口裂け女は眼を開く
今日も彼女は薄暗い路地に発生する。
目の前には後ろを向いて立っている男が1人。
彼女は男に声を掛ける。
「ねえ」
男は振り向き彼女の姿を見た。
この段階で彼女の行動基準はスタートする。
もう逃げることは出来ない。
「わたし」
そっと自分に顔につけられたマスクを外し。
「きれい?」
咥内の牙が露出するほど切り裂かれた頬が露になった。
男は青白い顔で「あぁ……」と呟き。
そこで息絶えた。
彼女の問いかけに対して何らかの反応を示した者を殺す。
それが彼女の行動基準。
反応は別に無言でも絶句でも構わない。
それを制して相手を殺すのが彼女の基準であり全てなのだ。
地面に倒れる男を前にして。
殺人機械である彼女は自分の行動基準が乱された事に対して回答を求めた。
「……」
彼女の今までの経験と自分を産んだ「口裂け女の噂」の中にもその回答は存在しない。
殺す前に死んでしまったという状況に今の彼女では対応できない。
暫し立ち尽くしていた彼女は、その段階で初めて眼を開いた。
無論、彼女の目は今までも開かれていた。
ただそれはあくまで対象を視認するための手段にしか過ぎない。
だって殺人機械である彼女にとってそれだけが必要な情報だったのだから。
目は見えていたが不要な情報は全てカットされていたのだ。
だが不測の事態に対して彼女は眼を開いた。
今まで不要だと解釈していた周辺の状況が彼女の認識の中に入ってくる。
街は死に溢れていた。
薄暗い路地には死体が溢れていた。
彼女が狙う対象は人間だけだ。
具体的に言うと「生きた人間」なのだ。
だからこそ死んでしまった人間は認識の対象外としていた。
だが認識範囲を広げた今の彼女にはそれが認識できる。
その状況は彼女の認識と大きく食い違っていた。
彼女が存在する世界は、小さな諍いは有れども基本的には平和な世界だった。
これほどに死体が溢れる世界ならば、そもそもの話、彼女の噂なんて大きくはならないだろう。
彼女に狙われた人間はただ口ごと頭を切り裂かれるだけだ。
だが裏路地に転がる死体はそれよりももっと酷い状況になっているのだ。
四肢が引き裂かれバラバラになっている死体まである。
この状況を前に、彼女は……。
彼女は回答を保留した。
彼女の活動基準は「相手へ問いかけをする」段階で停止してしまっている。
彼女が何かする前に相手は死んでしまったのだから。
「相手を殺して立ち去る」という工程へ移行する事が出来ない。
だからと言って裏路地で立ち尽くすというのも彼女の行動基準にはない行動だ。
故に彼女は回答を保留し、何時ものように姿を消した。