第一七話 『私たち』と『わたし』
ちょっと、遅れました……。
ごめんくださいませ、と。
優雅な白い犬が扉を叩いていました。
コン、コン、コン、と。
器用に前足で戸を叩きます。
建物に入る時、『私たち』は『私たち』だけに通じる合図を決めていたものです。
静まり返った路地に、木霊するノック音。
息を殺し、扉の先で起きていることを伺うも
流石に吊るされた黒猫亭は『私たち』の宿。
何一つ漏れ聞こえてきません。
ふむ、と使い魔嬢は首をかしげます。
「エルダー・アナスタシア。御覧の通りですが」
「あれ?」
「合図、違うのでは?」
「コン、コン、コンだったよね?」
「『ルカニア』のルールで良いのですか?」
「あっ」
……往々にして『私たち』以外の『私たち』には通じないのですが。
迂闊だったなぁ、と顔をそらした彼女が
さり気なく顔を赤面させていることを
お月様以外は、知らないでしょう。
ガチャリ、と扉が開いたのは途方に暮れかけていた際でした。
「……はぁ、こりゃ、筋金入りだねぇ」
ボヤキ声と共に顔を出すのは
品のいいお姉さんです。
「お客さんだろう? 入りなよ」
店長さんでしょうか?
「えっと……」
どうして、焦るのかはさっぱりです。
けれど、主を立てることを使い魔は十分に知っていました。
「初めまして。こちらは、元第116アケラーレ『ルカニア』エルダー・ウィッチ、アナスタシア・スペレッセです」
「これはご丁寧に。吊るされた黒猫亭の亭主だ。好きに呼んでくれ」
「初めまして、店長さん。私のことは、アフア、と」
はいよ、と頷くなり店長さんは屋内へ一人と一匹を招き入れます。
足を踏み入れた先にあるのは、懐かしい設備でした。
『私たち』が戦中に活用していたテントそのものの内装です。
光源はランプだけ。
窓を覆うは、遮光性抜群の黒いカーテン。
静謐さを重んじるが故でしょうか?
室内に入り、扉を閉じた瞬間、外界の騒音とも切り離されています。
「今日は、お月様の機嫌が良いんだろうねぇ」
「お月様が?」
そうさ、と店長さんは頷きます。
店長さんは、一人と一匹を見つめて満面の笑みを浮かべていました。
「お客さんが来る。それも、本物の『私たち』だ」
「本物、ですか?」
「……騙りが多くてねぇ」
彼女の問いに対し、店長さんは苦々しく答えます。
「気をつけな。自称魔女なんて最近は捨てるほどいる」
はぁ、と頷く一人と一匹にしてみれば……何と返してよいかわからぬことばかりです。
とはいえ、それほど放置されるものでもありません。
「さて、お部屋へ案内しよう。一休みするならば、朝食の希望を聞いとくよ?」
困惑している面々を前に、店長さんはテキパキと宿泊手続きを進めていきます。
「それとも、クッキーと紅茶が入用かな?」
「楽しい、楽しい、おしゃべりの夜ですから、後者で」
あいよ、と頷きつつも店長さんは少し迷うように眉を寄せます。
「月明かりを友にするのも悪かないけれど……」
さて、というべきでしょうか。
その先を口に出せず、というべきでしょうか?
店長さんは言い淀みます。
大方、踏み込みすぎることを躊躇われるのでしょう。
なればこそ、使い魔嬢はささやかに口添えいたします。
「エルダー・アナスタシア」
「はいはい?」
「ちゃんとした時間に、お休みになられては?」
「うーん、でもなぁ……」
お喋りしたいし、月明かりの下で散歩もしたい。
……と散々主張した彼女ですが、船旅での気疲れもあったのでしょう。
結局、抵抗は儚いものでした。
しっかりとしたベッドに入った瞬間のことです。
易々と、すやすやにおなり遊ばします。
「……お疲れ様です」
夢の世界へ旅立った彼女を残し、使い魔嬢は部屋を後にします。
紅茶とクッキーを断らなければ、と受付へ顔を出した時のことでした。
「ああ、嬢ちゃん。お疲れさま」
ちょっちいいかな、と問われた使い魔嬢は頷きます。
「お話でしょうか?」
「そゆこと。ちょっち、過保護すぎだねぇ。訳ありなのは、分かるよ? だけど……」
「少々お待ちを。わかるものですか?」
うん、とカウンター越しに店主さんは頷きます。
「見たところ、彼女はウォーカーかな?」
雰囲気からして
箒を降りた魔女だよね、と指摘されれば
反駁できるような言葉もございません。
「距離感からして、貴方のマスターではないよね?」
「……お分かりになりますか?」
ふう、とお互い一息。
深呼吸の音は、二つでした。
「戦争中、何人が片割れになったと思う?」
「……数え切れないほどでしたね」
数えたくもございませんが、と。
使い魔嬢は喉の奥で一言、飲み込みます。
「だから、彼女たちは『私たち』になった」
「……貴女は?」
「『私たち』よ。でも、『わたし』であり、『私たち』であるの」
「左様ですか」
「左様ですよ」
頷くその横顔は、とても、寂しいものでした。
店長さんでありながら『私たち』のそれ。
「ふーむ、ま、ここらにしておこう」
ぱん、と手を叩き、店長さんは微笑みなおします。
「じゃ、明日の朝食は任せて頂戴な」
「ああ、そうでした。良しなに、名無しの店長さん」
「ははは、きついねぇ」
次回は、朝食会です。