第16話 考えない男
第二階層の境界付近で、見覚えのない足跡を見つけたのは、昼前だった。
新しい。しかも、往復している。
「……誰か、ここを出入りしてる」
俺が言うと、ミラは足元を一瞥して、即座に判断した。
「単独ね。荷物が軽い」
その瞬間、奥から人影が現れた。
男だった。
年は俺より少し上。装備は最低限で、武器は短剣一本。鎧らしい鎧は着ていない。だが、歩き方に無駄がなく、境界付近でも一切迷いがない。
男は俺たちを見ると、足を止めた。
ほんの一瞬だけ、距離を測るような目をする。
「……ああ」
それだけ言って、引き返そうとした。
「待ってください」
俺は、反射的に声をかけていた。
「ここ、危険です」
男は、立ち止まりもしないまま答えた。
「知ってる」
短い。
説明も、警戒もない。
「第二階層、入ったんですか」
ミラが問いかける。
男は、ようやくこちらを見た。
感情の薄い目。だが、油断はない。
「入った。出た」
「……それだけ?」
「それ以上、必要か?」
言葉に、引っかかりを覚える。
“入った”のに、“分かった”とは言わない。
「……どうやって、生きて戻ったんですか」
俺は、思わず聞いていた。
男は、少しだけ考える素振りを見せてから、肩をすくめた。
「分からなかったから」
意味が、すぐには掴めなかった。
「分からなかった?」
「そう。分かった気がしたら、引いた」
それだけだ。
理屈も、条件も、説明もない。
ミラが、慎重に一歩近づいた。
「名前は?」
「カイン」
男は、あっさり答える。
「ソロだ」
――カイン。
その名前を、俺は頭の中で反芻した。
「あなた、ここで周回してるんですか」
俺が続ける。
「してない」
「……じゃあ、何を?」
「様子見」
俺の中で、違和感が膨らんだ。
周回もしない。検証もしない。
それで、どうやって判断している?
「判断材料は?」
思わず、踏み込んだ質問をする。
カインは、少しだけ口角を上げた。
笑った、というより、呆れたような。
「材料?」
「そうです。音も、距離も、条件も……」
「考えすぎ」
カインは、即答した。
「ここは、考えた奴から死ぬ」
胸を、殴られた気がした。
「……それは」
反論しようとして、言葉が詰まる。
今までの経験が、否定されたわけじゃない。
だが、真正面から、別の生き方を突きつけられた。
「じゃあ、どうするんですか」
俺は、視線を逸らさずに聞いた。
カインは、境界の方を顎で示した。
「違和感が出たら、捨てる」
「捨てる?」
「仮説も、判断も、その場も」
あまりにも、軽い言い方だった。
「分かった瞬間に、次が来る」
カインは、淡々と言う。
「だから俺は、分からないまま、出る」
――分からないまま、出る。
それは、俺がずっと避けてきた選択だ。
理解しないと進めない。
そう思い込んでいた。
「……それで、楽しいですか」
俺は、気づけばそんなことを聞いていた。
カインは、少しだけ考えてから答える。
「楽しくはない」
「……」
「でも、生きてる」
ミラが、小さく息を吐いた。
「あなた、危ういわね」
「そうか?」
カインは、肩をすくめる。
「死なない方だと思うが」
その言葉に、嘘は感じられなかった。
実際、彼は今、ここに立っている。
「……一緒に、入るつもりはありませんか」
俺は、思い切って言った。
「考え方の違い、確かめたい」
カインは、俺をじっと見た。
数秒。いや、もっと短い。
「嫌いじゃない」
そう言ってから、続ける。
「でも、期待するな。俺は、説明しない」
「それで、いいです」
カインは、ほんの一瞬だけ笑った。
「じゃあ、次に死にかけたら、声をかけろ」
そう言い残して、境界の向こうへ歩き出す。
だが、数歩で止まり、振り返った。
「一つだけ」
「はい」
「“答え”を持って入るな」
それだけ言って、彼は姿を消した。
俺は、その場に立ち尽くした。
胸の奥が、ざわついている。
考えないことで、生き残る男。
理解することで、生き残ろうとしてきた俺。
どちらが正しいかは、分からない。
だが――
第二階層は、もう俺一人の思考だけでは、進めない場所だ。




