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作者: 桜木 由有

「お帰りなさいませ、比織様、孝行様」

 手の空いた、且つ玄関の近くにいた使用人が数人、外出先から帰ってきた三人を出迎える。

 三人とはこの九条家当主の息子利行様の妻、比織様とその息子である孝行様、そしてお二人の後ろにつき従っている執事、眞中慎二だ。

「ただいまー!」

「ただいま帰りました」

 孝行様は元気よく、比織様はおしとやかに返事をしてくださる。他の高貴な方々は使用人の挨拶を無視するのが当たり前なのに、九条家のご主人様たちは私たちにも気軽に話しかけてくださる。

 住み込みで働くことができ、待遇も悪くない。主も優しい。九条家で働けることはとても恵まれたことだと私は思っている。

「予定よりも早いお帰りでしたね」

「本当は外でお茶でもして帰ろうと思ってたんだけど」

「みのりが今日はマドレーヌ焼いてくれるっていってたでしょ? だからかえってきちゃった!」

 私、高原みのりの問いかけににっこりと答えてくださるお二方。

 確かに今日マドレーヌを焼くことは数日前約束していたが。

「私の作るマドレーヌなどより美味しいものはたくさんあるでしょうに」

「ぼくはみのりの作るマドレーヌが世界一すきだよ! ね、まなかもだよね!」

「ええ、そうですね」

 孝行と比織から一歩下がった位置に控えている眞中がいつもの笑顔で頷いている。本心かどうかは分からないが、褒められたことは素直に嬉しい。

「では、とびきり美味しいのを焼いて持っていきますね」

「お願いね、穂さん。さ、孝行、おやつの前に着替えましょう」

「はーい!」

 比織様は孝行様の小さな手をつなぎ直し、自室へと向かっていった。






 比織ひおり様はとても美しい方だ。

 彼女が九条家に嫁いできたのは八年前。彼女が十八歳の時だった。

 九条家は大企業を営んでいる。比織様の実家である相馬も政治界に通じる権威ある家柄。所謂政略結婚だった。

 しかし、比織様とその夫になられた利行(としゆき)様は政略結婚とは思えないほど仲睦まじい夫婦だった。

 利行様はお忙しい中少しでも時間が作れれば比織様とお過ごしになり、比織様も疲れている利行様のために過ごしやすい空間を作ろうと気を使っていた。ふとした瞬間に見つめあい、微笑む二人を見ている私たち使用人も幸せな気持ちになったものだ。五年前お二人の間に男の子が生まれた時は、九条の屋敷は幸せに満ち溢れていた。


 一年前、利行様が事故で亡くなられるまでは。


 対向トラックの居眠り運転が原因だった。運転手は即死。利行様は頭を強く打ち意識不明の重体、そのまま目を覚まさず事故の十日後息を引き取った。

 その時の比織様は目も当てられないほど打ちひしがれていた。それでも、利行様が横たわっているベッドに顔を埋めて泣いている比織様の頭を撫でる息子の孝行様に慰められ、落ち着きを取り戻していった。


 一年経った今も、比織様は利行様を愛していらっしゃる。

 それは使用人である私たちにも一目瞭然だった。



 そんな比織様を、八年間ずっと傍らで思い続けている男がいる。

 眞中慎二(まなかしんじ)。利行様が亡くなられるまでは利行様の専属執事だった。

 彼は比織様がこのお屋敷に嫁いで来られた時、彼女に一目惚れしたらしい。

 無理もない。まっすぐに伸びた黒髪、滅多に日に当たらないだろう肌は透き通るような白さ、そして穏やかな微笑みを浮かべる比織様。その美しさは外見だけではない。誰に対しても、勿論私たち使用人に対しても対等に接し、気安く話しかけてくださる。その優しさと、見た目とは違う芯の強い心を持ち相手をまっすぐ見る目に、同性である私でも強く惹かれた。



 眞中さんは彼女を想いながら、決してそれを表に出すことはなかった。寄り添っている二人の姿を、少し離れたところから静かに見つめているだけだった。

 私は一度聞いてみたことがある。

 辛くはないのか、と。

 自分の好きな人が、自分とは別の人の隣で笑っているのに、どうして黙って耐えることができるのかと。

 彼は私が彼の想いに気付いていることに驚き目を丸くしていたが、一瞬辛そうな表情を見せた後穏やかに微笑んだ。

 それは比織様が自分の主人の妻であるからだけではなく、比織様が利行様の隣で幸せそうに笑っているからだと、彼は言っていた。


『彼女が幸せなら、僕は彼女の一番じゃなくてもいいんだ。ただ、傍にいれたら、それでいい』


 そんな風に思える彼が羨ましく、同時に恨めしかった。



 ねえ、何故私が貴方の想いに気付いたと思う?

 それは、貴方が彼女を見ているのと同じくらい、私が貴方を見ていたから。

 貴方が比織様を初めて見た瞬間も、比織様に声をかけられて嬉しそうな顔をした時も、比織様と利行様が寄り添う姿を見て一瞬辛そうな表情をした時も。

 どの貴方の姿も、私には胸が痛くなるものでしかなかったけど、見ずにはいられなかった。自然に視線が貴方に向かっていたから。



 でも、それも今日で最後。


 今日、私はこの屋敷を出て、実家でお見合いをすることになっている。

 九年間積み重ねてきた彼への想いを断ち切るために。




 いざ屋敷を出る今になってこれまでの思い出が次々とよみがえってくる。

 高校を卒業してからメイドとして仕えるために屋敷に来たばかりの私に屋敷の案内をしてくれたのは、大学に通いながら同じように大学に行く利行様の執事見習いとしてこの屋敷に仕えていた彼だった。常に微笑みを絶やさない彼の心が読めなくて、最初私は彼が苦手だった。何でも完璧にこなす彼に近寄りがたいという気持ちすらしていた。しかし私は彼や利行様の部屋の掃除を担当することが多かったから彼にも度々会って話をしていた。

 話をしていくうちに柔軟そうに見える彼が実は頑固だということや、立ち回りがうまそうに見えて実は不器用だということを知った。全てにおいて完璧にこなしそうな彼の欠点を知っていく度になぜか惹かれていく自分に気付いた。

 本気で好きになったのはいつのことだろうか。覚えていないが屋敷に仕え始めてから一年経った頃には確実に彼に堕ちていた。


 彼のことを好きになってからは彼にばかり視線が行ってしまい、慌てて視線を逸らすことが増えた。彼の部屋を掃除するときにはそれまでより丹念に掃除するようになったし、疲れて帰ってくる彼の癒しになるように部屋の片隅に花を毎日活けてみた。その他にも小さな心配りをすることで彼に少しでも尽くそうとした。

 それが無駄な努力になったのは私が二十歳になった時。

 比織様が九条に嫁いできて、彼が彼女に恋をした時だった。


『僕は彼女の一番じゃなくてもいいんだ。ただ、傍にいれたら、それでいい』


 そう彼が言ったとき、もう、私の想いが彼の想いと重なることはないのだと思った。

 それでも今日まで彼への想いを胸に秘めながら彼の部屋を掃除し、花を活けてきた。

 告白しても断られるのが分かっているから、何も言わなかった。それでも、少しでも私の想いが彼に伝われば……そう思って。




 でも、もう限界だった。



 ――私は、貴方みたいにできた人間じゃない。好きな人が自分とは別の人の隣で幸せになることを願えるような、できた人間じゃないの。

 せめて比織様が非道な方だったらよかったのに。権力を笠に着て使用人を虐げるような人だったら嫌うことができたのに。実際の比織様はその正反対だ。


 貴方が、その彼女の傍で優しく笑っている姿を見続けることなんてできない。


 だから――



 さようなら。











「比織様、孝行様、お茶のお時間です」

 眞中は庭で遊んでいた二人に声をかけ、紅茶とおやつがのったテーブルにいざなった。

 利行が亡くなってから、眞中は孝行の教育係として常に比織と孝行の傍に仕えるようになった。教育係といっても、まだお世話係と言った方が適切かもしれないが。

「ありがとう、眞中さん。孝行、手を洗いましょうね」

「はーい」

 利行と比織の息子、孝行は五歳になり、利行の小さいころによく似てきていた。活発だが大人の言うことをきちんと聞く、手のかからない子だ。今も母親の言う通り手をしっかり洗ってからテーブルにつき、丁寧に「いただきます」をしている。

「あら、今日はマドレーヌなのね」

 そう言いながら比織は料理長の作ったマドレーヌを食べた。

「ん、美味しい。でも、やっぱり穂さんが作ったものとはちょっと違うわね」

「……比織様も彼女の作ったマドレーヌがお好きでしたね」

「ぼくもみのりのマドレーヌ大好きだよ! でもみのりはこの家を出てっちゃったからもう食べられないんだよね」

 孝行が最初は元気に、続いてしょんぼりとして言う。

「まなかがみのりとけっこんすればずっとこの家にいれたのに」



 穂がこの屋敷を出ていってから一週間が経った。

 彼女が屋敷の使用人を辞めた理由はこの屋敷にいるほとんどの者が知っている。そして皆が皆、疑問の色を浮かべて眞中を見るのだ。

 それは眞中が仕える孝行の母親、比織も同じだった。

「本当に止めなくてよかったの?」

 主語がなくても誰のことを言っているのか分かる。

「何故私が止める必要があるのですか?」

「だって、穂さん結婚するためにここを辞めてしまったんでしょ? 穂さんが他の人と結婚してもいいの?」

 どうしてそんな問いをされるのかが分からない。しかも会う人会う人皆に同じようなことを聞かれるのだ。穂が出て行った日には九条家当主である旦那様にも言われた。

 比織には一日に一回は聞かれている。つまり、これで七回目だ。


 ――穂が誰と結婚しようと自分には関係ないのに。


 どうやら屋敷の皆は眞中が穂を好きだと思っているようだ。眞中が好きなのは今目の前にいる比織なのに。

 勿論この想いが実ることはないというのは重々承知している。幼馴染であり主人であった利行の妻、彼を愛し、愛された人なのだ。比織の利行への想いはいつまでも色褪せない。

 きっと、彼女は永遠に利行を想い続けるのだろう。そして自分は彼女の傍で、彼女と利行の間に生まれた孝行の成長を見守り、彼女を密かに想い続けるのだろう。

 比織に自分の想いを伝えるつもりはない。勿論、他の誰にも言うつもりもない。ずっと自分の心の中に隠し続けていく。

 ただ一人、何故か穂には知られてしまったのだが。



 そう、穂だけは眞中の想いに気付いたようだった。

 穂は眞中が大学に通いながら執事見習いとして働いているときにこの屋敷にやってきた。

 眞中が屋敷を案内しているときの彼女は緊張しているようだったが、調度品や庭、その他細かいところにまで興味津々なようで目を輝かせながらきょろきょろしていた。その様子がおかしくて、ついつい彼女を観察してしまった覚えがある。

 穂の仕事は屋敷の掃除や給仕、お茶出しなど様々だったが、どれも完璧にこなしていた。細かいところにも気づく働き者で、どんどん周りに頼られるようになっていった。孝行が生まれてからは眞中の補佐的な役割をすることも増えたのだが、穂は眞中の意向をよく読み取り、それに助けられたことが何度もある。

 また、彼女が作るお菓子も使用人だけでなく主人である比織や孝行にも好評で、料理長も嫉妬するくらいだ。

 そんな彼女が屋敷からいなくなってしまったのだ。貴重な戦力だった彼女には戻ってきてほしい気持ちもないわけではないが、九条家から離れると決めたのは穂自身だ。眞中がどうこう言っていいことではない。本心はここに留まってほしいと思っていても決してとめなかった。

 ましてや彼女が結婚するのを阻止する理由などありはしないのでする必要もない。


 そう、彼女を止める理由なんてないのだ。



「後悔しない?」



 比織の真剣な問いに何故か胸がざわついた。

 まっすぐな目が眞中を見つめていた。

 八年前から、ずっとこの目に見つめられたいと思っていた。利行ではなく、自分を見てほしかった。それが無理な願いだと悟ってからは、ただ幸せになってほしいと願うようになった。幸せになってくれればそれでいい、自分はそれを傍で見られるだけで充分だと。利行と孝行と一緒に、一生幸せに暮らしてくれれば。自分はささやかながらそのお手伝いをしたいと。

 昔は比織の視線が自分ではない者に向かっていることに胸を痛めていたのに、今はそんな気持ちは一切ない。


『貴方は辛くはないのですか?』

 そう眞中に問いかけてきた穂の顔が浮かんでくる。

『自分の好きな人が、自分とは別の人の隣で笑っているのに、どうして黙って耐えることができるのですか?』

 自分が辛そうな表情をしながらも眞中をまっすぐ見つめてきたその目。



 ――そういえば彼女はいつもまっすぐな目で自分を見ていた。


 その目が、これからはお見合い相手、そして結婚相手に向かう。



 ……胸がざわつく。



「眞中さん、今日はもう下がっていいわ。後のことは他の人に任せるから」

 突然そう言われて目を見開く。

 自分は執事だ。今は孝行の教育係だが、彼らが活動している間は自分の仕事時間だ。執事として主人の傍に付き添う義務がある。

「これは命令ですよ、眞中さん。今日は部屋に戻って、いろんなことをゆっくり考えてみて」

 命令と言われると逆らうわけにはいかない。

「……かしこまりました。何かありましたらいつでもお呼びください」


 一礼して孝行と比織の部屋から出、自分に与えらえた部屋に戻ってきた。

 部屋のドアを開けるとそこにはメイドが二人いて、眞中の部屋を掃除してくれている真っ最中だった。

「あれ、眞中さん。どうしたんですか?」

 夜以外はほとんど主人の世話を焼いている眞中が、普段こんな時間(午後三時過ぎ)に部屋に戻ることはない。

「比織様に今日はもう休んでいいと言われまして。久々にゆっくりしようと」

 いつも顔に貼り付けている笑顔を装備し、穏やかにそう言う。

「あ、そうなんですか。じゃあすぐ出ていきますね」

「いえ、お気になさらず。いつもありがとうございます」


 主人のことばかりで自分のことに気を回している余裕があまりない眞中の部屋はすぐ雑紙や資料でごちゃごちゃになってしまう。だがいつもメイドが掃除のついでにそれらを整理しておいてくれるのだ。

「あと少しなんで。でも、眞中さんもうちょっとご自分で資料とか整理したらどうですか? 私たちがやると必要な書類まで処分しちゃうかもですよ」

 まだ二十歳そこらの若いメイドが頬を膨らませて言う。

「そうですね。穂さんはよく一人で片づけられたものです」

 二十歳よりはもう少し年齢が行ったもう一人のメイドの言葉に眞中の左手がピクッとなる。

「……今までここを穂一人がやってくれてたんですか?」

「あれ、知らなかったんですか? 穂さんが辞めることになって、私たちが引き継ぎをしたんですが、意外にやること沢山あって驚きましたよ。部屋の隅に飾る花も日によって変えてねって言われたんですが、さすがにそこまではできなくて。まあ、花のことは眞中さんの部屋以外の場所でも言われてるんですけど……」


 その後のメイドの言葉は眞中の耳に入ってこなかった。

 部屋の片隅にひっそりとさく一輪の花はいつの間にか毎日飾られるようになっていた。

 日によって種類も色も違ったが、微かに漂う香りとその存在に毎日癒されていた。

 まさか穂が用意したものだったとは。庭師がそれぞれの部屋に配置しているものだと思っていたのに。

 それに部屋の掃除や資料の整理も、せいぜい二人か三人でやっていると思っていた。まさか穂一人がやっていたなんて。

 何年もそのことを知らなかったなんて……。




 掃除をしてくれていたメイドはいつの間にかいなくなっており、眞中は自分のベッドに体を預けた。執事服が皺になるとか、そんなことは今は考えられなかった。


 執事の仕事は思ったより精神と体力を消費する。常に主人のこと第一で、主人に快適に生活してもらえるように気をはっているのだ。

 しかしこの部屋に戻るといつも体の力が抜けた。リラックスできる場所だった。しかし昔からそうだったわけではない。安眠できる、落ち着ける、そんな空間になったのはここ何年かのこと。


そんな空間を作ってくれていたのは穂だった。



 ……素直に嬉しいと感じる。

 彼女が眞中のことを考えてくれたことが。

 眞中が落ち着けるように、という彼女の気遣いが。


 そういえば、彼女はいつも眞中を気遣ってくれていた。眞中が疲れているときにはよく部屋にホットミルクを持ってきてくれたものだ。コーヒーだとカフェインで寝れなくなるからと、少し蜂蜜の入った熱すぎないホットミルクを渡してくれた。

 幼馴染でありずっと一緒にいた利行が事故で死んだとき、心にぽっかり穴が開いたようになってうまく立ち上がれなくなった。そんな眞中に何も言わず、眞中の代わりのように涙を流しながら手を差し伸べてきたのも穂だった。利行の死を乗り越えられたのも穂の支えがあったからだ。

 今思い出してみれば、いつも穂は傍に居てくれた。傍で支えてくれていた。近くにいすぎて気づかなかった。


 穂が好きだということに。

 比織への想いはとうに消化されているということに。


 今まで気付かなかった自分はなんて愚かで間抜けなんだろう。


 眞中はベッドに仰向けに寝転がり、目元を両腕で覆った。

 深い溜息を一つ吐く。


 穂がいなくなってから気付くとか、遅すぎる。



『後悔しない?』



 後悔しない……わけがない。


 がばっと起き上がり、少し皺のついた執事服のまま眞中は部屋を飛び出した。











 穂は実家の近くにある小さな公園のブランコに座っていた。

 お見合いは明日。相手の釣書を見ると非の付け所がなかった。そこそこいい会社に勤め将来も安定、見た目も整っており賭け事も好まない。実際に会って話してみないと分からないが、相手を知っている仲介人の話を聞く限り性格も穏やかそうだ。

 自分には勿体ないほどいい話なのに気分は浮かばない。それはまだ眞中のことを引きずっているからだと自分でも分かっている。

 九年も彼を想っていたのだ。一週間そこらで諦められるはずもなかった。

 

 ずっと彼を見ていた。

 硬そうな黒髪にすっとした一重の目、執事業のために鍛えた体はがっしりしているわけではないがスーツがよく似合う。

 そう、丁度今公園の入り口に立ってこっちを見ている人のように……



「穂!!」



 …………あれ?



「……どうしてここにいるんですか」

 よく似た人かと思ったら眞中さん本人だ。穂の名前を公園の入り口から叫んだ後、無言でこっちに近づいてくる。

 いつも自分の部屋以外では崩さない完璧な執事服は所々皺が寄り着くずれしている。常時装備の笑顔もその顔に浮かんでいなかった。代わりに少し焦ったような、しかし真面目な表情をしている。

「お仕事はどうしたんですか。お休みもらって観光ですか。こんな田舎に観光スポットなんてないですよ」

 どうして彼がこんなところにいるのかさっぱり分からない。

 ここは九条の屋敷から車で一時間くらいの所にある穂の実家近くの何の変哲もない公園だ。

 公園自体に用が無いとすると穂が何か仕事で引き継ぎし忘れたことがあったのだろうか。

 それなら早く話を済ませて早く帰ってほしい。正直もう顔を見たくない。


 …………嘘だ。

 もう一度彼の顔を見たかった。できればずっと見つめていたかった。


 折角彼への想いを諦めようと頑張っていたのに、その意志が折られそうだ。


 そんな穂の耳に入ってきたのは眞中の思いがけない一言。



「命令です。九条家に戻ってきなさい」


 その口調は九条家で他の使用人に命令する執事の口調そのもの。そのことにちょっとイラッとする。

「理由は何ですか」

「比織様と孝行様が寂しがっておられます。穂のマドレーヌが食べたいと。それに、穂の代わりになるいいメイドも見つからず困っているんです」


 眞中は表情も変えず、あくまで仕事で穂に会いに来たのだと言うように淡々と話す。

 眞中が一番に考えているのは仕事と比織様のこと。それを思い知らされる。いや、これまでも充分思い知らされてきたんだけど。

 比織と孝行に必要とされていること、仕事を認めてもらえていることは嬉しい。でも、別の理由で追ってきてほしかったというのは我儘なのだろうか。


「私はもう九条家の使用人ではありませんので眞中さんの命令に従う義務はありません。従ってその命令は無視させていただきます。それに私は明日お見合いをするので九条家に帰るわけには――」


「そのお見合いは無しになりました」


 穂の言葉を遮った眞中の言葉に思わず「は?」と抜けた声が出てしまった。

 お見合いが無くなったってどういうこと? それが真実だとしてもなぜ眞中がそのことを知っている?

「さっき穂のご実家に行って見合いを断るよう頼んできました。ついでに穂がここにいるだろうということも教えてもらって」

「ちょっ、何勝手なことしてくれてんですか! これで婚期逃したらどう責任とってくれるんですか!」


 穂ももう二十八歳。この歳になって彼氏の「か」の字も出ない穂に焦れた両親が設けたこのお見合いは、眞中への想いを断ち切ろうとしていた穂には丁度いい話だった。ずっと九条家の屋敷の中で働いてきて眞中しか見ていなかったが、これを機に他の男性にも目を向けることができるかもしれない、その人を好きになれるかもしれないと思っていたのに。


「そうしたら私と結婚すればいいだけの話です」


 さらっと言われてぶちっと切れた。


「同情でされるなんてまっぴらごめんよ!!」


 なんだこの人、鈍感で無神経にも程がある! いや、そんなことこの九年間で嫌というほど分かってしまっているのだけど。

 だがもう流石に付き合っていられない。


「もう……帰ってください」

 それだけ言ってここから去ろうと早足で公園の入り口に歩き出すと……


 眞中が穂の腕を掴み、そのまま自分の胸に抱きこんだ。


「ちょっ!」

「ごめん、さっきのは建前だ」

 突然温かさに包まれ頭が真っ白になった穂の耳元で、眞中は呟いた。


「穂は、僕にとっては空気のような存在なんだ。傍にいることが当たり前で、穂がいることのありがたさに気付けなかった。穂がいなくなって初めて気づいたんだ」


 穂を抱きしめている眞中の腕に力が入る。


「僕には穂が必要だ。穂がいたから、利行が死んだ時も立ち直れた。穂のおかげで仕事もしやすかったし、自分の部屋でリラックスできた。穂がずっと僕を支えてくれてた。穂がいると癒された。穂にはこれからもずっと傍に居てほしい」


 眞中の言葉を穂は呆然としたまま聞いていた。よく働かない頭で眞中が何を言いたいのかをなんとか理解しようとする。


「それは比織様の身代わりでとかですか?」

 眞中はずっと比織が好きだった。そのことは穂が一番よく知っている。ずっと近くで見ていたのだから。

「違う。比織様が好きだったことは否定しない。初めて会った時から自分を見てほしいと思っていた。でも利行と一緒にいて幸せそうに笑っている比織様を見て、比織様を幸せにできるのは僕じゃないと悟った。いつの間にか、僕を見てくれなくていい、ただ幸せでいてほしいと思うようになった。でも」


 眞中は穂の肩に手を置き、穂の目をまっすぐ見つめる。


「穂には僕を見てほしい。僕以外の男を見てほしくない。いつもそばで――僕の隣で笑っていてほしい。他の誰かに笑いかけるんじゃなくて、僕に笑いかけてくれた笑顔を見たい。僕が穂を幸せにしてあげたい」


 眞中がこんなにも自分の欲を口に出すのは初めてだった。執事は主人の要望を叶える立場にある。その執事としての習性が身についているのか、眞中は仕事上でもプライベートでも望むことがあっても滅多に口にはしない。


 そんな眞中にこんなに言わせるほど、自分は望まれているのだと自惚れていいのだろうか。


 ずっと眞中の為に何ができるのか考え、行動してきた。少しでも眞中の力になれるように、少しでも自分のこの想いが眞中に伝わるように。


 ――その努力が報われたと、考えてもいいのだろうか。


「穂、僕と結婚してほしい」


 穂と眞中以外は誰もいない、田舎の小さな公園。空は青空半分雲半分。聞こえるのは風に揺れる草木のざわめきと、自分の心臓の音のみ。


「私で……いいんですか?」

「穂がいい」


 その即答に、穂は声を殺して泣きながら眞中にぎゅっと抱きついた。




 想いを示す矢印が――向かい合った。










この話はドラマとかでよくある人物相関図から妄想して書いたものです。

タイトルの矢印はそこから来てます。

「あれ矢印向かい合って(→←こうなって)なくね?すれ違ってね?」

と思われる方、そこはスルーでお願いします。向かい合ってます、向かい合っているということにしておいてください。

うまく表現できてない要素が多々あるのですが、これが私の限界でした……


ちなみに、眞中と一緒に帰ってきた穂に孝行が「まなかがみのりにこくはくしないなら、ぼくがみのりをおよめさんにもらおうと思ってたんだけどなー」と言ったとか言わないとか……


最後まで読んでくださってありがとうございました。


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