第11話 考えが通じない場所
第二階層への入口は、第一階層の最奥にあった。
だが、そこに「扉」はない。ただ、空気の質が違う。湿り気が抜け、代わりに、乾いた冷たさが肺に刺さる。
俺は一度だけ、第一階層を振り返った。
あの場所は、もう“未知”じゃない。だが、安全でもない。
通過点にした、という自覚だけが残る。
「……行く」
ミラに視線を向けると、彼女は短く頷いた。
境界を越えた瞬間、耳が役に立たなくなった。
水滴の音が、ない。
反響も、ない。
足音はするが、距離が測れない。音が、奥へも返らず、吸われもしない。
「……静か、ですね」
思わず、普通の声量で言ってしまう。
ミラが、眉をひそめた。
「静かすぎる。音が“処理されている”」
処理。
第一階層にはなかった概念だ。
通路は広い。天井も高い。視界は悪くない。
なのに、方向感覚が狂う。数歩進んだだけで、どれくらい奥へ来たのか分からなくなる。
「壁、見て」
ミラが立ち止まる。
壁面には、細かな溝が無数に走っていた。
装飾じゃない。意図的な凹凸。
「反響を、殺してる……?」
俺が呟くと、ミラは首を横に振る。
「殺してる、じゃない。均してる」
均す。
大きな音も、小さな音も、同じ“情報量”に。
――音で判断できない。
背中に、冷たいものが走った。
第一階層で積み上げた感覚が、役に立たない。
「……振動は?」
俺は、地面を意識した。
足裏に伝わる感触は、均一だ。
砂でも、岩でもない。硬さが一定すぎる。
俺は、慎重に一歩踏み出した。
何も起きない。
二歩。
三歩。
「待って」
ミラが止める。
彼女は、杖の先を床に“置いた”。
落とさない。振動を出さない。
それでも――
空気が、揺れた。
音じゃない。
風圧でもない。
“距離”が、縮んだ感覚。
「……来る」
ミラが、低く言う。
だが、どこから?
音はない。影も見えない。
俺は、反射的に後退しようとして、止まった。
第一階層の癖だ。動けば、何かが起きる。
だが――
ここでは、動かなくても、起きる。
視界の端で、空間が歪んだ。
輪郭が、ずれる。
次の瞬間、俺の横、ほんの一歩先の床が“消えた”。
正確には、沈んだ。
何もない穴が、音もなく口を開ける。
「……っ!」
声が出た。
ミラが、俺を引き戻す。
足元を見れば、さっきまで確かにあった床が、滑らかに落ち込んでいる。
「罠……?」
「違う」
ミラは、即答した。
「反応してる」
何に?
音でも、振動でもない。
俺の頭が、追いつかない。
「……距離だ」
言葉が、勝手に出た。
「俺たちが、近づいた距離に反応した」
ミラが、一瞬だけ目を細める。
「……空間感知」
第一階層とは、完全に別物だ。
ここでは、音も振動も、主役じゃない。
俺は、喉の奥が渇くのを感じた。
考えているのに、考えが追いつかない。
「……一旦、引きましょう」
ミラが言う。
「ここは、まだ“読めてない”」
反論しかけて、飲み込んだ。
第Ⅰ章で学んだことが、ここで生きる。
――分からないまま、進むな。
俺たちは、来た道を戻った。
戻っているはずなのに、距離感は最後まで掴めなかった。
第一階層の境界に戻った瞬間、耳が、急に仕事を始める。
水滴の音。反響。
俺は、深く息を吐いた。
「……全然、違いますね」
「ええ」
ミラは、はっきり言った。
「第二階層は、“考え方”を選別する場所」
俺は、ノートを開いた。
だが、書けることが、ほとんどない。
――第二階層。
――音・振動は、主軸ではない。
――距離、空間、存在そのものが条件。
最後に、震える手で一行、書き足した。
――第一階層の理解は、ここでは通じない。
ノートを閉じたとき、胸の奥に、久しぶりの感覚があった。
恐怖。
それも、何に怯えればいいのか分からない種類の。
第二階層は、俺の“正しさ”を、何一つ保証してくれない。
そしてそれが、この場所の本質だと――
直感的に、理解していた。




