もうひとつのプロローグ
リアムは少し目を瞑ると、大きく息を吐きながら空を仰いだ。
そして――旅立ちの日を思い返した。
リアムの両親は魔術士であり、魔術の研究者でもあった。二人の実力と成果は大いに認められ、一代で貴族の仲間入りを果たした。しかし二人は爵位や金に目を眩ませる事無く、専ら研究に没頭していた。
リアムを産んでからも両親は相変わらずで、世話は執事と使用人に任されていた。しかしリアムは寂しくなかった。以前から両親と親交のあったヴェルスウォード伯爵家がリアムを良く招待してくれたからだ。伯爵家には五人の姉妹が居て、よく一緒に遊んで過ごした。その中の四女は後にリアムの許婚となるリリアーヌ。そして末女が現在共に旅をしているラディーナである。
リアムは当然のように魔術学院に入学させられ、親和性の高かった風属性の魔術を修めると、弱冠十五歳で卒業した。
事件は卒業式の日に起きた。
リアムが帰宅すると、家は炎に包まれていた。
家の前で、人影を見つけた。激しく揺れ踊る業火を前に、その影は静かに佇んでいる。
人影はリアムに気付き、振り返った。
人影は仮面を被っていた。木炭のような艶消しの黒と、踊る炎のように交差する幾何学的な赤の模様。
人影はリアムに近付き、目の前で立ち止まった。外套の上からでも分かる筋肉質の体格で、身長もリアムの倍はある。
「レストリアム・ディ・サリア――俺を殺したいか?」
人影は男のようだ。篭った声にはまるで抑揚が無い。
「強くなって、出直して来い」
人影はリアムの肩を軽く叩くと、そのまますれ違い姿を消した。
リアムは何も言えなかった。動く事も敵わなかった。悔しさも、憎しみも、悲しみも、全ての感情が恐怖に飲み込まれた。男の威圧に潰されて、リアムは何もできなかった。
全てを失くしたリアムは、ヴェルスウォード家の養子となる提案を断って、国を出た。当てもなく放浪を続けるうちに、黒仮面の男の情報が徐々に集まった。
男はレベル6以上の冒険者を標的にする”暗殺者”だった。炎属性の魔術を操り、残忍な方法で”依頼”を遂行していると言う。依頼主や目的は分かっていないが、標的となった相手は必ず行方不明になる。死体が残らない為だ。リアムの両親や使用人達も、業火に焼かれて炭と化し、死体が本人だと断言できる根拠は一つも見出せなかった。状況的に、死んだと判断せざるを得なかった。遺骨も形見も、何も残らなかった。
黒仮面の男は煙のような男だった。同じような噂はどこからでも聞く事ができたが、彼の正体に近付く事ができなかった。
リアムは半ば諦めかけていた。生きる為に戦いを覚え、収入を得る為に冒険者となった。各地を渡り、依頼を受け、時には傭兵として雇われた事もあった。そんな生活が日常と化しつつあった。
そしてある日、ラディーナと再会した。
「ちょっと、リアム! やっと見つけましたわよ!」
流石にリアムは驚いた。修道院で大人しく祈りを捧げていた幼馴染の少女が、一人で貧民街に現れたのだ。幻覚ではないかと本気で疑った程だった。
聞けば彼女は旅をしながらリアムの情報を集め、捜し出したのだと言う。
皮肉なものだ。
噂を撒き散らす黒仮面の正体は見えず、細々と彷徨っていたリアムはあっさりラディーナに見つかった。
「さあ、リアム……」
「悪いが、今さら帰る気は無い」
当然だった。養子として生活を保証される機会を自ら無下にした。あの時から既に、あの国にリアムの居場所は無い。
しかしラディーナは尚もリアムの予想を裏切った。
「何を仰っていますの? 私こそ帰る気はございません。この国の先に、ポートブルクという素敵な港町があるそうなのです。一緒に参りませんこと?」
幼少から共に過ごして、お転婆な娘だとは思っていたが、ここまで破天荒だとは知らなかった。
「観光するような金は……」
「私を誰だとお思いですこと? 由緒あるヴェルスウォード家のむごごーっ!?」
腰に手を当て呑気に威張るラディーナの口を、リアムは慌てて塞いだ。
「外で無闇に名乗るな。攫われるぞ」
頬を赤らめたラディーナはこくこくと頷いた。
「と、とにかく! リアム。あなたは今から、私の用心棒です」
「……は?」
「私があなたを雇うと申し上げているのです。これなら文句無いでしょう?」
絶句するリアムを置いて、貴族のお嬢様は貧民街の道の真ん中を堂々と歩く。
そうして二人の旅は始まった。
うるさい町だ。
小さな港町”ポートブルク”に辿り着き、抱いた第一印象はそれだった。
まだ太陽が頂点に達していないにも拘わらず、潮風は熱された砂を孕んでいて、まるで火の粉のような熱波を吹き散らしている。
町の建物は、総じて白や褐色の煉瓦造りが多い。商業地区の広場には簡易な木造の商店と、すぐに畳めるテント型の露店が軒を連ね、多種多様の種族が道を埋めるように蠢いている。港には大小様々な船が軋む音を立てて揺れ、波打ち際で流浪の吟遊詩人が陽気な音楽に合わせて歌っていた。
「素敵な町ですわね、リアム!」
隣で大きな瞳を輝かせ、満面の笑みを浮かべるラディーナの顔を見ると、第一印象を口にする事は躊躇われた。
「……ああ」
リアムは気を使ったつもりだったが、ラディーナは納得しなかった。
「本当に素敵だと思うのなら、もっと感動してくださいませ!」
頬を小さく膨らませ、腰に手を当てて嗜めるラディーナ。しかしリアムよりとても背の低い彼女からは威厳を感じられない。
「悪かったよ。ああ、良い町だな」
「本当にそう思っていますの?」
「……」
「本当の事を言わないと、もっと怒りますわよ?」
「……本当は、うるさい町だと思った」
「はぁ!? この活気が良いんではありませんか! リアムが寡黙過ぎるのです! まったく貴方は……」
「結局怒るのか」
「何か仰って!?」
それからしばらくこの町を、二人は今居る丘の上から静かに見下ろした。モザイク模様の石畳。様々な色のテントと行き交う人々。陽光に煌く凪いだ海。そして無限に広がる青い空。それらのコントラストは鮮やかで、小さな港町は噂通りの活気に満ち溢れていた。
このお嬢様が行きたがる訳だ。
但しリアムもまた密かに、”海駆ける狼亭”の名物料理を楽しみにしているのだった。
少し湿った潮風が、二人の丘を吹き抜ける。