人減っていくことを。
覚えていたんだろう。
その友達がちゃんとこの世界に居たことを。
そして自分の番になった時、「友達」として自分の死を悲しみ、自分がいたことを覚えていてくれる存在がいないことに思い至って、寂しくなった。
だから祈ったのだ。
そういう風に自分を覚え、できれば悲しんでくれる「友達」ができるよう願ったのだ。
竜は初めて、「願い」を聞かないことを決めた。
そして少女が願っていないことを勝手にすることに決めた。
自分が消えてしまうというのに、それはもうあっさりと。
だって「願い」をもう叶えてしまった。
全能の竜たる己が、この少女の友達になることを明言してしまった。
友達なら、目の前で友達が死んでしまうことに耐えられないだろう。
それを止める手段を持っているならば、ためらいなく使うだろう。
あとで怒られるかもしれないが、それこそが友達だろう。
たぶんこの少女は、今幸せに死んで行こうとしているのだ。
最後の祈りが届き、願いは叶い、最後に逢った竜に覚えてもらい、悲しまれながら消えてゆく。
だけど竜はそれを裏切る。
だって生きていて欲しいと、「あの人」以外では初めて思ってしまったから。
目を閉じて死の瞬間を待つ少女に、己の全能を行使する。
叶う限りの力を注ぐ。
自分はいなくなってしまうけど、己の眷属も彼女を守るだろう。
なぜか愉快だった。
少女はきっと怒るだろう。
願いをかなえる全能の竜など大ウソだ、詐欺だと騒ぐかもしれない。
想像するともっと愉快になった。
謝られるよりずっといいと、そう思った。
目が覚めた少女が自分の願いを反故にされ、望みもしなかった命を与えられたことを知ってどうするのか、見たいなと思った。
願わくば。
願いをかなえつづけた己の最後が、ちゃんと少女の願いをかなえていればいいなと最後に思った。
己が、少女の「友達」で在れればと。
そして竜の、長い長い間続いた意識は途切れる。
「バカ竜」
結界の中で目覚めた少女は、最初にそうつぶやいた。
少女の目の前には、肩に止まれるほどの大きさになり、知性も何も失ってしまった小さな黒竜がうずくまっている。
少女の覚醒に気が付くと、首を上げて一声鳴く。
「あぎゃ」
「このバカ竜」
もう一度そういって立ち上がった彼女の肩に、小さな黒竜は止まる。
「でもありがと」
「あぎゃ」
これは全能の竜が、終わりを迎えたお話。