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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

側近の分際で王子様の破談を狙うのならば、失脚する覚悟はおありでしょうね?

作者: れとると

11000字、婚約破棄→微ざまぁもの。

※百合恋愛ではありません。

※設定ふわっとめでお届け。

『王子はあの高慢な男爵令嬢を、側室にする気らしい』『妾ではないのか?』『傲慢にも正妃にしろと言ってたのを、突っぱねられたそうじゃないか』



 フラグラは曲げて唇につけていた左手の人差し指を、そっと降ろす。貴族学園や王城から聞こえていた無数の〝囁き〟が遠ざかった。音がなくなると、彼女は窓枠を押さえる手が震えているのを感じた。それは恐れか、それとも高揚か――――自分でも判別がつかないほど入り混じった感情が、胸を熱くしている。



(事前に確認もとれていたけれど、噂も広まってるし、間違いない)



 王宮執務室の窓を震える手で慎重に閉め、彼女は一人、不敵な笑みを浮かべる。



(これはゲーム通りの流れ。来るはずだわ、〝側室宣言〟が。わがままな悪役〝男爵〟令嬢は断罪されて正室入りを拒否され、側室の提案を蹴って婚約破棄。身を亡ぼす……筋書き(シナリオ)通りね。でもこれですべてを逆転し、法王となって国を、王子を獲るための準備は、整った)



 フラグラは窓から遠く学園や王都を睥睨する。ガラスに映り込む己の笑みを見て、それをさっと隠す。窓の外に背を向け、己の執務机へと舞い戻った。



(転生を自覚してから11年、長かった。努力だけでは足りない。何せ私は、なんの力もない男爵令嬢。ゲーム展開通りに破滅しかねないこの状況を作ってでも、私は賭けに打って出なければならなかった。この〝側室宣言〟に至る道だけが、王国の腐った政局を変え、私の望みを叶えてくれる)



 椅子に座り、書類にサインし始めたら途中で万年筆のインクが切れ、ペンをインク壺に雑に突っ込んだ。ペンがインクを吸う間、彼女はぼんやりと執務室を眺めながら、物思いにふける。

 フラグラはいわゆる〝悪役令嬢〟である。幼くして転生を自覚し、乙女ゲームにおける自らの破滅の運命を知った。ただこのゲーム〝高嶺の花を愛でて〟は、悪役令嬢が男爵家の娘。主人公が公爵家の令嬢なのだ。謀略によって第一王子の婚約者にされ、権威をかさに着て横暴に振る舞った悪役〝男爵〟令嬢が断罪され、王子と公爵令嬢が真実の愛で結ばれるというストーリーである。

 フラグラおよび実家には、この謀略の筋書きを覆す力は、ない。ゆえに彼女は努力を重ねた。妃選定を自ら受けて勝ち抜き、王子の婚約者の座を不動のものとした。聖女学院に通って聖女になり、王妃の信を得て王宮に執務室を得ることにも成功した。



(やっとここまで来た。準備は万端。けど……あの方自身と私の距離が、少し遠すぎる。そこが、不安。シディル様の私に対する態度は、どう見ても冷たい。1m以内に近づくことすら許してくれないし)



 婚約者となったシディル第一王子は、フラグラが近づくと不機嫌な顔をして後ずさるのだ。幼い頃からずっとそうで、当然ダンスなど一緒に踊ったこともない。お茶会では会話もなく、馬車はわざわざ特注品を用意して遠い席に座らされる、遠乗りすれば二人それぞれ馬に乗って並走、散策で手を取られることもない。国王や王妃などは彼の様子を「照れているのだ」と述べていたが、フラグラは真剣に拒絶されているようにも感じ、判断がついていなかった。



(贈り物は受け取ってくれる。手紙や書評のやりとりは盛ん。お茶会だって週一はしてる……けどどうしても、近づかせてくれない。私も気後れして、あんまり自分から詰められてないけれど。身分低いし、中身年増だから……)



 美しく凛々しく、勤勉で大人も驚くほど博識。それが第一王子シディルだ。王侯貴族が当然持つ魔力を彼は持たぬがゆえ、立太子は絶望視されていた。しかしその才気を開花させて、昨年見事に王太子となった。そんな彼とフラグラは、幼い頃に王宮の図書室で出逢った。最初の頃はいろいろあったが、本を読むのが好きだった二人は、その図書室で静かな逢瀬を重ねた。

 だが彼にそれ以上近づくことを、フラグラは躊躇していた。知的なシディルは一方で、時に年相応の幼さ、あどけなさを見せることもある。紅顔の少年に、フラグラは幾度も心を揺さぶられた。そしてあまりの背徳感に、向き合うことを躊躇していた。フラグラは真面目な女であり、数十年という中身年齢差に、彼女の倫理観は強く抵抗を示していた。



「でも、もうそんなこと言ってられない。ここまで来たら、腹をくくらなくては」



 無意識に、曲げた人差し指を、僅かに震える唇につける。また〝囁き〟が聞こえ始め、その中に知った声があった。



(殿下と距離があるのは、望んだことではなかったけれど……きっと、これでよかった。下手に愛し愛されていたら、今頃二人とも亡き者にされていたかもしれなかった。こうするしか、なかったのよ……)



 難しい状況だからこそ、彼女はゲームの悪役令嬢とは違って努力して力をつける一方、迂遠な立ち回りをして帳尻を合わせた。妃選定で能力を見せつけて悪目立ちし、聖女学院に追いやられるように仕向けた。貴族学園に通うシディル王子から離れ、親密になりすぎないように取り計らった。自分を遠ざけようとする、彼の側近や周りにされるがままとした。今の状況ならば、身分の低い男爵令嬢を、王子が独力で正妃に押し上げることなどできない。

 すべては、彼がゲームの筋書き通りにフラグラへ――――側室入りの申し出を持ってくるようにするため。


 フラグラは席を立ち、執務机を回り込む。ほどなく、ノック音がした。応諾すると、メイドの先導に従って客人たちが入室してくる。

 一人目は、黒髪青目の少年。フラグラの婚約者、シディル第一王子。二人目は赤毛の少女。シディルと懇意と噂の令嬢の一人、公爵令嬢サルビアであった。

 三人目は。



「あら、側近殿までおられるとは」



 少し背の高い令息。宰相・ドスティル侯爵の息子のダイナー。彼はシディル王子の側近として育てられていた。不機嫌そうに鼻を鳴らして応えられたので、フラグラは彼から視線を外す。

 自分を避けて1mの距離を守って移動するシディルを含め、三人をソファーへと案内した。ローテーブルを二人掛けのソファーが4つ囲んでいる。フラグラの向かいにシディル、彼の左隣にはサルビア。向かって右のソファーにはダイナーが腰を下ろした。



「シディル殿下。大事なお話があるとか」



 公爵令嬢サルビアとシディル王子の距離が近いのをちらりと見て、フラグラは口火を切った。



「本当は昨日の舞踏会で話そうと思ったんだけどね。君は誘いを受けてくれなかったから」


(どう見ても断罪イベントでした。行くわけがありません)



 残念そうなシディルを見ながら、フラグラはにこやかな笑みを浮かべる。



「私は貴族学園の生徒ではないので、内部で催される会には出席できません。第一、殿下。私をエスコートしたり、踊ってくださるつもりがあったのですか?」


「ぅ。昨日は! そうするつもりだったんだ。あの場で君を――――」


「シディル。本題に入ろう」


(む。また邪魔を……)



 横合いから側近の令息に割り込まれ、少し顔の赤い王子が口をつぐむ。シディルの話を詳しく聞きたいフラグラだったが、気を取り直して口を開いた。



「私との婚約維持は難しい、というお話ですか?」


「違う、そうではないよフラグラ」


「ではまさか、結婚を進めようと? 私を正妃に?」


「……………………君を側室にしたいと、そう思って」



 シディルのそれは、無理なからん申し出であった。いくらフラグラが優秀であっても、男爵令嬢などよくて妾である。それでもフラグラは唯一の婚約者であり、圧倒的な実力で他の妃候補たちを退けてきたのだ。忸怩たるものがある…………はずであった。

 だが、彼女は。



(――――勝った! 賭けは、私の勝ちです)



 獰猛な笑みを、無理やり穏やかな表情の下に飲み込んだ。



「正室がまだお決まりでないのですから、そのお申し出は受けられません。殿下」


「それはまた別に話を――――」


「フラグラ嬢。正室など、あなたが気にするべきところではない。シディルの妃になりたい女性など、いくらでもいる。受けられぬということは、妃を降りるということか?」



 側近ダイナーの赤い瞳が、静かにフラグラを睨みつけている。



(普段なら、ダイナー殿との身分差を考慮して、私は引き下がらなくてはならない。けれど今日は瀬戸際。子どもだからって、容赦しないわ)



 フラグラはにこやかな顔の奥から、鋭い目つきで側近を見つめ返した。



「仮にも殿下の側近を語るならば、そのお話を遮るのではありません。無礼者」


「な、貴様!?」


「鎮まりなさい。あなたは話の当事者ではありません。承服いただけないなら、ご退出を」



 執務室に控えている男性の使用人が数人、壁際から一歩進み出る。彼らを目にしたのか、腰を浮かせかけた令息はまたソファーに座り直した。邪魔者がいなくなったところで、フラグラは姿勢を正して王子に向き直る。



「殿下。もう終わりにしましょう」


「フラグラ!?」



 シディルが立ち上がりかける。厳しい顔をした公爵令嬢、にやりと口元に笑みを浮かべてすぐ消した侯爵令息をちらりと見て、フラグラは王子に視線を合わせた。



「殿下。側室のお約束を受けると、私は様々な勢力の圧力で離宮に押し込められる。そのまま側室になることすらなく、私は闇に葬られます」


「そんな!?」



 驚くシディルに、フラグラは過去にあった暗殺事件を交えて説明した。さらに正妃にしようとすれば今度は矛先が王子に向き、二人は諸共失脚するだろうとも。もう、婚約を破棄するしかないのだ、と。



「だからって、婚約を白紙にだなんて……!」



 立ち上がった王子の後ろから、控えていたメイドがトレイに乗せた紙とペンを差し出す。



「内容をご確認の上、ご納得いただけたらご署名を」



 はらはらした様子のサルビアと、にやけた表情を隠さないダイナーを横目に、フラグラは王子の蒼い瞳をじっと見つめる。



「私を、自由にしてください。殿下」



 躊躇う様子のシディルに、懇願するように後押しの言葉を告げる。



(これしか道はないのです! どうか、伝わって……)



 固唾を飲んで見守るフラグラの前で、シディルが紙に目を通す。彼は驚きをその顔に浮かべた後、ペンを手に取った。滑らかに予備、控えにもサインをしていく。フラグラは唇と奥歯を噛み、一度ぎゅっと目をつぶって、膝の上で強く両拳を握り締めた。



(やっと、やっとここまで来た……! 私の11年が、やっと実を結ぶ)



 メイドが席を回り込んで、フラグラにトレイを差し出す。彼女は早くもインクが乾いた3つの署名を確認し、1枚をメイドに持たせた。



「急ぎ、返事をもらってきて」



 礼をして退室するメイドを見送り、フラグラはほっと息をついてソファーに腰かけ直した。正面のシディルはどさりとソファーに座り、呆然としている。隣のサルビアは難しそうな表情。反対のダイナーは、歪んだ笑みを隠そうともしない。



「フラ、グラ。なぜ、こんな――――」


「男爵家の娘の分際で、過ぎた地位に居座っていた愚か者が、ようやく身の程を知ったというところだろう」


「なんてことを言うんだ、ダイナー!?」



 シディルは側近を咎めるが、彼の笑みは消えない。フラグラも、特に止めなかった。



「一応婚約者だから気を遣っていたが、俺は最初から気に食わなかったんだ。身分は低いのに、女らしい可愛げもない。男を見下したようなこんな女が、妃になろうなどと」


「なるほど。殿下に相応しくないから、私を止めていたのかと思いましたが、違うのですね。いつも話を遮り、私たちの間に割って入り、逢瀬のたびに押しかけ、邪魔ばかりしていた側近殿」


「図に乗るなよフラグラ……! お前がシディルに相応しいわけないだろう!」



 令息の赤い瞳が、フラグラを正面から睨む。フラグラは受けて立った。



「それを決めるのは、あなたではありません。シディル殿下です」


「違う、側近たるこの俺の役目だ。シディルが信頼している、この俺の! そもそも貴様がシディルに相応しくないのは、明白だろうが! それとも何か? 婚約当初のわがままぶり、忘れたとでも言うのか?」



 フラグラが前世のことを思い出したのは、シディルと婚約してしばらくしてからである。それまでの間は、ゲーム通りの悪役令嬢であった。その後は行いを改めたが、このダイナーのように、彼女を排除しようとする者が多く残った。シディルもまたフラグラに近づこうとせず、彼女は王子の信頼を失っていると考えていた。



(そう……忘れてなどいない。けれど、シディル殿下は)



 フラグラは顔を上げる。元婚約者となった王子の蒼い瞳と、目が合った。



(私を、信じてくれていた)



 息を吸って姿勢を正したところで、扉が控えめにノックされ、メイドが入室してきた。素早くフラグラの元まで寄ってきて、彼女にトレイに乗ったものを捧げ渡す。フラグラは紙を手に取って、さっと中身を確認する。



(よし。ジパール国王は、約定通り受け入れたわね。これでもう、憂いはない)



 トレイに乗せられていた〝印〟を持ち、フラグラは少しの感慨をもって握り締める。メイドにいくつかの書類を持ってこさせ、素早くインクをつけて〝印〟で判をつき、またメイドに渡す。フラグラはメイドが僅かに、ケガをしていることを目に止めたが。



「伝達を急ぎなさい」



 力強く頷くメイドに、書類を託して命じた。メイドに続いて幾人かの使用人が下がった。



「貴様、俺の話を聞いているのか!」



 立ち上がったダイナーを、一仕事終えたフラグラはゆっくりと振り返って仰ぎ見る。



「自分の所業は、忘れてはおりませんとも。だからこそ、その分。殿下には尽くし、報いるのです」


「なんだ、不相応な婚約を破棄して、恩でも売るつもりか?」


「いいえ。シディル第一王子。あなたを――――廃太子します」


「「は?」」



 ダイナーとシディルが、同時に声を上げる。



「追って通達が行きます。妃を迎えられぬ王子など、次代の王には相応しくありません。婚約者と仲睦まじく優秀なクロード第二王子と、今一度競ってください」


「なん「貴様にそんな権限はない! 気でも狂ったか、フラグラ!」」


「いいえ。私は正気ですし、権限はこの()()が保証してくれます」



 フラグラは先ほど書類についた印を見せる。それは国王のみがつける判。魔石で掘り込まれた国宝でもある、国璽であった。



「なぜ、貴様が、そんな、ものを」


「先ごろ私は、王になったからです。聖教会教皇庁から派遣された〝法王〟として、ジパール国王との契約により、このシドライト王国を預かります」


「そん、な、ばか、な」


「私は種々の実績を積んで大聖女に選ばれました。その権威を元に、この王国を立て直すため、国を預かります」



 呆然としている二人に、フラグラは淡々と説明する。内乱染みた状況が長く続いている王国は、外部から攻める魔物に抗しきれず、疲弊が激しいこと。聖教会とジパール国王はこれを重く見ており、公務も行い、王国内情にも詳しく、王子の婚約者である大聖女フラグラに白羽の矢が立ったこと。密かに何家かの大貴族たちにも話が行き、フラグラを法王にして代理統治を推し進める方向で話が進んでいたこと。



「ただ条件がありました。もし、シディル王子があくまで私を正妃に求めた場合は。私は大聖女を辞め、王妃として国に入ることを目指すように、と。そして正妃ではなく側室にとお話された場合。婚約をいったん破棄し、王国は私を法王として迎えることになっていました」



 フラグラが勝った〝賭け〟はこれである。シディルが優秀なフラグラを正妃にできるなら、王国としてはそれでいい。だが王子が彼女を側室に迎えることしか出来ぬのであれば、国の政局はどうにもならないとみなし、フラグラを法王として迎えて代理統治を認める、と。なお妾、婚約破棄を王子から申し入れられた場合は賭けは無効で、フラグラはその結果をただ受け入れることになっていた。



(国王陛下らは私を正妃にと望んでくれているけれど、抵抗勢力が大きすぎて現実的ではない。法王となってこの国に大鉈を振るうこと以外に、私がまともに殿下と結ばれる未来は、なかった)



 王位にある期間中に王配としてシディルを迎え入れるとややこしいことになるが、終わって以降の道を整備することは簡単だ。フラグラは期限付きで法王として国を整え、その後の未来を繋げる道を選び……賭けに打って出た。

 そして勝利したのだ。



(私は悪役〝男爵〟令嬢。ゲームの破滅の運命を覆しても、王子の妻の座は決して手に入らない。だからこそ――――私は国ごとシディル様を手に入れるための、賭けに出た)



 法王になって凱旋する。これは、ゲームにおいてヒロインの公爵令嬢サルビアが、王子とは別の攻略対象と行う乾坤一擲の手である。王子と不仲になり、実家から絶縁されたヒロインは聖女学院に押し込まれ、そこで才能を開花。法王となって国に舞い戻るのだ。

 同じことが、悪役令嬢の自分にできるかはわからない。だがこのヒロインのルート展開は、王子の〝側室宣言〟から始まる。悪役令嬢の破滅のシナリオと共通しており、フラグラはそこから望む未来へと繋がる可能性に、賭けた。彼女は賭けと苦難のすべてを乗り越え、唯一王子と結ばれる道筋への切符を、手にしたのだ。



「この約定を前提に、国王陛下や王妃殿下、大貴族たちは代理統治を飲みました。ああ、側近殿の御父上、宰相閣下にはお話が行っていませんが」


「なぜだ!? そんな、横暴な」


「宰相のドスティル侯爵は、私を排除する急先鋒だからです。とても話にならないので、議論には参加させなかったと聞いています」



 フラグラはじっと、赤目の令息を見つめる。



「それで、ダイナー殿。御父上の命があったからあなたはいつも、私と殿下の仲を引き裂こうと、お話に割って入り、間に立って決して近づけないようにさせていたのでしょう?」



 ダイナーはたじろいだ。彼はいつも、シディル王子のためだとうそぶいてフラグラを遠ざけていた。



「違う! 信じてくれ、シディル。俺はお前のために――――」


「散策に出た時、二度ほど私をあなたが池に突き落としたのも、殿下のためですか?」



 ダイナーは生唾を飲み込んでいる。顔色も良くないようだった。彼を見つめるシディルの蒼い瞳は、氷のように冷たい。



「しかも、助けに入ろうとするシディル様を止めて。私を直接的に亡き者にしようとするなんて、あなたは宰相閣下によほど強く、我らの接近を防ぐように言われていたのですね?」


「何を根拠にそんな!? 嘘だ、シディル、この女は嘘をついてるんだ!」


「突き落とした……? そこまでやってたんだ。そこは見てないけど、飛び込もうとする僕を必死に止めてたのは覚えてるよ、ダイナー」



 なおフラグラは泳げるので、溺れたフリをして岸まで辿り着いた。以降は警戒し、ダイナーがついてくるなら逢引は控えるようにしている。

 王子は明らかに怒りのこもった視線で、側近をじっと見ていた。見られているダイナーは脂汗を額に浮かせ、言葉もない。



「他にもいろいろと、私が殿下と近づくのを阻んでくれましたね」


「お願いだ、シディル。そんな女より、俺の言うことを――――」


「もしかして側近殿。私たちの仲が悪いと思ってます?」



 フラグラが呆れたように言うと、ダイナーの目がぎょろりと向いた。



「シディルはお前に近づかないし、茶会では一言も話さないだろう!?」


「近づかないのはまぁ……お茶会で喋らないのは、君がいちいち口を挟むからだよ、ダイナー」


「だから我々は本の感想を、紙に書いてやりとりし合っているのです。仲が悪いならあんなに頻繁に二人でのお茶会をするわけがないでしょう」



 聖女学院に行かされている間も、フラグラはなんとか王都に戻ってきてはシディルとの時間を作っていた。彼からの態度は一見して冷たいものであったが、それでも突き放されることはなかった。



「だが、お前などより、他の令嬢との、方が、シディルも」


「他の、とは……ああもしかして、()()()()が近いから、似合いだと思ったのですか?」


「サルビア嬢は公爵家の娘だ、お前よりシディルに相応しいのは当然だろう!」


「その子は、私が放った()()です」


「……………………は?」



 ダイナーが、王子の隣に黙って座っていた女を振り向く。彼女は、艶やかな笑みを見せた。



「妃選定で知り合ったんですが、それ以来よくしていただいていて。私が貴族学園に入れなかったので、その間私の代わりに、殿下の身辺を固めていただいていたのです」



 ゲームにおけるヒロイン・サルビアとフラグラは早めの接触を行い、味方につけていた。彼女は王子の元教育係の孫でもあり、幼馴染。恋愛関係への発展は危惧していたがそんなこともなく、フラグラの頼み通りに彼を守ってくれていた。



「妃選定に参加したすべての女が認めた、あなたの頼みとあってはね。シディル様の妃に相応しいのは、やはりあなた一人だけだわ」


「そん、な。はず、は。だってこいつは、卑しい身分の低い、娘で……」



 フラグラは顔を青くする令息を横目に、メイドが持ってきたトレイから数枚の紙を受け取った。ざっと中身を読み込み、満足げに頷く。ケガの増えているメイドを労い、下がらせた。



「ところでダイナー殿。殿下のことより、ご自身の身の振り方を考えた方がよさそうですよ?」


「身の振り方、だと……!? いったい、何を言って」


「あなたの父は、宰相を罷免されますから」


「はぁ!?」


「ドスティル侯爵は次世代の芽を摘もうと、妨害に躍起でしたから。国を荒らす原因にしかなりません。彼が築いた利権構造にも、調査の手が入りますので――――」


「貴様!」



 ダイナーが立ち上がって、フラグラに手を伸ばすも。



「もうよすんだ、ダイナー」


「シディル!? 離せ!」



 小柄な王子に、あっという間に組み伏せられた。



「ダイナー殿、私は王国から上がってきた書類に、判をついただけです。早く家に帰らないと、大変なことになっているかもしれませんよ?」


「くそっ……! 覚えていろ、フラグラ!!」



 シディルを跳ねのけ、ダイナーは執務室から立ち去った。



「じゃ、私も行くけど」



 サルビアもまたそっと隣の王子を見て、席を立って扉へ向かう。



「私、あなたのこと。諦めないから」



 彼女はソファーの後ろから、そうフラグラの耳に囁いた。ぞわりとした耳元を思わず押さえ、フラグラは立ち上がって彼女の背を見送る。フラグラは気を落ち着け、今一度王子に向き直る。彼もまた席を立ち、しかし何事かを迷って俯いていた。

 打った手は、一通り功を奏した。自分は権力を手に入れ、権威を盾に大鉈を振るうことができる。政敵を排除することにも、成功した。あとはシディル王子と「大事な話」をするだけである。



「殿下。ダイナー殿もいませんので、ようやく落ち着いて話ができます」


「…………彼のことはずっと、友達だと思っていた。君と僕の仲を、応援しているとも、言ってくれていたのに」


(シディル様、ショックを受けてらっしゃる。あんな悪意たっぷりな男の言うことを、きっとずっと真に受けてきてたのね……。そんなところに、畳みかけるのは、気が引けるけど)



 フラグラはずっと、気後れしていた。中身が年上である自分が、こんな美しい王子の傍を目指していいものかと。前世の記憶を思い出す前の、わがままを尽くした負い目もあった。彼の隣にいる資格などないと、何度も悩んだ。



(でもそれは、私が殿下を対等に見ていなかっただけ。いつの間にかこの方は、自分の足で立って、私に向き合ってくれるようになっていた。私が支えてあげずとも、私を信じて、私を目指してきてくれていた)



 シディルは婚約の破棄でもなく、妾にと言うでもなく、側室にとフラグラに持ち掛けた。フラグラはそれが嬉しかった。悩み、決断し、現実に即して自分を望んでくれたことが、嬉しかった。フラグラは少しだけ眉尻を下げ、俯く王子を見つめた。



「殿下。私を側室に、という提案は。殿下が?」


「うん。ダイナーにそそのかされたわけではないよ……でも彼が承諾した、ということは。君を側室に押し込め、暗殺する手はずが整っていたということ、なのかな」


「はい。私もそのように掴んでいます」


「…………相変わらず、君はすごいね。もしかして、あの魔法?」


「はい」



 フラグラがそっと人差し指を唇に当てて答えると、シディルは曖昧に笑った。フラグラの魔法は「囁き」。自分の声を望むところに届け、多くの声を拾うことできる。小さな魔法であるが、その出力は余人の及ぶところではない。天空から地の底、世界の果てまで声を届け、聞くことができる。彼女はその力で情報を集めて差配する、風の大聖女であった。



「僕も自分の力で、できる限り、なんとかしたかった。だから王太子にも選ばれるよう、頑張ったけど。これも君の足を引っ張ることにしか、ならなかったかな? 廃太子されてしまったし」


「殿下が立太子されたから、私はその妃候補としていくつもの公務を手掛けられました。それが法王就任の決め手になっているので、道が拓けたのは殿下のおかげです」



 一度言葉を切り、少しだけフラグラは惑う。すべての障害は排除した。だがシディルがこの先をどう考えてくれているかは。まだ、わからない。



「あなたを廃太子したのは。王太子のままだと、すぐ次の妃候補をあてがわれるからです。それは自然な流れであり、法王の権威と権力でも止められるものではありません」



 フラグラは胸を押さえ、息を吐き出した。使用人もいない。客は二人とも帰った。この執務室は王宮の奥まったところにあり、人はほとんど来ない。風は時折窓を叩くが、締め切られた部屋には耳が痛いほどの静寂が訪れていた。午後の光は雲に隠れて遠く、二人の間を遮るものは、少ない。ただ少しの空気と、心の作り出してきた壁だけが、残っていた。



(いつの間に……目線の高さが、同じになったのかしらね)



 顔を上げて姿勢を正したフラグラは、真っ直ぐに青の瞳と目が合ったことに、少しの驚きを覚えた。以前は、シディルの方が背が低かったのだ。二人は婚約者ですらなくなり、互いの立場は王太子と男爵令嬢から、王子と法王へと変わった。以前よりは、ずっと対等に近い者同士へ。

 フラグラは少しの勇気を得て、唇をかみしめてから、肩から喉に伝わる震えを抑え、言葉を紡ぎ出す。



「10年……いえ、5年でいいのです」



 フラグラは一歩、踏み出す。シディルがこれまで入れてくれなかった彼のそばに、踏み入る。



「それだけあれば、私は国を整えて王位をジパール国王に返上します。その後で、なら」


「――――3年。いや、2年だ」



 シディルの声に、フラグラはハッとする。半歩距離を詰めた彼は、手が届きそうなほど近い。



「君を早々に、法王の座から引きずりおろす。この国を綺麗にして、君を迎えられるように」



 さらに一歩、もう一歩。シディルが歩み寄り。

 フラグラの、手をとった。



「それまでどうか、待っていてほしい。

 僕はまだ……ダンスが下手くそなんだ」


「いいえ――――いいえ、待てません」



 フラグラはシディルの手を、両手で包んで握り締める。



「私もダンスは少し苦手、でして。だから今日から二人で、練習しませんか?」


「え?」


「サルビアにも手伝ってもらいますが、手が足りないのです。法王たる私の補佐が……優秀な補佐が、必要です」


「……ダンスと乗馬が君より下手な、補佐官が?」


「ついでに読書の趣味が合うと、なおいいですね」


「わかった。力を尽くすよ、法王陛下」



 少しの間、笑いあった後。フラグラは彼の身を引き寄せ、その耳元に唇を近づけた。



「これでやっと――――あなたに愛を、囁けます」



 シディルは魔力がない。魔法が効かず、世界で唯一、フラグラの声が届けられない。彼の声だけが聞けない。だからこそ彼女は、直接言葉を伝えるためにも、シディルに近づきたかった。11年かけたそのための一歩が、ようやく実を結んだ。



「こ、婚約もしてないのに、そんなこと言うものではないよフラグラ!?」



 顔を耳まで真っ赤にして、シディルが身を離す。いつも通りの距離まで、遠ざかってしまった。それを見て、フラグラはようやく納得した。近づくたびに、彼が不機嫌な顔をして離れていた理由を。



(ああ……私が近くにいると、照れてしまう、から。赤面してしまうから、それを抑えるために。サルビアは大丈夫なのに、私だと、ダメで。それは、やっぱり)



 潤んだ目でじっと見ていると、赤い顔のシディルが1つ咳ばらいをした。



「こ、こういうのは。男から言うものだよ」


「はい」


「……フラグラ」


「はい」



 雲間から光が降り注ぎ、窓から差し込む。逆光でシディルの顔が、影に隠れるようになっていく。だがフラグラの目には却って、頬を真っ赤にして、青い瞳を潤ませた紅顔の少年が。少し身を震わせながらも、美しく勇気を振り絞る様が、はっきりと焼き付いた。







「愛しているよ。出逢った頃からずっと、僕は君が大好きだ」






シドライト王国のシディル。彼が王太子として、法王を退位した想い人と軽やかに踊り、時に人前で彼女を抱きあげるようになるのには。

およそ1年ほどの時間を、要したという。

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― 新着の感想 ―
そんな壮大なオチがーーーっ! どこまで言っていいのか分かりませんが、フラグラと彼女の愛した人との間に育まれた愛が深い……。どうかお幸せに!
物語の最後に向けてだんだんと展開が盛り上がっていくのがとてもよかったです!
感想一覧
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