柘榴色の夢
部屋に足を踏み入れた瞬間、鼻腔に侵入したのは吐き気がするほどの悪臭だった。獣特有の臭い、食物が腐敗した臭い、生物が死に絶えて放置された事で漂い続ける死臭。
それらが混じり合い、胃袋を鷲掴みにして揺さぶるような臭い。あらゆる攻撃に耐えうるように作られた防護服を身に纏っていても刺激される嗅覚に、高澤は胃液が喉の辺りまでせり上がってくるのを感じた。唾液を何度も嚥下する。強烈な嘔吐感を完全に拭い去る事は出来なかったが、何もしないよりはいい。
万が一、吐いてしまったら着替えなければならないが、ここで防護服を脱ぐ事は不可能だ。防護服の役割はこの一室に棲む『彼ら』の牙から守るためだけでない。この不衛生な環境の中で生息しているかもしれない未知の病原体による病を防ぐ事も含まれている。
「君はいつも、この空気によく堪えられるね。慣れた?」
「慣れると思うか。慣れたと思った日は一日も無い」
「そうだね。僕も初めてここに来た時と同じ事、今でも思っているよ。ここは地獄より酷い」
同じ防護服を着込んだ藤野の素っ気ない言葉に高澤は室内を見回した。学校の体育館と同じぐらいの広さの壁、床、天井を白で統一している飼育小屋。窓は一つもない。出入口は二人が入ってきた小さな扉のみで、部屋全体がどんな衝撃を受けても傷一つ付けない素材で作られていた。
目的はこの中に居る実験体を絶対に逃がさないためだった。この研究は国の人間でもほんの一握りの者しか知らない。その実験の過程で産み出してしまったものの存在を知られるわけにはいかなかった。
「地獄より酷い場所があるのか」
「地獄には罪を裁く者がいるじゃないか。この白くて小さな部屋にはそんな人なんていない。何のために生かされているのか分からないし、今自分が何なのかも分からない怪物だらけだ」
「お前はやっぱりこの研究から手を引くべきだ。まだ、こいつらを怪物を呼ぶのか」
「怪物以外に何て呼び名があるの」
「あいつらを見ても、あんたは怪物と?」
藤野の視線の先には、牛が一心不乱に壊れる事のない壁に体当たりを続けていた。本来の獣の頭部の代わりに、牛の首から生えている人間の頭部はそのせいで血塗れだ。
苦痛に歪む顔は腫れ上がり紫色に変色している。それでも何度もぶつかる。何度もぶつかる。壁は赤茶色で汚れていた。獣のような、人間の絶叫が響く。
部屋の隅では体毛に覆われていない人間の腕が生えたが猿が何度も自分の眼球に包丁を突き刺していた。血の涙を絶えず流し続けている。
その自傷行為を刺し潰して殺す事で止めたのは、人間程の大きさに成長した蜘蛛だった。頭部や腹部の表面にある無数の人間の目玉がぎょろぎょろと動く。
「あいつらは少しずつ人間の一部を手に入れている。もう怪物じゃないさ」
実験の結果をぼんやりと眺める藤野に高澤は溜め息をつく。
「どこが? あんなおぞましい生き物を君は人間と言えるのか? 遺伝子を弄って強制的に姿を変えられた彼らを人間だって」
「人間だ。研究は成功に近付きつつある。他の生物を人間にする事が可能だという仮説は正しかった」
「正しかった? それは君の願望、いいや妄想だよ。どんな生物でもどんな方法でも別な種に完全に作り替えるのは不可能なんだ」
「可能だ」
藤野は即答した。そこに躊躇いは一切見られない。この研究の中に宿る危うさに気付こうとすらしていない。
「藤野、僕はどうして君がこんなえげつない実験に参加しているか分かるよ。三年前に事故で内臓がほとんど駄目になって今も植物状態になって生きてる恋人を助けたいんだろ?」
「……その話を何処から聞いた」
「噂だよ。君がいつもその人の病室に見舞いに来てるって噂。それから、君がいつかその人に限りなく人間に近付けた動物の内臓を移植するっていうのも聞いた」
「見ず知らずの人間の内臓があいつの身体に埋め込まれるなんて俺が認めない。そうするくらいなら実験で優秀な結果を残した、よく見知った被験体の内臓を使うべきじゃないのか」
「それは君のエゴだ。あの人を怪物にしたいのかい?」
「内臓を元は人間ではなかったものの物を移植したら人間じゃなくなるだと? そんな理論聞いた事がない」
「理論じゃない。道徳的な意見だよ」
「話にならないな。この話題は終わりだ」
藤野は面倒臭そうに溜め息をついて虚ろな眼差しをあの人間の頭部を植え付けられた牛へと向けた。力尽きて既に動かなくなったそれを「失敗か」と呟きながら見詰める。
彼にはあの人間の頭部がどのように見えているのか。聞く気も起こらず、高澤は先に部屋を抜け出した。清潔な空気、赤く汚れていない壁。
「高澤」
藤野が追い掛けて来て、その手を掴む。彼らしくもなく、柔らかい口調で目を見開く高澤に語り掛ける。
「あんたも母親がいるんだろ。内臓が駄目になってしばらく眠り続けてる母親が」
「嫌だな……どこで聞いたの」
「噂だ。あんただって、それがこの研究に携わる動機だろ」
「……君には散々言っておいて、結局同じ考えを持っている自分が気持ち悪くて仕方ない。僕も君くらい盲目になれたら楽になれるのに」
自嘲気味に微笑んで藤野の手を振りほどく。己の闇を受け入れられず、親友を否定しようとする自身に嫌気が差す。間違っていると分かっているならすぐに研究から退けばいいのだ。
高澤は色んなものから逃げるように、足早に立ち去った。
その後ろ姿に視線をやりながら藤野はゆっくりと唇を動かした。
「……俺だっておかしいとは分かってる。だが、これはあんたの、お前のためでもあるんだ。俺が目覚めた彼女と再会したら笑えるように、きっとお前も母親に会えたら以前のように明るく笑える。俺は笑うお前がまた見たい。
随分と歪な友情だと思わないか。なあ、高澤」