湖畔
木立を抜けると、馬車の進行方向に視界が開けて、目の前に湖が見えた。
さざ波に日の光が反射して、湖面がキラキラと輝いている。
「わあー!」
ロネリ姫が馬車の窓から上半身を乗り出して、ぴょんぴょん跳ねた。
「ほら、姫様、お行儀が悪いですよ」
リタさんが姫をたしなめる。
「はぁい」
姫はリタさんに素直に従って、窓の中に体を引っ込めた。
この二人、仲の良い姉妹っていうか、母と娘って感じだ。
「冬樹様、楽しみですね」
馬車の中で俺の隣に座るロネリ姫が、俺の腕を取ってくっついてきた。
姫は俺を見上げて眩しいくらいの笑顔を見せる。
「ええ、そうですね」
無邪気な姫を見ていると、なんだか無性にその頭を撫でたくなった。
今日はドレスではなくて、水色のワンピースみたいな服を着ているロネリ姫。
その頭には、麦わらのカンカン帽が乗っている。
久しぶりに城を出た姫は、嬉しくてしょうがないらしい。
先日の隣国の視察団への対応を国王が高く評価してくれて、俺は褒美をもらった。
かつて王が避暑に使っていたという、湖畔の離宮が下賜された。
「突然、異世界に召喚されて、その状況を理解する間もなく働かされて、そなたも疲れたであろう。しばらく羽を休めるがよい」
王は、離宮と共に休暇までくれたのだ。
なんてホワイトな職場なんだろう。
元の世界に帰ったら、役員用のウォーターサーバーに王の爪の垢を煎じたものを入れてやりたい。
その休暇には、当然のようにロネリ姫と、そのメイドのリタさんもついてくることになった。
そして、警備のために、ルシアネさんが十騎を引き連れて俺達の馬車の前後を固めている。
空からは、まりなが一八式を飛ばしながらついて来た。
朝早く城を出て、昼過ぎになってようやく離宮がある湖が見えてくる。
ここまでずっと狭い馬車の中で揺られていて、興奮していた姫がはしゃいでしまうのも無理はなかった。
レテティエ湖というその湖は、瓢箪のような形をしていて、その形に沿って歩くと、一周するのに半日はかかりそうなくらい大きかった。
水が澄んでいて、近づくと湖底から生える水草が見える。
水面を鴨の親子が優雅に泳いでいた。
国王が避暑地として使っていたということで、周囲に離宮以外の建物は見えなかったし、人の姿もない。
俺に下賜されたその離宮は、湖畔の森に囲まれてひっそりと立っていた。
白い石組みの三階建てで、形はほぼ立方体をしている。
装飾もほとんどない、こぢんまりとした造りの建築だった。
虚飾を排した建物は、森の中でひっそりと過ごすのにはぴったりかもしれない。
しかし、この世界の常で、その四隅にはあの竜戦塔というねぎ坊主みたいな石造りの塔が、しっかりと立っていた。
門を抜けて馬車が到着すると、車寄せがあるエントランスで、執事の初老の男性と、五人のメイドに迎えられた。
まりなが一八式をエントランスの脇に着陸させて、膝を折らせる。
「これで冬樹様も、一城の主ですね」
建物を見上げてロネリ姫が言う。
確かに、ワンルームマンションからは大いなる出世だ。
「この城に妃としてロネリを迎えてくださると、なお、嬉しいのですが」
姫が熱い視線を俺に向けた。
「いやあ」
俺は、曖昧に答える。
今はそれしか、答えようがない。
中に入ると、一階のホールは三階部分まで吹き抜けになっていた。
奥の中央に二階へ上がる大きな階段があって、その階段を対称に建物が左右に分かれている。
「皆様、長旅でおつかれでしょう。庭の東屋に、お茶の用意が整ってございます」
執事の男性が、優しそうな笑顔で言った。
「それでは姫様、着替えて参りましょうか。汗をかかれているので、体を拭いて差し上げます」
リタさんがロネリ姫に言う。
「はい。冬樹様と何かあったときのために、体はいつも綺麗にしておきたいですものね」
姫が言って、二人はここのメイドさんに案内されて、浴場の方へ消えた。
何かあったときって、俺と姫との間に、一体、何があるって言うんだ……
俺も、メイドさんの一人に案内されて、三階の一室に荷物を置いた。
大きなバルコニーがあって湖の方に向けて開けている、この離宮の主のための部屋だ。
ほぼワンフロアを占めるその一室は、何部屋にも別れていて、執務室や寝室、食堂や娯楽室などがあった。
部屋のバルコニーからは、湖の全景が見渡せる。
静かで、鳥の声しか聞こえない贅沢な空間だった。
元の世界にいたら、一生働いても、こんな部屋には住めなかっただろう。
着替えてホールに戻ると、そこには既に着替えを済ませていたルシアネさんがいた。
ルシアネさんは、軍服を脱いで、白いブラウスみたいな服に、臙脂色のスカートを穿いている。
「冬樹殿、どうなされた?」
思わず見とれていたら、ルシアネさんが不思議そうな顔をした。
「はい、ルシアネさんの鎧や軍服以外の姿を、初めて見るので」
普段、凜としているルシアネさんが、嫋やかに見える。
「これ、おかしいでしょうか?」
ルシアネさんが、スカートを摘まむようにして言った。
「いえ、とても似合っていて、お綺麗です」
これは別に、お世辞とかじゃなくて本心だ。
ルシアネさんはモデルばりに背が高くて姿勢がいいから、服のラインが綺麗に見える。
「ふ、ふ、ふ、冬樹殿、ご冗談を!」
ルシアネさんは、顔を真っ赤にして、逃げるようにホールから出て行ってしまった。
ちょっと、可愛いと思った。
ルシアネさん、騎士団を束ねる剛の者なのに、案外、押しには弱いタイプなのかもしれない。
着替えたら、みんなで庭の東屋でお茶をする。
湖に半分突き出すようにして作られた八角形の東屋に、お茶とケーキが用意されていた。
数種類用意されたケーキから、俺は、洋梨のような果物が入ったタルトを選んだ。
姫は5分くらい迷って、苺らしい果物のババロアを選ぶ。
リタさんはチーズケーキで、ルシアネさんはお酒の香りがするフルーツケーキを選んだ(アンドロイドのまりなは食べることが出来ないから、一八式の中で待機している)。
半分水の上にある東屋は、通り抜ける風が涼しくて気持ち良かった。
時々、下でちゃぷちゃぷと水音がする。
ゆっくりと時間が流れる、最高の時間だ。
「ねえ冬樹様、明日は、湖畔で水遊びをいたしましょう」
口の端に苺のジャムを付けながら、ロネリ姫が言った。
リタさんがそれを目敏く見付けて、すぐに口を拭いて差し上げる。
「水遊び、ですか?」
「はい。ロネリ、水着も用意してきました」
この世界にも、水遊びがあるのか。
そして水着もあるらしい。
そういえば、しばらく水遊びなんてしたことがない。
海に行ったのは学生の夏休みが最後だし、川や湖も、会社の新人研修で、キャンプをしたときが最後だと思う(あの研修は、最悪の思い出だ)。
「水遊び、いたしましょう」
姫が重ねて訊いた。
水に濡れると乾かすのが面倒だし、せっかくの休暇、ベッドで昼寝でもしてるのがいいんだけど……
「リタも、水着を用意したんですよ」
姫が何気なく言う。
リタさんが恥ずかしそうに少し下を向いてしまった。
なん、だと……
俺は息を呑む。
「ルシアネも、水着用意してきたのですよね」
「はい、姫様の仰せのままに」
ルシアネさんが答えた。
俄然、興味が湧いてくる。
なんという、水着回の予感。
「そうですね、少し蒸し暑いし、ちょっとくらい、水遊びしてもいいかもしれませんね」
俺は、なるべく興味なさそうに言った。
面倒臭くて、ヤレヤレだぜ、みたいな雰囲気を醸し出しながら言う。
心の中で、天に向けて両手を突き上げていたのは、言うまでもない。
やっぱ、離宮最高!
休暇、万歳!




