① FELLOW 著
ざあざあと寄せては返す海の波。
遠くに離れては、また近くまで来て。それをずっと繰り返していく。でも、ただそれだけのようでも、何かを取りこぼして。――それは遠く遠く沖の方へと流されて、やがては見えなくなっていくものだ。
人間の記憶とはそういうものだと思う。
だからこそ、だからこそ、私たちは忘れてはいけないのだと思う。あの場所で見た。あの光景を。
夏場に中型二輪の免許を取った。
私は大学の友達を誘って、ツーリングの旅に出かけた。
大阪府を出て、紀伊半島の輪郭を延々となぞる旅。海沿いを途方もなく走り続けて、三重県の那智勝浦を目指す。――和歌山県田辺市、綺麗な海に複雑につきだす海岸線を走る。
突如、すぐ前を走っていた有菜のバイクがハザードを点滅させ、近くのガソリンスタンドに入った。
「ごめんなあ。こいつめっちゃ燃料食うわあ」
苦笑いしながら、フルフェイスのヘルメットを外す有菜。
ビジュアルを重視して、中古のいかついバイクを買ったのが仇となったらしい。男くさいフォルムのドラッグスターだ。マフラーの音も笑ってしまうくらいに大きくて、私の乗り回すホンダのPCXがおもちゃのように見えてしまう。
「いいよ。こっちも結構来てたし」
ちょうど海を一望できる位置にガソリンスタンドがあった。給油がてら休憩をとる。熊野街道沿い。紀伊半島の外周を覆う道路の反対側へと渡り、太平洋を見渡す。複雑な形をした岩礁に波が打ち付けられて、いくつもの飛沫になり、空を舞う。それはやがて、いくつもの溝の入った岩肌に降り注ぎ、幾本もの細い水路を伝って元の海へと還る。
――ふと、その波の中にひと肌の色をした何かが見えた気がした。
「ん?」
目を擦ってもう一度。――しかし、そうしたときには、それはなかった。引き潮によって岩肌が露出しているのみだ。
ガードレールに手をついて遠くを眺めていると横に有菜がやってきて、思いっきり背伸びをした。――彼女の高い背丈が強調される。羨ましいくらいに身体の線が綺麗だ。おまけに本格志向の彼女は、体にフィットした革ツナギを着用している。
「くぅ……うぁああああーっ、海が綺麗だーっ!」
格好に似合わずその仕草は、天真爛漫な少女そのものだ。彼女と一緒にいると自然に笑顔がこぼれ出てくるようだ。
「りーちゃんと来て良かったわー。そーいや、たっちゃんはまだなんかー?」
有菜は私のことをりーちゃんと呼ぶ。
理沙の頭のりの字から派生した呼び名だ。
「あいつは真面目に速度制限守ってるから遅いのよ」
「あはは。あいつ、かたぶつやもんなーっ」
言い忘れていたけれど、この度にはもうひとり仲間がいる。
唯一の男性。田沢遼。大学の授業でも欠席遅刻を全くしないほどの真面目さで。いつも勉強を教えてもらったり、レポートを手伝ってもらったりしている。正直、彼がいなかったら量子力学の単位なんて取れたものじゃなかった。線形代数も彼がいなければ危なかった。
そんな彼だから、制限速度を気にしすぎるあまり、いつも私たちふたりに並走できず、十数分ほど遅れをとるのだった。
有菜が退屈まぎれにピアニッシモのタバコに火をつけた。
タバコの匂いにほのかに甘酸っぱい香りが混じった、独特の香りが広がった。タバコが苦手な私は、海風で運ばれてくる磯の香りを嗅いで気を紛らわせた。
有菜がタバコを吸い始めたのは、二輪の免許を取ってからすぐ後だ。彼女は形から入るタイプだ。だからバイクもいかつい物を買ったし、オーダーメイドでフルフェイスのヘルメットとレザースーツを新調したのも、彼女らしい。
「どうバイクは?」
「最高っ! 海風を延々と感じながら走れるんやで」
そうとは言いながらも細いピアニッシモに口をつける度、どこか苦い顔をする。まだ吸い慣れていないまま、無理をして吸っているのか。
「タバコってさ、美味しいの?」
「んー。苦いかなーっ。正直あんまし美味しい物やとは思わんわ」
「じゃあ、なんで吸ってるの?」
「憧れっちゅうやつかなあ。――でもまあ、格好だけ似せてもなんもカッコつかんなっ」
ふて腐れた自嘲を浮かべながら煙草の灰をポケット灰皿に落とす。
「ほら、うちらが子供んときは、まだこーいうのが大人のイメージやったやん」
「ちょっと古いよ。それにあたるのってもうちょっと上の世代だよ」
「あー……。うちのおかん、ドラマの再放送ばっか見とったから、毒されてもうたかなー。あはは」
このあははという乾いた笑いが、有菜のクセだ。
「それにしても、たっちゃん遅いなー。途中でトイレにでも入ったんかー?」
確かに遅い。こっちがガソリンスタンドに入って給油を終えてから十五分は経っている。時刻は午後五時半過ぎ。――そろそろ今夜の宿を決めなければならない。ラインにも位置情報を送ったが反応はない。既読がつかないということはこっちに向かっていることは確かなのか。かすかな疑問は、風船のごとく少しずつ膨らんでいった。
その時やけに冷たい身体が肌を刺した。突風が吹いてきて潮の匂いとともに、何かが目の中に入って、目を開けられなくなった。
「――った、なんか入った」
しばらくして目が開くようになったが、まだ視界が曇っている。何度か瞬きをして、何とか元通りになったかのように思えた。
「りーちゃん、大丈夫かー?」
有菜が心配そうに私をのぞき込んでいる。――なんだろう。なぜだか、空気の匂いが違う気がする。花火の後のような煙の臭いが微かにする。
「う、うん。ちょっとゴミが入っただけ。それよりも、たっちゃん遅いからさ、電話かけよ」
でもそんな微かな違和感よりも、ふたりは田沢君の不在に気を取られていた。どう考えても、こちらの方が重大だからだ。――だが彼を呼び出そうとしても、繋がらない。電波表示を確認すると、圏外の二文字が。
「有菜-。そっちはー?」
「こっちもあかんわー。おかしいなー。さっきまでバリバリやったのに」
私の携帯電話だって、さっき見たときはアンテナの表示が三本フルで立っていた。彼の姿が見えないまま、こちらの通信まで絶たれてしまった。――彼も同じ道をずっと走っているはずなのだが、言いようのない不安とともに、私たちの中で「彼と合流することはできないのではないか」という疑念が生まれ始める。
とりあえず、バイクを取りにガソリンスタンドへ戻ろう。
そう思って背後を振り返る。
――私たちふたりは、愕然とした。
思わず口をぽかんと開けたまま、ふたりして後ずさりをしてガードレールにもたれかかった。そしてそこからへなとアスファルトに尻餅をつく。荒い息に肩を上下させる。
「――ない」
ない。
そう、ないのだ。
バイクを停めていたガソリンスタンドは、私の視界が奪われていた数秒のうちに忽然と姿を消していたのだ。――代わりに鬱蒼とした山道への入り口があった。闇のベールをつくるべく生い茂る草木たちは、潮風に揉まれてわさわさわさと音を立てる。枝葉に叩かれているのは、蔦の絡みついた古ぼけた大鳥居。
「な、なんや、ここ……」
有菜が震えた声を出したとき、背後、そう海に向かって突き出した絶壁から。人がいるとは思えない方向から、鈴の音が聞こえた。それに遅れてべったんべったんと湿った足音がする。
しゃりん。遅れて、べったん。――また、しゃりん。遅れて、べったん。
背筋を虫が這うような感覚に襲われながら、私たちはアスファルトの地面に手をくぎで打たれたかのように動けなくなってしまっていた。断崖絶壁を登ってきたそいつは、蒼白い藻の絡みついた手で、私の左手を掴んだ。
にゅるにゅるとした冷たい感触。
私は後方に凄まじい引力を感じ、絶壁へと引きずりおろされそうになった。なんとかガードレールの支柱に右腕を絡ませて耐える。
私の身体は上半身が海を臨む崖につきだした形で止まった。
冷静さを取り戻すころには、私を引きずり込もうとした主はいなかった。鈴の音も。湿った足音も。蒼白い手も。
著者(敬称略):FELLOW
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