1 やべー女を拾った
タブレットの画面を、田辺幸一はしばらく睨み続けていた。
並べた台詞に、コマ枠だけ並んだネームのデータ。ペンは止まったままだ。
「……ダメだな」
小さく呟き、椅子の背にもたれた。
モニターの隅に表示された時刻は、午前二時を回っている。
こういう時は考えても無駄だ。
ネームが詰まったら一度席を離れる。それはもう、体で覚えている。
タブレットをスリープにして、幸一は立ち上がった。
机の横にはノートPC、液晶タブレット、外付けHDD。リモート作業のための機材が一通り揃っている。マンガ家志望の部屋としては、かなり普通の光景だ。
コートを引っかけて外に出た。
冬の夜は静かだった。
住宅街の道を歩きながら、頭の中ではさっきのシーンがまだ回っている。
主人公が屋上で告白する場面。
そこまでは決まっている。だが、その次の一言が出てこない。
(才能……はある。絶対値が足りないだけで)
この分野には天才が、掃いて捨てるほどいるのだ。
大学時代に一度賞を取った。
あの時は、このままプロまで行けると思っていた。
現実はそうならなかった。
在学中に連載などは取れず、卒業して就職。
仕事をしながら描こうとしたが、会社というのはマンガを描く余裕をほとんど残してくれない。
結局、辞めた。
今はマンガ家のアシスタントをしている。
普段はリモートで指定の絵を描き、相手によっては出張までして現場作業。
生活はぎりぎりだが、時間はある。
その時間を全部マンガに使っている。
コンビニの自動ドアが開いた。
暖房の空気に少しほっとする。缶コーヒーとチョコを持ってレジを済ませ、外に出た。
冷気が頬に刺さる。
そこで気づいた。
入る時には気づかなかったが、駐車場の端に人影があった。
ごみ箱の隣に座り込んだ、若い女だった。
街灯の明かりから少し外れ、コートも着ていないように見える。
幸一は視線を逸らして歩き出した。
深夜のコンビニ前の人間には、関わらない方がいい。
だが、数歩進んだところで足が止まった。
……寒くないのか。
振り返る。
女は二十歳前後に見えた。
美人というほどではないが、妙に自然な顔立ちだった。
整っているのに特徴が薄い。
それでも、なんとなく可愛らしい。
違和感があって、だからこそ目が引き付けられた。
街灯の下で、こちらを見ている。
視線が合ってしまった。
幸一は小さくため息をついた。
「……寒くないの?」
女は少し考えるように首を傾げた。
「寒いですね」
「だよな」
「でも大丈夫です」
「大丈夫そうには見えないけど」
女は数秒、幸一を観察するように見た。
「あなたは親切な人ですか?」
「いや、普通だと思う」
「普通の人は声をかけませんでした」
「……それはそうかもな」
幸一は頭を掻いた。
「帰る場所とかある?」
「今はありません」
「今は?」
「はい」
よく分からない答えだった。
それでも、さすがにこの寒さで外に立たせておくのも気が引ける。
自分の部屋に呼ぶ危険、たとえば美人局。
年齢的にはおそらく、成人はしているだろうが。
他の諸々も考えたが――。
(どうせ失うものなんて、たいしてねーじゃん)
軽いほどに身軽なのだ。
「俺、近くに住んでるんだけど」
女の視線が少し動く。
「とりあえず来る?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「早いな」
女はそのまま幸一の後ろについて歩き始めた。
――やっぱ軽率だったか?
そう思いながらも、幸一はアパートへ戻った。
部屋のドアを開けると、女は静かに中を見回した。
四畳半。
本棚。
作業机。
PCと液タブ。
そしてシングルベッド。
「ここがあなたの作業場所ですか」
作業場所?
「まあ、そんな感じ」
幸一はコートを脱いで椅子に座った。
タブレットを起動し、さっきのネームを開く。
「風呂は溜まってないけど、シャワー使っていいよ。新しいタオルは引き出しの中、着替えは……男物でよければ、引き出しの中に新品あるし」
「ありがとうございます」
女は素直に風呂場に向かった。
(え、なんか素直すぎない?)
そう思いながらも、目の前の課題に向かう。
こういう時の方が、なぜか集中できてしまう自分がいる。
気付けば背後で、女が歩き回る気配がした。
「マンガを描いているんですね」
「……うん。まだ連載はないけど」
「職業ですか?」
「……バイトに毛が生えた程度かな」
女は机の横に立ち、画面を覗き込んだ。
「これが物語の設計ですか」
「ネーム」
「興味深いですね」
女の顔が近い。
距離が、思ったより近い。
「……ちょっと近くない?」
「そうですか?」
彼女は少しだけ体を引いた。
だが、そのまま机の端に腰を預ける。
脚が組まれ、健康そうな太ももが強調されてくる。
無意識の動きのようだった。
(いや、こんなものが無意識のはずねーだろ!)
「人間の男性は、この距離で女性がいると集中力が落ちる傾向があります」
「……今まさに落ちてる」
「すみません」
そう言いながらも、彼女は特に離れない。
むしろ少し体を傾け、幸一の画面を覗く姿勢になる。
少し濡れた髪が肩から滑り、かすかに甘い匂いがした。
(そっかドライヤーないから……いい匂い……じゃなくて!)
幸一は咳払いをした。
「えっと」
「はい」
「そういう……あれじゃないから」
「どういう意味ですか?」
「いや、その……」
幸一は言葉を探した。
「泊めるのはいいけど、別に対価とかいらないから」
女はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ考える顔をする。
「人間の社会では、見知らぬ女性を自宅に招く場合、性的な期待が伴うことが多いと記録されています」
変な女だ。
「そういうデータは忘れていい」
「あなたは違うのですか?」
「違う」
「では、あなたは純粋な善意で私を保護した?」
「まあ……そうなる」
女は小さく頷いた。
「理解しました」
「本当に?」
「はい」
それから姿勢を正した。
「では説明します」
「説明?」
女は幸一をまっすぐ見た。
なぜか胸を張り、腰に手を当てて。
「実は私は宇宙人なのです」
幸一はしばらく黙った。
それから思った。
(あぶねー女の子だった!)




