第3話 確かめるために
再び第一階層に入ることになった、と言われた夜、俺はほとんど眠れなかった。
目を閉じると、砂を擦る音と、水滴の規則的な「ぽと」が蘇る。あの静けさは、夢の中でも逃がしてくれない。
翌朝、入口に集まったのは三人だけだった。
俺とミラ、それからロウ。バルドはいない。治療師の言葉を借りれば、「歩けるが、戦える状態ではない」。
「……人数、少なくないか」
ロウが小声で言う。声は抑えているが、入口の前だから反響はしない。
「今日は戦わない」
ミラは淡々と答えた。
「第一階層だけ。奥へは行かない。観察と検証」
検証。
その言葉が、少しだけ俺の背中を支えた。無謀じゃない。少なくとも、そう思おうとしている。
俺たちは、昨日よりも装備を減らしていた。
金属の露出は最小限。ロウの鎧は布で覆われ、剣は布巻きの鞘に収められている。俺の荷物も、必要最低限だ。
裂け目をくぐると、また空気が変わった。
冷たい。湿っている。匂いが閉じている。
昨日と同じ第一階層。なのに、足を踏み入れた瞬間から、身体が強張る。
「止まって」
ミラが手を上げる。
俺たちは、入口から数歩進んだだけで立ち止まった。
水滴の音が聞こえる。ぽと、ぽと。一定の間隔。昨日と同じだ。
「……リオ」
ミラが視線を向ける。
「最初は、あなたの仮説から」
喉が鳴った。逃げ場はない。
俺はノートを開き、書いた内容を頭の中でなぞる。
「音には、種類があります」
できるだけ短く、必要なことだけを口にする。
「連続する音と、突発的な音。あと……音の変化」
ロウが眉をひそめる。「変化?」
「急に大きくなる音。例えば、剣を振る時とか、金属がぶつかる時」
俺は、地面に置いた小石を一つ拾った。
「……試します」
ミラが小さく頷く。ロウは息を殺した。
俺は、まず石を“転がした”。
力を入れず、地面を滑らせる。砂を擦る、かすかな音。
水滴の規則に、変化はない。
遠くの暗がりも、動かない。
「次」
ミラが囁いた。
今度は、同じ石を、少しだけ高く放った。
壁に当たって、「カン」と乾いた音が響く。
瞬間。
水滴の音が、一拍遅れた。
そして、砂を擦る音が、遠くで返ってきた。
「……来る」
ロウが、ほとんど口を動かさずに言った。
影が一つ、壁際を移動する。
昨日見た個体と同じ種類だ。低い姿勢。音の方向を、正確に追っている。
俺の背中を、冷たい汗が伝った。
でも、今回は逃げない。
俺は、石をもう一つ拾った。
同じ方向へ投げる。少しだけ強く。
影は、迷わずそちらへ向かう。
その間、俺たちの足元には、何も来ない。
「……方向は、確定」
ミラが呟いた。
ロウが、慎重に一歩、足を動かした。
布で覆った鎧が、かすかに擦れる。
影が、一瞬だけ、こちらを振り向いた。
心臓が跳ねる。
だが、すぐに影は元の方向へ戻った。
「小さい音なら……無視される」
俺は、震える声で言った。
「でも、急な音は……危険」
その時だった。
天井から落ちた水滴が、いつもより大きな音を立てた。
ぽと、ではない。
ぴしゃ、と潰れる音。
影が、ぴたりと止まった。
「……?」
ロウが、俺を見る。
俺も分からない。
ただ、昨日と違うことが一つあった。
水滴の落ちる位置。
俺たちは、そこに近づいている。
「下がって」
ミラが即座に判断した。
「水音が変わる場所は、危ない」
三人で、音を立てないように後退する。
一歩、二歩。
水滴の音が、元の「ぽと」に戻った。
影は、再び暗がりへ溶けていく。
息が、止まっていたことに気づいた。
ゆっくり吐く。肺が痛い。
「……完全じゃない」
俺は言った。
「規則はある。でも、固定じゃない。距離とか、音の重なりとか……」
「それでいい」
ミラは頷いた。
「完全な答えじゃなくていい。死なないための仮説なら」
ロウが、苦笑する。
「剣より、よっぽど頼りになるな」
褒め言葉のはずなのに、胸が重い。
分かってきたからこそ、分からないことが増える。
帰り道、俺たちは昨日よりも静かに、確実に入口へ戻った。
魔物は一度も近づかなかった。
地上に出た瞬間、陽の光が目に痛い。
でも、昨日ほど膝は震えなかった。
「ノート、見せて」
ミラが言う。
俺は差し出す。彼女は少し目を通し、静かに返した。
「……これは、役に立つ。少なくとも、初心者を殺さずに済む」
その言葉に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
殺さずに済む。
裏を返せば、今まで、どれだけ死んでいたのか。
俺はノートに、新しい一行を書き足した。
――第一階層は、弱いから危険なのではない。
――分かったつもりになると、殺しに来る。
ダンジョンの入口は、今日も変わらず口を開けている。
だが昨日より、ほんの少しだけ。
俺は、その闇を“見る”ことができている気がした。
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