第8話 ひとりで歩く距離
ロウが潜れなくなってから、第一階層は少しだけ広くなった。
人数が減ったから、ではない。
判断の責任が、すべて自分に返ってくるようになったからだ。
入口の前で、ミラが立ち止まる。
「今日は、途中まで別行動にする」
「……一人で、ですか」
「ええ。入口から中ほどまで。私が後ろから見てる」
試験でも、訓練でもない。
だが、その言葉が意味するところは分かっていた。
――一人で、判断できるか。
裂け目をくぐる。
冷気。湿り気。閉じた匂い。
もう何度も通った道なのに、今日は足が重い。
水滴の音を数える。
ぽと。ぽと。
間隔は、問題ない。
俺は、ゆっくりと歩いた。
歩幅を一定に。呼吸を浅く。
ノートは開かない。今は、頭の中だけで処理する。
入口から十歩。
異常なし。
二十歩。
反響、やや強い。壁が近い。
三十歩。
砂が細かい。足音が吸われる。
――大丈夫だ。
そう判断した瞬間、胸の奥がざわついた。
第六話と、同じ感覚。
「……違う」
俺は、立ち止まった。
何が違う?
音は同じ。距離も同じ。構造も、大きくは変わっていない。
だが――
“静かすぎる”。
俺は、足元の砂を、つま先で軽く押した。
反応なし。
小石を、転がす。
反応なし。
ここまでは、第五話と同じだ。
俺は、あえて一歩、前に出た。
ゆっくりと、体重を移す。
その瞬間、足裏に、わずかな“返り”を感じた。
硬いものが、砂の下にある。
「……地面、違う」
声には出さない。
だが、心拍が一段上がる。
次の瞬間、背後で、かすかな振動。
音じゃない。空気でもない。
――来てる。
俺は、反射的に動きそうになる身体を、無理やり止めた。
慣れで動いたら、終わる。
代わりに、膝をゆっくり曲げ、重心を落とす。
足裏全体を、地面に“置く”。
振動が、弱まった。
見えない影が、俺の周囲を回っている。
例外個体。しかも、前より近い。
逃げる?
違う。
俺は、腰の小石袋を外し、地面に“置いた”。
落とさない。振動を出さない。
次に、袋の紐を、ゆっくり引く。
砂を擦る、ごく弱い振動。
影が、そちらへ寄る。
俺は、その間に、一歩だけ後退した。
踏み込まない。滑らせる。
影は、完全には釣られない。
だが、距離ができる。
――足りない。
俺は、歯を食いしばった。
判断が、遅れている。
その時、遠くで、別の水滴が落ちた。
ぴしゃ、という音。
影が、そちらを向いた。
今だ。
俺は、後ろへ下がった。
一歩。
二歩。
入口が、見える。
地上の光が差し込んだ瞬間、足から力が抜けた。
俺は、その場に座り込む。
「……合格」
背後から、ミラの声がした。
振り向くと、彼女は少し離れた位置に立っていた。
表情は、厳しい。
「今の、危なかった」
「……はい」
「でも、逃げなかった。慣れで動かなかった」
俺は、息を整えながら頷いた。
心臓が、まだ早い。
「一人で周回するなら、今の判断が最低条件」
ミラは、そう言ってから、少しだけ声を和らげた。
「……ようやく、入口に立てたわね」
入口。
第一階層は、まだ終わっていない。
でも、俺は初めて、“一人で戻ってきた”。
ノートを開く。
手は震えていない。
――単独行動時。
――例外個体は、振動に敏感。
――慣れた判断ほど、疑え。
書き終えて、顔を上げる。
ダンジョンは、何も変わらない顔で口を開けている。
だが、俺は知っている。
ここは、初心者向けじゃない。
――それでも、学べる場所だ。
ひとりで歩ける距離が、また少しだけ伸びた。




