とある電車で
――私は今、目の前にいるトンボが本物か偽物か分からないままでいる。
本物というにはあまりにも動かない。しかし偽物というにはあまりにも生きている。時が止まっているのか、はたまた私が”本物と偽物”の境目がない場所へ来てしまったのだろうか。そう思った瞬間、全てが歪んだ。溶けるほどの暑いあの青空も、窓の外から聞こえる踏切の音も、今拍動する私の心臓も、全て。そもそもそれを決める根拠はどこにある?偽物と言えるほどの知識を持っていないし、本物と言えるほどの根拠もない。あぁ、本当に分からない。私は目を逸らせない。瞬きをしたら、あのトンボは動いてしまう気がしたら。でもずっと見ても何も起こらない。まるで私自身が試されているようだ。
動いてしまえば安心できる。
動かなければ疑うしかない。
私は今正気なのだろうか。それとも「それらしきもの」を信じているだけなのか?よく見ればトンボは羽の付き方が妙だった。左右のバランスが微かに違う。けれどそれが間違っていると断定はできなかった。
――だって私はトンボの正しい羽の形なんて知らないのだから。
私の脳は知識ではなく、直感で異常を察知している。これは違う、と。何かが違う、と。見れば見るほど違和感は大きくなる。羽はどういうことか腹の付け根にくっついていた。まるで私のように本来の構造を知らない誰かが説明文だけで作ったようだ。その羽は軽く震えているようで、しかしどうしてか風にはなびかない。これが人工か生物か。そんな境目はとっくのとうに崩れている。
電車は揺れている。私の身体も、他の乗客も、天井のつり革でさえ微かに軋んでいる。それなのにそいつだけは違う。壁に張り付いたそれは風にも、振動にも、時間でさえも逆らっているように動かない。私はいつの間にかそれに恐怖していた。
だってそれは「動かない何か」であって、もう「トンボ」である必要さえないのだから。
誰かが気付くだろうと思って、何度か周囲を見渡したけれど誰一人としてあれに目を向ける物はいなかった。――私だけがそれを見ていた。つまりそれは私の世界にしか存在していない。それがどんなに恐ろしいことか、ようやく理解した。
そして私は夢を見た。嫌味ったらしく眩い世界で私は、まるでオルゴールの人形のように回っていた。誰もいないはずなのに手を伸ばして、くるくると。この世界が本物であると疑わない眼差しで笑っていた。……少しして私は導かれるように目が醒めた。そこはもう目的の駅だった。私は降りる前に、未だそこに在り続けるトンボに近付いた。近付いてそれを見つけた時、私は誰もいない電車で笑う。何事もなかったかのように電車を降りた。
偽物でもあり、本物でもある外へと歩き出したのだ。




