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おめでとう

作者: 時輪めぐる
掲載日:2026/02/28

 世界から色が消えた。


 人生の喜びも幸せも灰色に塗り替えられた。


 一週間前、あなたは去った。


 一緒に暮らした十年。明日、新しい年を迎えるはずだった。毎日を丁寧に積み重ねて来た。だが、今、胸に広がるのは空洞。積み重ねた日々は何処へ行ったのだろう。掬い上げようとしても何もない。後悔だけが押し寄せて、息をするのも辛い。目を閉じると涙が頬をだらだらと流れた。




 あなたは、いつも私の夢を支えてくれた。


 仕事をしながら漫画家を目指す私を、励まし、時には叱咤し、応援してくれた。あなたがいたから、度重なる挫折を乗り越えられた。


 ゆとりは無かったけれど、贅沢を言わなければ普通に暮らせていた。「身の丈に合った暮らしをする」が私達の約束だった。年一回の旅行や、記念日のちょっと贅沢な食材、二人で台所に立ち、笑いながら作る料理。私は幸せだった。あなたは幸せではなかったのか。ああ、そうか。気付かないふりをして来たが、長い時をかけて、少しずつ綻びていたのかもしれない。


「早く芽が出るといいね」


「夢は大切だと思うけど」


「もう少しゆとりのある暮らしができたら」


 冗談のように笑いながら、零れていたあなたの本当の気持ち。


 一週間前、私が失業したのがきっかけだった。


「信じることに疲れた」とあなたは苦しそうに呟き、部屋を出て行った。辛抱が限界を超えたのだ。私への愛と生活の間で、微妙なバランスを保っていたあなたの心の天秤。口にした私への応援は、同時にあなた自身への応援でもあったのだろう。時の流れの中で、愛する心より、お金が重くなったのかもしれない。




 大晦日は暮れ、部屋は薄闇に沈む。力なく座り込む私の視界の端に何かが光った。一段と暗い片隅で動いている。何だろう。私は、ゆっくりと立ち上がって照明を点けた。


 そこには淡く輝く装束を身に着けた、小さな人型の何かが私を見上げていた。これは、孤独が見せる幻なのか。私は、声も上げず、驚きもせずにぼんやり眺めた。


「めでとう」


 年寄りのような子供のような、男のような女のような、不思議な声だった。


「めでとう?」


 訊き返すと、それは蠟梅のような手でベランダを指差し、繰り返した。


「めでとう」


『おめでとう』なら知っているが、『めでとう』とは何だろう。


 一週間ぶりにカーテンを開け、すっかり暗くなった窓の外を見る。


 星が瞬く夜空は特に変わりなく、道路を見ても何かある訳ではなかった。視線を近くに移す。ベランダのプランターで、私達は野菜や花を育てていた。水仙の球根を植えたプランターに、ポチポチと可愛らしい緑が顔を出している。


「芽が出たんだ」と口にして、「めでとう」が「芽が出ている」の意味だと理解した。


 祝いの言葉『おめでとう』の語源は『愛でたい』、当て字で『御芽(目)出度う』と書くこともあるようだ。


「芽が出て、おめでとうか?」


『おめでとう』など、今の私に一番遠いことばだと自嘲する。


 ふり向いて部屋の隅を見ると、それは金色の目をパチパチした。


「めでとう」


 天井を指差す。


「何だ? 天井に何かあるのか?」


 私は顔を上げ、天井を隅から隅まで見回したが何もなかった。首が痛い。


 両手を口に当てて、クスクスとそれは笑う。


 くそっ、騙された。何なんだよ、こいつは。


 よく見ようと近付くと、廊下を指差した。


「めでとう」


 思わず目を遣ると、玄関から伸びる暗い廊下に無数の私の足跡が光っている。足跡の一つ一つから、光る芽が無数に伸びていた。これは、いったい。


 今日までの歩みは、無駄ではなかったというのだろうか。応募し、落選して、失望する。その繰り返し。何度挑戦しても、芽は出なかったというのに。


「めでとう」


 今度はテーブルの上のスマホを指差す。


「今度は何だよ」


 切っていた電源を入れ確認すると、一週間前からメールや通知が溜まっていた。その中の一つに目が吸い寄せられる。


【○○賞、受賞のお知らせ】


「えっ」


 震える手でメールを開く。


 ○○賞の受賞を知らせる内容だった。


 だが、私に○○賞に応募した記憶は無い。誤送信ではないかと確認するも、そこには私の作品名とペンネームが記載されていた。


 自信が無く、応募をためらった作品だった。そうか、あなたが私に代わって応募したのだ。数か月前、踏ん切りがつかない私を「せっかく描いたのだから。駄目で元々でしょ」と説得していた。それでも私が動かなかったから、こっそり応募したのだろう。


 涙が溢れた。


 あなたを失った悲しみで、外界を遮断し、自分の中に引き籠もっていた。もっと早くメールに気づけば、あなたは。私達の日常を描いた作品だったから、あなたとこそ、この喜びを分かち合いたかった。


「いや、たぶん」と首を振る。もう、手遅れだったのだ。深く溜息を吐いて画面から顔を上げる。


「私の漫画が……」


 泣き笑いのような顔を向けると、小さな何かは、もう其処にいなかった。


「めでとう」


 視線を巡らせる私の耳元で声がした。


 真っ暗な喪失感で満たされた私の中で、新たに芽吹くものを確かに感じた。










 了




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