ヌヴェル36 プルーストの記憶 咲子の場合
咲子は、父親の陽平と二人で暮らしている。
母親の久美子は、三年前―咲子が四つのとき―に家を飛び出したきり戻ってこない。
酒が入ると人が変わったように暴力をふるう陽平に耐えられず咲子を見捨てて出ていってしまった。
咲子は泣いた。陽平は改心し酒を断った。
三年の間、久美子から一度だけ便りが届いた。
久美子が署名捺印した離婚届だった。
陽平は、謝罪したいという気持ちの遅すぎたことを悟り、役所に届けた。
咲子が小学校に入った頃から、陽平は時々酒の臭いをさせて帰ってくるようになった。
以前のように酒に飲まれることはなかったが、咲子はいつも母親の悲しい顔を思い浮かべた。
ある冬の夜、陽平は女物と思われるマフラーをして帰ってきた。
台所の椅子の背に無造作に掛けられたマフラーを手に取った咲子は、はっと思った。
そこに久美子の香りが滲み込んでいた。
久美子がいた頃の思い出が甦る。
きっと陽平は時々久美子に会っているのだ。
おかあちゃんが帰ってくるかもしれない・・・。そう咲子は思うようになった。
春になった。
小学二年生になった咲子に、陽平は「おまえに会わせたい人がいるんや」と伝えた。
「それ、おかあちゃん?おかあちゃんやな?」と喜ぶ咲子に、陽平は唇を引き締めてこう言った。
「おまえのおかあちゃんになる人や」
五年後。
中学校の入学式の案内板の前で、咲子は父親と母親に挟まれて記念の写真を撮った。
母親は咲子に優しかった。
そして、いつもあの香りを漂わせていた。
二人のおかあちゃんの香り。
プルースト効果
ある特定の香りや匂いから、それにまつわる記憶、感情が呼び戻される現象をいう。




