【3】
住宅地を抜けるころには夜になっていた。しかし田んぼはまだ見えなかった。住宅地の奥は工業団地になっていた。街灯が煌々と一列にならんで光っていた。工場の窓からも明かりがこぼれていたが、光量に比べてだいぶ暗い印象をあたえる。
大型トラックも余裕を持って移動できるよう、広めに車道はつくられていた。こころなしか歩道も広い。その歩道に作業着姿の女性がしゃがみこんでいた。外灯の下に、女性の背中が地蔵みたくうかんでいた。その外灯は点いたり消えたりを繰り返していたため、女性の存在感を幽遠なものにしていた。
「お化けではないと思う。きっと困っているんだ。声をかけてみよう」と案山子はいう。
男の子が近づいていくと、女性は不意にふり返った。それからちいさな悲鳴をあげた。男の子は歩みをとめる。
「びっくりした、それ、案山子ね」
女性は突如宵闇にあらわれた案山子に虚を突かれたのだった。しかし正体がわかり、それを持つのがこどもであるとわかると安堵した。いったいどうしたんですかと男の子は聞く。
「なんでもないわ、すこし飲みすぎただけ」
近づいてみると女性からはアルコールの臭いが強くした。飲みすぎで気分がわるくなり、歩道にしゃがみこんでいたようだった。立ちあがろうとするとふらついた。転びそうになったところを、なんと外灯にしがみついてことなきを得る。
すぐ近くに公園があった。公園にならベンチがあるから、そこですこし酔いを覚ますべきだと男の子は忠告した。「手を引きますから、公園へいきましょう」
「平気よ」と笑う女性はやはりふらふらしている。こどもが見たって大丈夫でないことは判然としているのだから、医者が見たらたちまち応急処置をはじめたことだろう。
女性の手を引きながら、公園までの距離を歩く。その途中で、急に女性はしゃがみこんだ。案山子が男の子にだけ聞こえる声で、頭の袋を渡してあげてという。すぐにそのとおりにした。女性はうつむいたまま腐葉土のはいっていたビニール袋を受けとると、歩道脇に立つ工場のフェンスへ近づいていく。それから袋の中に吐瀉した。女性の吐く音と苦しそうな声がしばらくのあいだ工業団地にひびいた。だれも不審に思わないのか、窓から覗いたり様子を見に来たりする人はいなかった。男の子はすこしはなれたところで女性の様子を見守っていた。
女性が落ち着いてくる。案山子が今度は、布をはずして渡してあげてという。
「そんなことをしたら、きみはただの十字の棒になってしまうよ」
「いいのさ。きっと、この布があの人には必要だから」
案山子のいうとおり布をはずす。女性に近づいていくと、だいぶ呼吸が整ってきていた。しかし、顔は袋に突っこんだままだった。
「これ、使いますか?」男の子が布を差し出すと、女性は袋から顔を出す。腐葉土が髪や頬に付着しているほか、口もとも吐瀉物で汚れていた。ありがとうといって布を受けとり、腐葉土や吐瀉物を拭いさる。それから布は袋の中へ放りこんだ。
「もうすこしで公園です。歩けますか?」
ふたたび男の子は女性の手を引いて歩き出す。吐いて楽になったのか、女性の足どりはすこしばかり安定していた。
公園につき、外灯の照っている明るいベンチに腰かけさせた。ありがとうと女性がいう。光の中で改めて見た女性はとてもきれいだった。黒髪は絹のようだし鼻梁は凛として高かった。どうしてこんな女性が酒を浴びるように飲んでいたのか男の子は気になったが、知らないほうがいいだろうとも思い、なにも聞かなかった。
「きみはやさしい子ね。なにかお礼をあげるわ。なにがいいかしら」
そういって女性は作業着のポケットを探りはじめた。やがてとり出したのは鍵だった。土産物屋の什器にいくつも吊るされているような、剣のかたちをしたキーホルダーがついていた。女性はしばらくのあいだその鍵を見ていた。男の子を見あげて、「ごめんね、こんなものしかない」といってキーホルダーをとりはずした。
「いいんですか?」
「いいの、いいの。それとも、こっちの鍵のほうがいい」
遠慮して男の子は剣のかたちをしたキーホルダーを受けとった。
ベンチに座る女性に見送られて、男の子と棒だけになった案山子は公園をあとにした。