第一五話 紺碧
新しい章です。
ふわり、と薫るは磯の匂い。
筏村がたどり着く終着点が近いのでしょう。
海が見えるぞ、と。
誰かが、歓声を張り上げます。
港湾都市マルケラス、海の玄関もすぐ近く。
和気藹々と、到着を待ち望む乗客たちは降り支度を始めていきます。
子供たちは、不安げに。
乗客らは、楽し気に。
船員らは、一仕事終えるという安堵と共に。
そして……一人と一匹は、ちょっと、物々しく備えています。
彼女は小さな背中に大きすぎるマスケット銃を背負うては
万全の臨戦態勢を整え、
油断なく周囲に険しい目線を向けていました。
原則には、極めて忠実というべきでしょう。
なるべく、高所を占めようと立ったるは
簡単な櫓の上で
日向も承知とばかりに仁王立ち。
忌々しいと空を睨み、
憎悪と警戒の念も露わに周囲を一瞥する様、
小さな背中に漂うは
正しく歴戦の風格でした。
習慣、と啼くほかにありません。
習慣。
それは、血肉と化したもの。
血肉。
それは、染みついてしまったもの。
震える心に鉋を掛け
すり減った心に鞭打ち
砕けてしまった勇気をかき集め
竦む手を箒へ添えて。
身についてしまった習慣のまま、『私たち』は融けていったのです。
なればこそ、だからこそ、それであるがゆえに。
使い魔嬢としては、忌々しい日光が
目に染みて仕方ありません。
「エルダー・アナスタシア?」
「うん、何かな?」
見かけたならば、
識別信号が帰ってくるまで
『敵』と見做す。
そんな鋭い眼光を光らせる姿は
立派な『戦場の住人』です。
けれど、ここは『平和』なのです。
『私たち』が追った敵も、送り狼なぞも、おりはしません。
「敵なぞ、どこにも」
「うんうん、分かって……」
「おいででしたらば、せめて、船室で御寛ぎ遊ばしませ」
戦時でもありますまいに、という一言を使い魔嬢は飲み込みます。
目的地前というのは、どうしても、警戒を要するもの『でした』。
過去形です。
でも、頭で理解できたとしても、
染みついてしまった心は中々。
「日の下だからでしょうか、お加減、あまり、よろしくないのでは?」
「大丈夫だよ、アフア」
「さようですか?」
うん、と頷く彼女の表情はとても自然体でした。
でも、だからこそ。
とても作り物じみています。
彼女の瞳を覘き込めども、
何処までも透き通ったガラス玉。
感情は、奥底を覘き込んだとて浮き上がりはしますまい。
『私たち』には、そんな、贅沢が許されませんでした。
『私たち』の箒が、無情にも折れていく光景。
忘れようと、忘れたいと、思い出したくないと願うても。
『私たち』が、『私たち』の散華を
いかほどにして忘失しえましょう?
許されるのは、空知らぬ雨を滴らせること。
それとて、都度都度ともなれば枯れていきます。
初めは、瞳を湿らせていた乙女たちは、
悲嘆の恨み言を呑み込み
からの空時雨を心で降らし
いつしか、泣きたくないがために笑うようになるのです。
蒼い空に溶けて行ってしまった『私たち』。
誰もが、笑っていました。
寂しそうに、困ったように
心を言い表す、言葉を見つけられず
ただ、脆い笑みを携えていました。
ああ、と使い魔嬢はそこで遅まきながらも気が付きます。
大河と海の、なんとまぁ、忌むべきものであることか。
紺碧。
なんと、忌々しい色。
どうして、青に恐れを抱かずにおれましょうか?
「……蒼を見つめられることもありますまいに」
「……うん、そうだね。接岸まで、ちょっと、日陰に居ます」
悲しみの傷への慈悲と癒し。
いつになれば与えられるのでしょうか?
分からぬことに頭を悩ませど、
砂時計の砂は無情なもの。
さらり、さらりと落ちていく時間を留める術などありません。
ゆっくりと下っていく川下りも終着。
曳き船に曳かれ、岸壁に寄せたるところにて無事到着。
筏村は航程を終え、乗客と荷物は丁重ながらも迅速に放り出されていきます。
一人と一匹も、また、その喧騒に放り出された一組です。
「えーと、アフア?」
「はい」
「今晩の御飯と宿、どうしようか?」
「こちらに、以前、馬車でいただいたグルメガイド本が」
ごそごそと使い魔嬢が取り出したるは
親切な御者氏提供のご本。
港町なればこそ、宿泊者に好評の食事を出す宿もございます。
「えーと、お腹壊したりしない奴だよね?」
「左様にございます」
缶詰、瓶詰以外の食事に対しては、
どうやら、依然として
エルダーは懐疑的なのでしょう。
使い魔嬢はため息とともに筏船の調理係を恨みます。
筏船ということもあり
何分にも『保存食』が多かったのは残念でなりません。
テーブル・マナーこそしっかりしていたのも問題でした。
『豪華な保存食』を『キチンとした食事』と
彼女が認識している疑惑をぬぐいきれぬのです。
「さて、向かいましょう。すぐ、傍にあるようですので」
ぐいぐい、と。
引っ張るとは、口憚られるにしても。
淑女にしては、強引と認めましょう。
使い魔嬢としては、出しゃばりも自覚しています。
それでも、やめません。
そろそろ、『平和にも慣れて欲しい』と願うのですから。
踏み出しましょう。




