第一六話 近くて遠い
ご飯を食べないグルメもの……?
グルメガイド本にも記載されている名物宿。
グランド・ポーロ亭は、まさに、世が世であれば
その店のため、旅行する価値があると
讃えられるほどに卓越した料理を提供する名店です。
おおよそ、嗅覚のある生き物であればと言いましょうか。
入り口の前に立った瞬間、ガイド本の慧眼を認めねばなりません。
ふわり、と芳しい刺激臭。
なんだろうか、と長旅に疲れた旅人は記憶を巡らすことでしょう。
くんくん、と。
ちょっと、はしたなくも。
でも、どうしようもなく。
ついつい、鼻を鳴らしてしまうかもしれません。
長旅で強張った表情とて、自然に解きほぐされてしまう柔らかな匂い。
ああ、と誰もが思い出すのは
疲れたお腹に、優しくて。
旨みがたっぷり凝縮されて。
くうくうとお腹が鳴いてしまう匂い。
クリーミーなそれは、
具材の味が深く馴染み
頃合い良く切られた海産物が絶品其の物。
人呼んで曰く、海の至宝。
味わい深きは、マルケラス・シチュー!
長い船旅、道中で海産物を食べ飽きていると称する旅人らですら
芳醇な香りだけで虜にし、口に入れるや頬っぺたをとかす大絶品。
マルケラス随一の美味とはこのことです。
けれど、これでもかと宿の入り口から漂ってくるのは
シチューの匂いだけでしょうか?
いやいや、それだけではありません。
シーフードリゾット、ムニエルの匂いに混じり
威勢よくマルケラス名物の大海老焼きの香り!
つーんと鼻を刺激するそれ!
じわっと涎が出てくるそれ!
自然の恵み、余すところなく、召し上がれ!
なんとまぁ、凶悪なものが混じっているではありませんか!
さて、お食事時に無粋な問いかけの失礼を。
彫刻の題材をお探しではございませんか?
例えば……題材は『哀愁』などで。
「う、嘘ですよね……?」
愕然。
唖然。
呆然。
とかく、健気にも。
信じられない現実を前に。
諦めきれない想念を胸に。
一抹の慈悲を希うように。
彼女は、宿屋の女将さんに縋る様な視線を向けていました。
「そ、そんなことって」
「嬢ちゃん、私だって……」
「だ、だって、だって……」
己を善だと信じて疑わぬ善人ですら
彼女の悲痛な眼差しの前には、自らの善性を疑わざるをえません。
「……本当に、ごめんよ、お嬢ちゃん」
悩んだ挙句、己とはまことの善を何一つとして生み出しえぬ
悪人であると気づかされ正機の念を拓くことでしょう。
「許しておくれ……」
でも、と人の良い女将は許しを請うように
彼女の両手を握りしめます。
「私だって、こんなことは、言いたくないんだ、信じて頂戴」
「でも、でも……!」
「本当に、本当にごめんよ。だけど、だけど、無理なんだ、お嬢ちゃん」
良心の呵責に苛まれつつ
しかし、謝るしかないと
女将さんは頭を下げ続けます。
「私、犬がいるとクシャミが止まらなくなっちまうんだ」
トボトボ。
よもや、よもや、と使い魔嬢は苦笑します。
敗残の身を表すしょげた背中。
誇り高き『私たち』の一員が。
『ルカニア』の魔女が。
導くもの、それ、即ち光明が。
彷徨い、道に惑うとは!
これが、戦後という事なのでしょうか?
「なんだか、凄い、残念な気分」
「ガイド本も、女将さんの苦手なものまでは記載しておりません故」
「手落ちじゃないかなぁ」
割合に、丁寧な人ではあるのですが。
ぶつ、ぶつ、と。
彼女にしては、珍しく不平を口にいたします。
けれども、それも、身についた習慣が故のことなのでしょう。
白く優雅な使い魔嬢は、主の気分を慮りつつ
小さく指摘いたします。
「敵ではございませんので」
敵の魔女であれば
得意な戦い方も
苦手な戦い方も
きちんと記録されるのでしょう。
「そういうものかなぁ」
「そういうものにございます」
物事の基準が、乱暴になってしまっている。
なんとも、悲しい限りです。
ぽつ、ぽつ、と歩いていく一人と一匹の足取り。
「旅に出る前、思っていたのと違うなぁ」
「左様ですか?」
「うん、アフア、違うね」
そうですか、と言葉もなく使い魔嬢は月を見上げて微笑みます。
優しいお月様に照らされる路地。
なんとも、愉快な道中になりそうではありませんか。
愉快なワルツを歓喜に任せ踊ろうにも、ちょっとばっかりすきっ腹ですが。
「それで? ここが、女将さんに教わったお店?」
「はい、魔女専用のお店、吊るされた黒猫亭だそうです」
「じゃ、お邪魔してみよう」
皆様の食欲を刺激できていれば、幸いです。いかがだったでしょうか?