第10話 通過点にするために
第一階層から出たあと、俺はそのままギルドには戻らなかった。
入口近くの岩に腰を下ろし、ノートを膝に置く。
まだ、胸の奥が落ち着かない。
だが、それは恐怖というより――整理が追いついていない感覚だった。
「……一度、まとめよう」
第一階層。
音に反応する個体。
振動に反応する例外。
安全地帯という錯覚。
慣れによる判断遅れ。
ページを遡り、線を引き、余白に追記する。
最初は雑多だった記録が、少しずつ“形”を持ち始める。
――第一階層・基本原則。
――音は危険だが、唯一の要素ではない。
――静か=安全ではない。
――慣れた判断ほど、一拍置いて疑え。
書いていて、ふと気づいた。
これはもう、「俺が生き残るため」だけのノートじゃない。
誰かが読めば、少なくとも――
入口で死ぬ確率は、下げられる。
「……重いな」
そう呟いたとき、足音がした。
顔を上げると、ミラが立っていた。
「戻ってこないと思ったら、ここにいたのね」
「……頭の中、整理してました」
ミラは、ノートを覗き込む。
しばらく黙って読み、ゆっくり頷いた。
「第一階層を、“場所”じゃなく“工程”として見てる」
「工程?」
「ええ。踏破する場所じゃない。通過するための準備段階」
その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。
「……俺も、そう思います」
自然と、言葉が出る。
「ここは、攻略する場所じゃない。次へ行くための、確認作業です」
ミラは、少しだけ目を細めた。
「じゃあ、聞くわ」
「はい」
「あなたは今、第一階層を“一人で”通れる?」
即答は、しなかった。
頭の中で、これまでの失敗と成功を並べる。
「……死亡率は、かなり下げられます」
俺は、正直に言った。
「でも、ゼロじゃない。想定外は、必ずある」
「それでいい」
ミラは、はっきり言う。
「完璧に安全な階層なんて、存在しない」
彼女は、入口の裂け目を見た。
「でもね。ここを理解した人間だけが、次に進める」
次。
その言葉を聞いても、胸は浮き立たなかった。
むしろ、重く沈む。
「……第二階層は、もっと理不尽ですか」
「当然」
ミラは、ためらいなく答えた。
「第一階層が“慣れを殺す”なら、第二階層は“考えを壊す”」
俺は、ノートを閉じた。
指が、少しだけ強く紙を押さえる。
「でも」
ミラが続ける。
「あなたは、入口を通過した。少なくとも、第一階層に“食われる側”じゃない」
その評価が、胸に残った。
誇らしさじゃない。
責任に近い重さ。
「……明日からも、周回は続けます」
俺は言った。
「ここを、完全に通過点にするまで」
ミラは、静かに笑った。
「ええ。それでいい」
夕方の光が、ダンジョンの入口を照らす。
相変わらず、何も語らない裂け目。
だが俺は知っている。
第一階層は、もう“未知”じゃない。
理解しきったわけじゃない。
安全になったわけでもない。
それでも――
ここを、通過点にできるだけの視点は、手に入れた。
俺は立ち上がり、入口に一礼した。
感謝でも、挑発でもない。
ただの、区切りだ。
第一階層。
生き残るための最初の工程は、ここで終わる。
次に進む準備は、整った。




