娘の宿題が鬼畜すぎる件
古びた教室の年季の入った扉はいつも通りにガラガラと音を立てたが、放課後で人がいないせいか、いつもよりも大きな音に感じた。
「っ!?」
そう感じていたのは僕だけではなかったようで、教室の中にいた生徒が声にならない声を上げながら肩を跳ねさせていた。
確かに誰もいない教室の扉が突然開け放たられたらビックリするかもしれないけど、それよりもなにか悪いことをしているような驚き方のようだった。
次の瞬間、僕の予感は的中する。
「はぁ!? ちょっ、なんっ、これ、ちがっ」
放課後の誰もいない教室には不釣り合いな音が聞こえる。
しかも大音量で。
彼女の持つスマホのスピーカーから流れる艶かしい女性の声と、リズムよく肉と肉を打ちつけ合う暴力的かつ艶美な音色。
「えっと。なんか、ごめん」
彼女は慌てながらスマホの電源ボタンを長押ししていたけど、その間もスピーカーは喘ぎ続けている。
この状況を作ってしまったのは間違いなく僕だ。
でも、弁解させて欲しい。
放課後の教室で女生徒が一人でいかがわしい動画を視聴しているなんて、いったい誰が考えつくだろうか。
これが憧れの彼女と交わした初めての会話だった。
とりあえず、この教室に戻ってきた目的を達する為に机のフックにかかったままの巾着袋を取り上げ、鞄の中に詰め込んで立ち去ろうとすると、後ろからの牽引力によって足が動かなくなった。
あの細い腕にそんな力はないはずなのに一歩も動けない。
「な、なに? だれにも言わないよ。えっと、普通だと思う。そう、普通のことだと思うから」
「えっ」
振り向くことも腕を振り解くこともできず、震える声で必死に訴える。
「じ、じゃあ。こういうこと、したことがあるの?」
「えぇぇ!? な、ないよ! いや、ないって言うか。違うって! そういうのを見ることがってこと!」
「え、あ。……そっち」
僕の知っている彼女はこんなことを言わないし、こんなことをしない。
でも、制服の裾を掴んで離さない彼女は間違いなく恥ずかしそうにそう呟いた。
本当に彼女のことをなにも知らないのだと打ちのめされた気分だった。
彼女の指が制服から離れる微細な感覚は背中から脳へ伝わる。
しかし、解放されてからもその場から動くことはできなかった。
「その、イヤホンは使った方がいいと思う」
「見るの?」
「え?」
「こういうの見るの?」
信じられない事態が起こっている。
これまでの人生で気になる女子と教室で二人きりになったこともないし、背中越しに会話をしたこともない。
ましてやこんな男子とも真面目に語らないような質問をされるなんて思いもしなかった。
無言の時間に耐えられなくなったのか、またしても彼女の指先が僕の制服の裾を揺らす。
「……見るよ。たまにだけど。その、スマホで。少しだけ」
この返答が正解だったのかは分からない。
精一杯の見栄がかえってダサかったかもしれないけど、教室に入った瞬間からまともに動いていない頭ではなにも考えられなかった。
「ふぅん。想像する?」
「は?」
「わたしでそういう想像したことある?」
思考が停止しかけている頭に鐘を打ちつけたような衝撃がはしる。
さっきまでうろたえていたはずの彼女から、挑発するような質問を投げかけられた。
僕はなぜこんな話をしているんだ。頭ではそう思っていても口は勝手に言葉を紡いでいく。
「……うん。その、たまにだけど」
「ふぅん。そうなんだ」
それはまるで獲物を見つけたライオンのように鋭く、ねっとりと絡みつくような声色だった。
背中越しでは彼女がどんな顔をしているのか見えないし、見る勇気も出ない。
今の彼女は嫌悪感から顔を歪めているのだろうか。
それとも、いじりがいのあるのネタを仕入れたと小馬鹿にして笑っているのだろうか。
あるいは気持ち悪さから泣き出しそうになっているのだろうか。
いずれにしても彼女の声から表情は読み取れなかった。
「知ってた」
「へ?」
情けない声が口からこぼれて、ふらつきそうになる足を必死に支える僕は思わず振り返ってしまった。
「きみのこと知ってるよ。西中出身、帰宅部、趣味はマンガとゲーム、得意教科は数学、苦手教科は美術と歴史と国語、好きな女子のタイプ……わたし」
なんだこれ。
僕は明日からいじめの対象にされてしまうのか。
そんな悪い憶測に支配され、憧れの彼女に認知されている嬉しさよりも羞恥心と恐怖心が勝って一歩あとずさる。
「去年、ハンカチを拾ってくれたでしょ。そのあとからずっと見てた。きみもわたしを見てたよね」
「あ、えっと。はい」
「だよね。今日も背中がやけどしそうだったもん」
「なっ!?」
確かに今日はやけに視線が動かなかった。
一限目から六限目まで気づくと彼女の背中を眺めている。
梅雨が明けて夏を迎える前の蒸し暑くなる今の時期にはみんな薄着になりたくなるもんだよな。なんて、そのときの僕はのんきに構えていたが、今になって恨めしく思う。
「わたしはしっかり見てたのに、いつも目をそらすから気づいてくれなかったね」
「はぁ、え!? な、なにどういうこと!?」
少しだけ唇を尖らせた彼女は僕を見上げながら手首を掴むとなにかを決意したような顔つきで歩き始めた。
「え、ちょっと」
「いいから」
開けっ放しの教室の扉を閉めることも許されずに歩かされ続ける。
いっそのこと彼女の手を振り解いて逃げ帰った方が良いだろうか。
でも、それで明日の朝からクラス中に変な噂を流されても困る。
僕は気づくと空き教室の前に立っていた。
彼女は施錠されているはずの美術室の壁の前でしゃがみ込み、一番下の小窓を開け始める。
「そんなところ開かないよ」
「開くよ、ほら」
こちらを見ずにそう答えると制服が汚れることもためらわずに腹ばいとなり、小窓に頭を突っ込んで教室内を覗く。
同じようにしゃがみこんだ僕の隣には身体の半分を教室内に侵入させた彼女が腹ばいになっていて、「このままスカートを捲ってもすぐには抵抗できないよな」なんて邪なことを考えてしまった。
やがて両足も教室内に引き込まれ、僕は廊下に一人取り残された。
「何してるの? 早くきて」
一向に動こうとしない僕に剛を煮やしたのか、少し怒った彼女の声が小窓の向こう側から聞こえる。
教室の窓はすりガラスで中は見えないが、他に人がいる気配はない。
廊下を何度か見回した僕は意を決して腹ばいになった。
両手を突っ込み続いて頭を出すと、目の前には彼女の足があった。
視線は勝手に足首を越え、ふくらはぎから順に這い上がると太ももを経由してスカートの中に吸い込まれる。
しかし、理想郷への道は彼女の手によって閉ざされた。
「ちょっと」
その一言で我に返ると頬を染めて口を結びながら、スカートを押さえる彼女が見下ろしていることに気づいた。
なんで、そんなところに立ってるんだよ。
そんな文句は言わずに「ごめん」と顔をそらして下半身を小窓の中に潜り込ませた。
這い出て、彼女の指示に従って小窓を閉めると鍵が壊れていて施錠できないことに気づく。
「けっこう使われてるんだって」
「え? 美術の授業って週一回だよね」
「違うよ。放課後、生徒だけで、こっそりと」
人差し指を唇にあてがい、しーっとジェスチャーする彼女は本当に僕の知っている彼女なのか疑ってしまうほどにミステリアスな魅力を醸し出している。
「じ、じゃあ、その。えっと、だから」
「わたしは初めてきた。この教室の使い方を噂で聞いただけだから」
「な、なんで、それを僕に?」
「なんでだと思う?」
「えっと、分からない」
「そっか。残念」
いったい彼女はなにを考えているのだろう。
「わたし好きな人がいるの」
「そ、そうなんだ」
「違った。好きかもしれない人。今はまだ気になっているだけ」
「そうなんだ。じゃあ、これで美術室への入り方は問題ないから、次はその人と来れるね。大丈夫。僕は誰にも言わないよ。今日のことは忘れるし、無かったことにするから安心して」
「……どうしてそうなるの」
「え?」
赤みがかった頬と潤む瞳をきつく吊り上げた彼女が一歩二歩と近づく。
そして、彼女の身体は僕との間にボールを一つ挟めるかどうかという距離で止まった。
「好きでもない人とキスできる?」
「……そんなの、できないよ」
「良かった。わたしも」
まるで耳元で囁かれているような錯覚に陥るほどの甘い声に酔いそうになる。
全然、会話についていけなくて放心状態の僕は彼女の顔を直視できなかったが、ふと視界に映った彼女の唇が迫っていることに気づいた。
どうすればいいんだ。
このまま受け入れていいのか。
あれ、僕と彼女の身長差は何cmだろうか。
こういうときは男が唇を迎えに行くものなのか。
そんなくだらないことを考えている間に互いの唇が触れ合っていた。
これまでに経験したことのない感覚。
二の腕はキスの感覚に似ていると聞いて一度試したが、そんなものとは比べものにならないくらいの衝撃が脳を突き抜ける。
だらしなく口元をゆるめていると制服を引っ張られ、重みに耐えかねて膝が折れそうになるのを必死に堪えた際、意図せず彼女の細い腰を掴んでしまっていた。
「あ、ごめん。腰が砕けるかと思った」
「あ、いや、その、ごめん」
謝りつつも腰から手を離そうとしたが、思考とは裏腹に身体がまったく言うことを聞いてくれない。
「知ってる?」
「多分、知らない」
「わたしの好きな男子のタイプ」
「知らないと思う。ちょっと自信ない」
「……ばか」
一瞬だけ伏せられた瞳の中に僕の顔が映り込んでいる。
その不思議な光景は瞼の裏に焼きついて一生忘れられないと思った矢先、僕の中でなにかが千切れた音がした。
そして――
僕と彼女以外に誰もいない美術室では二つの荒い息づかいだけしか聞こえない。
こんなにも頭の中が真っ白になったのは今日が初めてだった。
「このこと、誰にも言っちゃダメだよ。ふたりだけの秘密」
「言えるわけないよ。それより、その、ごめん。大丈夫?」
「ん。次はもっと落ち着いた場所がいいな」
って、そんなこと、言えるかーーッ!!
「おとーさん? 早く教えてくれないと、宿題が終わらないよー」
「ちょっと待って。今、必死に考える、じゃない。思い出すから」
「おかーさんとの出会いを教えてくれるだけでいいんだよー? 覚えてないのー?」
「そういうわけじゃないけど。おかあさんも一緒に考えてよ」
「ダメ! 考えないで正直に答えてよー」
「え、いや、それは、ちょっとなぁ。ねぇ! 笑ってないで助けてってば!」
「むー。なんで教えてくれないのー?」
「だって、おかあさんがふたりだけの秘密って言ったから」
「明日の授業参観で発表するんだから! 絶対に教えてー!」
彼女は隣に座って笑うだけで十年経った今でも僕を困惑させる。
そして、彼女との間に産まれた愛娘にも困惑させられることが度々あった。
でも、今回の一件も数年後には『娘の宿題が鬼畜すぎる件』なんて笑い話になるんだろうな。