-9- 元カノ
どこまでも続く水平線。その向こうには一面の海と空しか見当たらない。でも、それは俺がここに立ち止まっているからだ。俺が一歩踏み出せば、必ずその先には陸地が存在する。そこには今の俺には想像もつかない道があり、出会いがあり、夢がある。
「踏み出す一歩かぁ」
ふと立ち上がった俺は何気なく波打ち際まで歩み出す。そんな俺をめがけて勢いよく白波が足下に押し寄せる。
「んだよっ! 沖縄の海のクセに冷たいじゃねーかって!」
スゴスゴと後方に退散する俺。一歩踏み出すっつったって、今の俺には船も無いじゃねーか。
「はぁー」
再び砂浜にばったりと腰を下ろす。分かってる。踏み出さなきゃいけないってことは。でもさ、あまりに神様は残酷だ。どん底でもいいよ。でもせめてさ、恋でもしてりゃ多少は音楽へのモチベーションにもなるっつーの。それすら引き離しちゃうんだもんなー。
「はぁーやだやだ」
俺はその場に大の字になって空を見上げた。雲はのんびりと果てしない海の向こうに流れてゆく。出来れば相乗りでいいから俺も連れてってくれねーかな。
「このまま町に残るか、思い切って東京か。それとも……」
その雲に誘われるように今一度目の前に広がる大海原に目をやった。そうだよ。結局今の俺にとって理恵ちゃんとは何にも始まってないし、何にも終わってねぇじゃねーか。
「……新天地が札幌ってのも、悪くはないよな。……うん、そうだよ」
その時、何だかすんごく気持ちが楽になったんだ。半ば強引に自分自身を諭しているようなもんだったけど。俺はズボンのポケットに突っ込んでいた携帯電話に手を伸ばしていた。
「あ、い、う、え、小川理恵っと……」
その名前を呼び出し、通話ボタンに指を乗せると、呼吸を整えるべく一息ついた。決意が鈍る前に彼女の声が聞きたかったんだ。
「っしゃー!」
意を決し押そうとした時だ。画面から『小川理恵』の文字が消え失せ、同時に懐かしい名前が表れた。さらに追随するかのように、その昔何度も聴いた着メロがそいつから発せられた。
「もしもし……」
思いのほかスムーズにその着信を受け入れた。意外な人物に一瞬戸惑ったが、何よりこの沖縄という土地が、気持ちをおおらかにしてくれていたのかもしれない。そいつは当時と変わらない明るい声で喋りかけてきた。
「やっほー。ケタロー」
「……何だよ」
「久しぶりなのに『何だよ』ってことないっしょ。ケタロー」
「あのさぁ、いい加減その呼び方やめてくれよ」
「あー、何? まだ嫌いなんだ? ……ったく成長してないねぇ」
「うるせぇ」
「でさぁ、ケ・ケ・ケ・ケ・ケータロー」
「……てめぇ」
電話の相手は和泉 薫。俺がバンドを組む前。高二の頃に働いていたバイト先で知り合って、たった一週間で意気投合し、イケイケドンドンで付き合った。が、たった三カ月で別れちまった元カノだ。
「ケタローと電話すんの三年ぶりくらいだよねー」
「チッ、何度掛けてもお前が電話に出なかったんだろ」
「ほら、そうやって自らを省みず、人のせいにするトコもまだまだ成長してないねー」
「うるせぇ。その上から目線も変わんねーな」
「当ったり前っしょ。アンタより五つも先輩なんだからね」
「五つ……。そっか、へぇ。薫ってもう二十五歳になったんだ。へぇ、二十五ねぇ……。うひゃひゃ。二十五かぁ」
「……アンタ。張り倒されたいの?」
「いや、ゴメン。すいません。調子に乗りすぎました」
「それよりさぁ、今ナニしてるの?」
「沖縄で『ヤンダラ』中ですが何か?」
「は? ……ツッコミ所が多くて困るんだけど」
俺は妙に落ち着いていた。心が凄く落ち着いていた。懐かしさというか、久々に会話できた嬉しさというか。鬱だった俺の気分が、この青い空のように急速に晴れやかになっていた。この穏やかに流れてゆく沖縄の時間がそれを後押ししてくれたのかもしれない。
俺は「薫になら良いか」と、この年末年始にあった出来事を全て打ち明けた。薫は節々で嫌味なチャチャを入れてきたが、それもまたあの頃繰り広げてきた俺たちのコミュニケーションだった。
「そうかぁ。色々あったんだねぇ」
「まぁな」
「で、どうすんのよ? その、理恵ちゃんを追っかけて札幌行くの?」
「……。まぁ、今はそうしよっかなと」
「はぁ……。アンタさ、バッカじゃないのぉ?」
「うっ……。言われなくても分かってるよ。でも今はそれしか考えらんねーんだよ」
「そっかぁ」
「そうだよ……」
「でも、アンタたち付き合っても居ないんだよね?」
「そりゃ、そうだけどさ」
「なのに、札幌?」
「まぁ」
「……えーっと」
「……ん?」
「バッカじゃないのぉ?」
「ガッ! うるせーな! 別に付き合うとか、付き合わないとかそういうのはどうでも良いんだよ! 今はこんな俺の曲でも応援してくれる彼女の存在が唯一の原動力なんだよっ! 放っておいてくれって!」
思わず語気を荒げちまった。と、微妙な間が携帯電話の向こうから漂ってきた時、こんな俺でも「しまった」と内心感じた。元カノ相手に八つ当たりしてこんなのどう考えてもみっともないのは分かってる。でも、それがその時の正直な俺の答えだった。
「……ま、いいわ。とりあえず今はヒマしてるんだよね? ケータロー」
「あぁ。でももう決めたんだ。今日にも沖縄から家に帰って仕度をするつもり」
「だから、今日はヒマって事だよね?」
「……?」
次の瞬間、俺の真横に忍び寄ってきた人影にゾクっとした。風になびく花柄のスカート。見上げると太陽に映える真っ白なシャツ。そして胸元まで伸びた長い髪。その時俺は顔を確認するまでもなくそいつの正体を理解した。
「は? ……はぁ? 何でお前がココに居るんだよ!」
「はいはい、その前に……。さっきの『二十五』の件について」
フルスイングされた薫の細い右腕から繰り出されたラリアット。見事に張り倒された俺は、そのサラサラしたビーチの砂に、したたかに頬を打ち付けたのだった。