第2話 慣れ、という嘘
ギルドの治療室は、消毒薬と薬草の匂いが混じった、どこか落ち着かない空気に満ちていた。
白い天幕の内側で、バルドは簡易ベッドに横たわり、太腿に巻かれた包帯の上から治療師に睨まれている。
「運が良かったですね」
治療師はそう言ってから、少し言葉を選ぶように続けた。
「あと一息深く食い込んでいたら、歩けなくなっていましたよ」
バルドは鼻で笑い、天井を見つめたまま答えない。
その沈黙が、さっきまでのダンジョンの静けさを思い出させて、俺は無意識に肩をすくめた。
ロウは壁際に立ち、腕を組んで床を見ている。いつもの自信満々な雰囲気はなく、鎧も外したままだ。ミラは受付台の横で、薬草袋の中身を確認しながら、時々こちらに視線を投げてくる。
「……悪かったな」
不意に、バルドが口を開いた。
「俺が油断した」
ロウが顔を上げた。「俺もだ。剣を抜くのが遅れた」
「違う」
バルドは短く否定した。
「抜いたら死んでた。……あれは、音の獣だ」
その言葉に、俺の胸が小さく跳ねた。
“音の獣”。昨日、ノートに書いた言葉が、他人の口から出た。
ミラがこちらを見て、顎で合図する。
「リオ。昨日の続き、話せる?」
視線が集まる。俺は一瞬、喉の奥が詰まった。
あれは偶然だ。たまたま気づいただけだ。そう言って逃げることもできる。でも――
「……全部、確かめたわけじゃありません」
俺は正直に言った。
「ただ、第一階層には“音に反応する何か”がいる。音の大きさと、方向に敏感で……水滴の音が一定だったのも、理由があると思います」
ロウが眉をひそめる。「水滴?」
「天井から落ちる水です。あれ、等間隔でした。だから……たぶん、ダンジョン側が“常に鳴っている音”を用意してる。魔物がそれに慣れてるなら、別の音がした瞬間、異物として認識される」
言葉にしていくうちに、頭の中の霧が少しずつ晴れていく。
俺はノートを開き、簡単な図を描いた。坑道、脇道、水滴の位置。
「石を投げたとき、音が一方向に集まったのは……音源を追う性質があるからだと思います。ただ、長くは持たない。音が止まれば、戻ってくる」
ミラが静かに頷いた。
「だから、退却できた。でも、戦闘はできなかった」
「はい」
俺はうつむいた。
「倒す方法は、分かりません」
一瞬、沈黙。
ロウが歯噛みする音が聞こえた。
「……くそ」
彼は壁を拳で叩きかけて、途中で止めた。
「分かってたら、剣振り回さなかった」
バルドが、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
「分かってたら、俺も突っ込まなかった」
その目は、責める色をしていない。
「だから、次がある」
次。
その言葉が、胸に重くのしかかった。
俺は探索者じゃない。見習いだ。荷運びで、記録係で、ついでだ。
なのに――もう一度、あの静かな闇に入る前提で話が進んでいる。
「無理はさせない」
ミラが、俺の考えを読んだみたいに言った。
「でも、あなたの“気づき”は必要。第一階層を、ただの入口だと思ってる人が多すぎる」
治療室を出たあと、俺は一人でギルドの資料室に向かった。
薄暗い部屋に、古い攻略記録が積まれている。第一階層に関する記述は、驚くほど少ない。
――弱い魔物が出る。
――初心者向け。
――慣れれば問題ない。
どれも、昨日の恐怖と噛み合わない。
「……慣れ、か」
小さく呟いて、俺はノートを開いた。
水滴の音。反響。金属音。足音。呼吸。
思い出せる限り、細かく書き出す。どこで、どんな音がしたか。誰が、どんな動きをしたか。
書いているうちに、ある違和感が浮かんだ。
魔物は、音に“引き寄せられる”だけじゃない。
バルドを襲った個体は、槍の穂先を避けた。
「……見えてる?」
いや、違う。
避けたのは、“音が大きくなる瞬間”だった。
突き出された槍が空気を切る音。
その直前に、動いていた。
俺はペンを走らせる。
――音の大きさ。
――音の変化。
――連続か、突発か。
もし、そうなら。
静かに動き続けるものより、急に大きくなる音を、より危険として認識している可能性がある。
ドアが軋む音がして、俺は顔を上げた。
ミラだった。
「やっぱり、ここにいた」
彼女は机の向かいに腰を下ろす。
「……顔、昨日より良くないわね」
「考えてました」
「そう」
ミラは頷き、少し間を置いてから言った。
「次、第一階層だけを周回するパーティを組む。戦闘目的じゃない。観察と検証。あなたも来て」
俺の指が止まる。
「俺が、行っていいんですか」
「いい、じゃない。必要」
彼女はきっぱり言った。
「昨日は偶然かもしれない。でも、偶然に気づける人は、何度でも気づく」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
期待と、恐怖と、逃げたい気持ちが、ぐちゃぐちゃに混ざる。
「……死にたくないです」
正直に言った。
「私も」
ミラは即答した。
「だから、行く」
資料室を出たとき、夕方の光が差し込んでいた。
ダンジョンの入口は見えない。でも、あの静かな闇が、確実にそこにあることは分かる。
俺はノートを閉じ、胸に抱えた。
慣れで進む場所じゃない。
理解できないまま動けば、死ぬ。
だったら――
少しずつでも、理解するしかない。
次は、逃げるためじゃない。
“確かめる”ために、入る。
その覚悟だけが、昨日と違う点だった。




