第6話 慣れは音を立てない
その日、第一階層はやけに“普通”だった。
水滴は等間隔に落ち、反響も昨日までと変わらない。砂の感触も、足裏に覚えのある重さだ。
「……異常なし」
俺は小さく呟き、ノートに印をつけた。
周回を始めて一週間。
入口から中ほどまでの経路は、頭より先に身体が覚え始めている。危険な場所、音が反応しやすい区間、立ち止まるべき距離。
――覚えている。
その事実が、少しだけ気持ちを軽くしていた。
「今日はいけそうだな」
ロウが、ほとんど無音で口を動かす。
ミラは何も言わない。ただ、視線だけで釘を刺す。
油断するな、と。
俺たちは、いつもの脇道の手前まで進んだ。
ここは、音の獣が寄りやすい地点。必ず立ち止まり、確認する場所だ。
俺は、耳を澄ませた。
水滴。反響。砂。
――問題ない。
「……進みます」
俺が言うと、ミラが一瞬だけ迷う顔をした。
だが、止めなかった。
一歩。
二歩。
その時だった。
ロウの足が、小さく滑った。
ほんの一瞬。
音としては、昨日までなら“無視される”程度だった。
――来ない。
俺の頭が、そう判断した瞬間。
足元の砂が、揺れた。
「……っ!」
声を出す前に、地面が盛り上がる。
第五話で遭遇した、例外個体。音を立てず、振動を拾うタイプだ。
「止ま――」
言い終わる前に、ロウが反射的に踏み込んだ。
転びかけた身体を支えるための、一歩。
地面が、はっきりと震えた。
影が、跳ねた。
ロウの脛を、鋭い何かが掠める。
布越しでも分かる。浅くない。
ロウが歯を食いしばり、声を殺す。
だが、膝が崩れた。
「ロウ!」
ミラが駆け寄りかけて、止まる。
動けば、振動が増える。
分かっている。でも、間に合わない。
俺の思考が、遅れた。
――慣れている。
――分かっている。
――大丈夫だ。
その“判断”が、致命的だった。
「……動くな」
俺は、今度こそ、唇だけで言った。
「俺が……引きつける」
手が震える。
でも、考える時間はない。
俺は、腰から外した小石袋を、ゆっくりと地面に置いた。
そして、そこから一つ、石を取る。
投げない。
落とす。
自分から、少し離れた位置へ。
ころり、と小さな振動。
影の動きが、わずかに逸れた。
俺は、同じ動作を、もう一度。
間隔を取りながら、後方へ。
影は、迷いながらも、俺から離れていく。
「……今」
ミラが、無音で言った。
彼女は、ロウの身体を引きずるように後退させた。
治癒は使わない。包帯で圧迫し、血を止めるだけ。
俺は、最後まで動かず、影が完全に離れたのを確認してから、ゆっくりと下がった。
入口が見えたとき、足の力が抜けそうになった。
地上。
風。
光。
ロウは座り込み、額に汗を浮かべている。
傷は深くないが、歩けない。
「……悪い」
彼は、絞り出すように言った。
「慣れたつもりだった」
その言葉が、胸に刺さった。
俺も、同じだった。
「違う」
俺は首を振った。
「俺が、止めるべきだった。……判断が遅れた」
ミラは、何も言わずに包帯を締め直す。
しばらくしてから、静かに口を開いた。
「これが、周回の代償」
「……」
「慣れは、音を立てない。でも、確実に足を滑らせる」
俺は、ノートを開いた。
手が、はっきり震えている。
――第一階層・失敗記録。
――例外個体は、無音でも安全ではない。
――判断の遅れは、規則違反と同じ。
書き終えても、胸の重さは消えなかった。
周回は、万能じゃない。
理解した“つもり”が、一番危険だ。
俺は、ロウの怪我を見つめながら、はっきり思った。
次は、もっと慎重に。
次は、もっと疑え。
第一階層は、まだ終わっていない。
そして俺は、まだ何も“分かっていない”。
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