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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

あなたの瞳に落ちて

星の告知

作者: 島崎紗都子

「カイ、おいで」


 夕餉の準備に取りかかっていたカイはいったん手をとめ、奥の間の入り口から手招きをする母の元に走り寄った。


「手をだしてごらん」


 言われるまま、カイは小さな両手を差し出す。

 擦り傷とあかぎれで血がにじむその手は痛々しく、小さな子どもの手とはとうてい思えなかった。


「他の兄妹たちには内緒だからね」


 唇に人差し指をあて、母が手のひらに飴を一つのっけてくれた。

 カイは驚いた顔で琥珀色の飴と母の顔を交互に見た。

 その日の食事だってままならないのに、飴一つ買う余裕すらないことは幼いながらにも知っていた。

 母の手が優しく頭をなでてくれる。

 その心地よさと、久しぶりの飴に、カイは空色の澄んだ瞳を輝かせ満面の笑みを浮かべる。


 けれど、どうして僕だけなんだろう?

 何故、母は悲しそうに笑うの?


 翌朝カイはその意味を知ることとなる。



 ◇



 その日は朝から暗く、どんよりとした空模様であった。

 灰色の空は重くたれこめ、乾いた空気は肌に突き刺すように冷たい。

 毎日の忙しさに季節の移り変わりを感じとる余裕もなかったが、あらためて遠くに連なる山々に目を向けると、頂には白い雪が積もっていることに気づく。

 さらに辺りを見渡せば、地面の上にはうっすらと霜柱が降り、土の表面はひび割れている。いよいよ、厳しい冬がやってくる。

 早く畑に藁をしかなければ作物がだめになってしまう。

 なのに……。

 母はただうつむいて両手を顔にあて、涙をこぼすばかりであった。

 父はもうこの世にはいない。

 一年前、過酷な労働に倒れ、それでも無理をして働き続けたせいだろう、ある日いつものように夜遅く床に就いた父は二度と目を覚ますことはなかった。

 母の隣で唇を噛み、突然訪ねてきた男をじっと見据えているのは、今年十歳になった二つ上の兄。

 その長男のシャツの裾を握りしめ、きょとんとしているのはまだ五歳の妹であった。


「ねえ、このおじさんは誰? カイお兄ちゃんはどこに行くの?」


 妹の無邪気な問いかけに、長男は言葉もなく首を振る。


「なあに、領主様の城で働かせてもらえるんだ。むしろ幸せだと思わなきゃあいかんよ」


 口の端を歪めて笑い、男の手がカイの肩に置かれる。

 その瞬間、男の指先から噛み煙草の匂いが鼻についた。

 馴染みのないその匂いにカイは軽い吐き気を覚える。

 そっと上目遣いに男の顔を見上げ身を固くした。

 男の薄ら笑いに嫌悪感を覚えたからだ。

 救いを求める目で母を見上げるが、母は決して、我が子の顔を見ようとはしなかった。


「ほらよ」


 受け取れ、と男は母の足下に小さな袋を放り投げた。

 ちゃりんと鳴ったその袋の中身は確かめるまでもなくお金であろう。

 その軽い重みと薄っぺらな厚みから、たいした額は入ってないと予想できた。

 受け取ろうとしない母の代わりに長男が袋に手をのばす。

 確かに金を受け取ったことを確認した男は、一変して表情を変え、カイを見据えた。


「行くぞ」


 きつく肩を掴まれ痛みに顔をしかめた。

 男に引きずられカイも歩き出すが、足早に歩く男の歩調についていけず、何度も足がもつれ、もつれる度、男に腕を引っ張られ身体を起こされる。

 カイは今一度背後を振り返る。

 けれど、最後まで母は顔を上げてはくれなかった。

 父が他界し、母と残された幼い子ども三人で生活していくにはこの世は厳しすぎた。

 貧しい村の百姓の家に生まれたカイも懸命になって、朝から夜遅くまで畑仕事から家のことを頑張った。

 たいして広くもない畑なのに、一番の働き手を失ったその時から作物の実りは衰え、課せられた税金を払うことだけに追われる一方となった。

 他に頼れる身よりもなく、母は幼い子どもたちのために働き続けたが生活は少しも楽になることはなかった。

 やがて、食事もろくに摂ることができなくなり、幼い妹はお腹がすいたと言っては泣いた。道ばたにはえている草を口にし、お腹を壊した妹を誰が叱ることができただろうか。

 薪を買うお金もなく、寒い日は家族が寄り添い暖をとった。

 あまりの寒さに眠れない夜も続いた。

 すり切れ、穴のあいた服を繕う糸すらもない。

 やがて母も体調を崩し、床に就く日が重なった。日に日に兄弟たちはやせ細っていく。誰も口にする者はいなかったが、おそらく誰もが漠然と、死という思いが胸をよぎったに違いない。

 このままでは……。

 そう思った母は、我が子を売る辛い決断を強いられたのだろう。

 働き手となる長男を手放すわけにはいかない、かといって一番下の妹はまだ小さすぎる。だから、カイが選ばれたのはごく自然なことであった。

 母が自分だけに飴をくれたのも、母の悲しそうな顔の意味もようやく今、理解した。

 飴をもらい母に頭をなでられ無邪気に笑う自分を見て、母はどんな気持ちでいたのだろう。

 ああ、とカイは納得する。

 最後の最後まで自分に顔を見せようとはしなかった母の胸のうちを。

 もしも、自分の顔を見てしまったら決意が揺らいでしまう。

 けれど、生き残るためには誰かの犠牲が必要だった。

 決して母を恨んではいけない。

 家に残ることを許された長男を羨んでもいけない。

 どこに行くのと、無邪気に笑いかけてくる妹に腹を立ててもいけない。

 でも……とカイは強く唇を噛みしめた。

 様々な思いを振り払い、カイはただ歩くことだけに専念した。

 ようやく村の入り口へとたどり着くと、そこに一台の馬車が止めてあった。

 さらに馬車の回りを馬に騎乗した数人の男たちが取り囲んでいる。

 馬車を護衛するためだろうか、どの男も腰に剣を帯びていた。

 男は馬車の後にカイを連れて行き、荷台の入り口を覆っていた幌を押し開いた。

 そこへ乗るよう、男は無言であごを動かしカイをうながす。

 瞬間、カイは小さく息を飲み、後ずさった。

 荷台の中はカイが乗り込む余地などないくらいに人でいっぱいだったからだ。

 みな、疲弊しきった顔で視線だけを動かし、新たにやってきたカイをじっと見つめていた。

 この男によって買われた人たちなのだろう。

 護衛だと思っていた男たちは彼らを監視し、逃亡を阻止する役割を担っているのだということを瞬時に悟る。

 カイはさらに後ずさり首を左右に振る。


 この馬車には乗りたくない。

 乗ってはいけない。

 走ってこの場から逃げ出し家に引き返そう。

 なんでもするから、畑仕事も家の手伝いも、もっと頑張るから。

 だから、僕を家に置いてと母に頼むんだ。

 なのに、足が動かなかった。

 その時、カイの頬にぽつりと大粒の雨が落ちてきた。

 一つ二つそして、徐々に雨脚が激しさを増す。


「さっさと乗れって言ってんだよ!」


 ためらうカイの背中を男は乱暴に足で蹴る。

 容赦ないその力にカイは前のめりに転がった。

 胸を強く地面に打ちつけ、呼吸できずに喘ぐカイの脇腹に再度男の蹴りがめり込む。

 苦しげに息を吐き男の攻撃から身を守ろうと、その場に身体を丸めてうずくまる。

 この状況を目の当たりにしても、誰も哀れな子どもに同情の声をあげる者はいなかった。

 カイは顔だけを上げて男を睨み上げる。


「何だ、その目は」


 男の手がカイの髪の毛をわしづかみ、雨でぬかるみ始めた泥の中に顔を擦りつけた。

「恨むなら、自分の息子を売り飛ばした母親を恨め。いいか、この先待ち受けているのは地獄だ。おまえは死ぬまで奴隷として扱き使われるんだ」

 男の言葉はカイを絶望の底へと叩きつけた。



 ◇



 雨はいっこうにやむ気配をみせない。

 それどころか吹きつける風に煽られ、いっそう激しさを増すばかり。

 荷台を覆う幌の隙間から雨のつぶてが入り込む。

 カイは片手を脇腹に押し当てた。男に蹴られたところがまだずきりと痛む。

 その痛みをまぎらわすように、添えた手に力を込める。

 さらに片方の手で口元を押さえ、吐き気をこらえる。

 吐くものなど何もない。

 ただ苦い胃液がこみ上げてくるだけ。

 馬車の揺れる振動と、冷たく堅い床は居心地が悪く、楽な姿勢をとりたくても、身動きすることさえままならない。

 薄暗い荷台の中にようやく目が慣れ始め、カイは改めて回りを見渡した。

 ぎゅうぎゅう詰めの荷台の床に膝を抱え背中を丸めている大勢の人たち。

 大人もいれば、自分と同じ年頃の子どももいる。

 女性もいた。

 その誰もがどこをみるともなく生気のない虚ろな目をしている。

 この先自分はどうなってしまうのだろう。

 見えない行く末に不安と絶望が広がる。

 思わず涙を浮かべたその時、すぐ隣から小さな手がカイの目の前に延びてきた。

 カイは首だけを動かして横を見る。

 自分と年齢の変わらない少女が、布きれを手にこちらを見つめていた。

 少女は握っていた布で、泥で汚れたカイの頬をそっと拭い始めた。


「あ、ありがとう……」


 間近に顔を寄せる少女をぼんやりと見つめた。

 耳の両脇できっちりと三つ編みにされた亜麻色の髪。

 瞳も髪と同じ色。

 着ている服はあちこちすり切れ穴があき、ぼろ布のようであった。

 もっとも、カイの服も、手足の丈が短くなった継ぎはぎだらけのひどいものであったが。

 頬にふれる少女の小さな手が冷たい。

 荒れてひび割れた指先が頬にかさかさとあたる。

 だが不快とは思わなかった。

 ふとカイの視線が少女の骨の浮き出た鎖骨、さらにほつれた袖からあらわれる腕へと向けられた。

 思わず息を飲んでしまった。

 体のあちこちに浮かんでいる内出血の痕。

 右腕にはみみず腫れのような傷まであった。

 この少女は虐待を受けてきたのだ。

 かける言葉が見当たらなかった。

 いや、なんて声をかけたらいいのかわからなかった。

 カイはおもむろに冷え切った少女の手をとり、両手で包み込むように握りしめた。

 少女は驚いた顔で目を見開く。


「手、冷たい」


 少女の手を握ったまま、カイは自分の口許にともっていき、息を吹きかけた。

 何度も何度も息を吐き、少女の手を暖める。

 少女は両肩を小刻みに震わせた。



 ◇



 村を出てからまる一日が経とうとした。

 その間食事はおろか、水さえも与えてもらえなかった。

 家畜にだって決まった時間に餌をやる。

 つまりここにいる者はそれ以下の扱いということだ。

 狭い馬車の中では満足に身動きも出来ず、座りっぱなしのため疲労が増した。

 誰も一言も文句は言わなくても、殺気だった苛立ちが張りつめた空気の中を漂う。

 雨は止んだが、それでも吹きつける風は冷たい。

 馬車の入り口にいるカイにとっては始終その風にさらされ続ける状態であった。

 ふいに隣に座っていた先ほどの少女がぶるっと身体を震わせた。

 カイは一瞬ためらったが、思い切って少女の肩に手を回し引き寄せた。

 幌の隙間から入り込んでくる風を遮るよう自らが壁となる。

 カイにとっては苦しい体勢となったが、不思議と辛いとは思わなかった。

 やがて少女はカイの肩に頭を乗せ、こくりこくりと眠り始めた。

 腰も腕もずしりと痛んだが、それでも自分を信じて安心して眠る少女の寝顔を見るのは嬉しかった。

 深い眠りについていれば、とりあえず空腹も寒さも感じることはないだろう。

 しばらくこのまま眠っていてくれたらと思った瞬間、馬車が大きく揺れ、その拍子に少女の身体が前に座っている男の背中にあたった。


「このがき! ぶつかってくるな!」


 男は声を張り上げ、少女の身体をひじで押し返す。

 男の凄まじい声と形相に、少女は怯えるように身を縮ませた。


「ちょっとぶつかっただけじゃないか!」


 男は腕を伸ばし、カイの胸ぐらを掴んだ。


「くそ生意気ながきが。てめえの首、へし折ってやろうか!」


 男は力一杯カイの首を締め上げてくる。

 呼吸が苦しい。

 目をすがめカイは視線だけを動かして回りを見る。

 誰もが見て見ぬ振りを決め込み、仲裁に入ろうとする気配さえみせなかった。


「やれる……ものなら……」


 やってみろと、上目遣いに男を睨み、カイは自分の首を締め上げてくるその腕に手をかけ、思いっきり爪を食い込ませた。

 男の顔が痛みで醜く歪む。


「へっ、そんなこ汚い小娘を庇って騎士気取りかよ! 笑わせるぜ」


 男は小馬鹿にしたように鼻で笑い、すぐに背中を向けてしまった。

 カイは緊張を解いた。

 どうなるかと一瞬、ひやりとしたが、おおごとにはならずにすんだようだ。


「もう大丈夫だから……」


 何度も大丈夫、と繰り返したが、それでも少女の震えは止まらない。

 ふと、カイは思い出したように、ポケットに手を突っ込んだ。

 手に触れたのは母がくれた一個の飴。

 それを取り出し、少女の手に握らせた。

 手のひらの飴とカイを交互に見つめ、少女は目を丸くしている。


「本当は妹にと思ったんだけど、あげそびれたんだ。君が喜んでくれるのなら」


 少女はしばし、その飴玉をじっと見つめていたが、おもむろに口許に持っていき堅い飴を歯でがりっと割ってカイに差し出した。


「半分こ……」


 思いもしなかった少女の行動に驚く。

 ここに来るまで少女の身に何があったのか、何をされてきたのかカイには想像できない。

 君は本当はどんな()なのだろう。

 どんな風に笑うのだろう。

 もっと君のことを知りたい。


 ありがとう、と呟き、少女の手から半分に割られた飴を取り口の中に放り込む。

 甘い味が口の中に広がっていった。

 母のこと兄妹のことをふと思い出す。

 皆、今頃どうしているだろうか?

 思わず、涙が浮かんできた。

 帰りたい。

 家に帰りたい……。



 ◇



 少女はエレナといった。

 最初は口がきけないのかと思っていたが、そういうわけではなかった。

 だが口数は少なく、何か喋るときは脅えるように言葉を選んで喋った。

 エレナはカイの住んでいた村よりも、さらに北に位置する村から来たという。

 物心つく前に両親を亡くし、以来親戚の家に引き取られたのだが、やはり貧しさ故、売られてきた。

 エレナの様子からその家でどのような扱いを受けてきたかは想像に難くない。

 脅えて遠慮がちに喋るのは、おそらく自分がいけないことを喋って怒られるのではと、恐れていてか。

 カイはそんなエレナに、どうにもならないもどかしさを感じた。

 自分は絶対にエレナを傷つけたりしない。

 その思いが早く伝わって欲しいというもどかしさである。


 もっと僕に心を開いてくれたなら。

 僕は君に優しくしたい。


 そして、二日目の朝になってようやく少量の水とパンが配られた。

 カイは与えられたそれを見て眉をしかめる。

 木の器に注がれた水は茶色く濁り、パンは堅くカビが生えていた。

 それでも、誰一人文句を言う者はいなかった。

 みな、無言でパンをむさぼり水を飲んだ。

 食事にありつく彼らの間に奇妙な緊張感が張りつめる。

 食べながら互いのパンの大きさを確認するのだ。

 自分よりも、あいつのパンの方が大きいのではないかと。

 まるで、そんな目であった。


「もういやだ! 俺はもういやだ!」


 突如、一人の男が叫び声と同時に、回りの者を押しのけ、馬車から飛び降りた。

 咄嗟に地面に落ちていた棒きれを拾い、めちゃくちゃに振り回し駆けだして行く。

 馬車の中のみなが、呆然とその男の背中を見つめていた。

 あるいは、自分も逃げだそうと考えていた者もいたかもしれない。

 人買いの男はあごで、見張りたちに合図する。

 体力の落ちた体で逃げ切れるはずもなく、すぐに男は取り押さえられた。


「見逃してくれ! 頼む、見逃してくれ!」


 両手両脚を押さえ込まれながらも、なおその手から逃れようと男は必死になってもがく。


「奴隷の逃亡は重罪なんだよ」


 人買いの男はにやりと口許を歪め、隣にいた見張りにやれと短く言う。

 命じられた男は嬉々とした表情を浮かべ、腰の剣を抜いた。


「だ……」


 カイは咄嗟にエレナの頭を胸に強く抱え込んだ。


「見ちゃだめだ!」


 これから起こる出来事を、決してエレナには見せまいと。

 次の瞬間、押さえ込まれていた男の凄まじい絶叫と、馬車の中からの悲鳴。そして、人買いの男たちが腹を抱えて大笑いしている声が耳についた。

 男の身体から切り取られ、飛んだ首が、ごろりと血の跡をひいて地に転がる。

 首だけになった男の、大きく見開かれた目が怨みがましく蒼穹を見上げていた。

 何故自分は殺されなければいけないのかと、訴えかけるように。


「忘れよう。忘れるんだ」


 震えるエレナを抱きしめ、カイは何度もエレナに、そして自分自身に言い聞かせた。



 ◇



 目の前で人が殺されたという衝撃に、誰もが悲愴な表情を浮かべていた。

 何かの拍子で発狂しかねない危うさが張りつめている。

 隙を見て逃げ出そうと思った者も他にもいたはずだ。

 けれど、逃げれば殺される。

 あの男はいい見せしめとなった。

 カイは幌の隙間から夜空を仰ぎ見た。

 寒天に星が冷たく光る。

 その中でもひときわ明るい光を放つ星。

 天白星。

 人は生まれ落ちた瞬間から己の星を持ち、その人の運命が決まるのだという話を聞いたことがある。

 それは本当なのだろうか。

 だとしたら、これが僕の運命だというのか。

 この運命からは逃れることはできないのか。

 そうして夜が明ける頃、突然、馬車が停止した。

 外の気配に耳をそばだてると、どうやら目的地に到着したらしい。

 迫りくるは絶望の朝。

 見上げれば、白み始めた東の空にぽつんと取り残されたように光る孤高の星。

 すぐさま、馬車から降ろされ、命じられるまま列をつくり歩かされた。

 着いた所は、小さいながらも立派な城を構える領主の敷地だった。

 越えるには絶対に不可能な高い城壁が、ぐるりと城を取り囲む。

 敵の進入を防ぐ高い壁も、奴隷たちにとっては絶望の象徴にしかすぎない。

 一度この城に足を踏み入れたなら最後、もはや二度と出ることは叶わないと。

 カイとエレナも肩を並べてその列にならい、休憩をとる暇も与えられずに仕事場へと連れて行かれた。

 女も男も、子どもも大人も関係なく、過酷な労働を強いられた。

 与えられた作業は城の側を流れる川沿いに、堤を作るというもの。

 重たい土嚢と切り崩した石を手で運び、何度もそれを往復する。

 わけもわからないまま、鞭を振るう監視人たち指示にしたがってひたすら働き続けた。

 疲れてその場に倒れると、監視人たちの持っている鞭に容赦なく打たれた。

 満足に食事もとることも出来ず、体力も気力も限界だった。

 それでも、カイは歯を食いしばって働いた。

 とうに陽が沈み、あたりに闇が落ち始めても仕事は続いた。

 そうして、ようやくその日の作業を終え、奴隷たちの寝泊まりする小屋へ戻ったのは深夜を回っていた。

 すえた匂いが充満するその小屋に、何十人もの奴隷たちが疲れ果てた様子で地べたに寝そべっている。

 部屋の中には何もない。

 寒さをしのぐ寝具すらも。

 カイとエレナは部屋の片隅に座り、身を寄せ合った。

 極度の疲労もあってか、言葉を交わす間もなくたちまち深い眠りへと落ちていった。



 ◇



 翌朝になって朝食が配られた。

 扉の入り口で二人の監視人がパンを放り投げ、木の器に水をそそぐ。

 小屋の中の奴隷たちは我先にとパンを拾い、水の入った木の器を手に、すぐに部屋の隅へと逃げていく。そして、凄まじい勢いで平らげていくのだ。

 まるでこのパンは、誰にも渡さないとでもいうかのように。

 彼らの奇妙な行動に訝しむカイだが、すぐにその理由を知る。

 突然、ひとりの大柄な男が不満をもらし始めたのだ。


「なんでその小娘と俺のパンの大きさが同じなんだよ。体格だって働く量だって違うんだぜ!」


 男は大股でエレナの元に歩み寄り、強引にパンを奪おうと手を伸ばす。


「やめろ!」


 伸びてきた男の手を払いのけ、カイはエレナを背後に庇った。だが、それも虚しく男の振りおろしたこぶしによって頬を殴られ、呆気なく吹き飛ばされてしまう。

 殴られた拍子に、手にしていたパンまで男に奪われてしまった。

 呻き声をもらし、カイはそろりと顔を上げた。

 口の中に血の味が広がっていく。

 回りを見渡せば、みな表情の失った顔と虚ろな目でこちらを見つめているだけ。

 こんなところでも、弱者は強者にいたぶられなければならないのかと、カイは唇を強く噛んだ。


「新参者が! いいか、よく聞け。ここでは俺が一番偉いんだよ!」


 再びこぶしを振り上げた男の腕に、エレナが咄嗟にしがみついた。


「やめて! カイを殴らないで……あげるから、あたしのパンをあげるから!」


 男はにやりと笑い、エレナの頬を張る。


「がきが! 最初から素直に寄こせってんだ」


 男はエレナが差し出したパンをひったくると、回りを見渡し得意げな顔でかじりついた。


「カイ……」


 エレナに助け起こされ、カイは自分の不甲斐なさに首をうなだれた。

 ごめん、と何度も小声で呟くカイの目の前に、エレナはパンを差し出す。


「すぐに、半分ちぎって隠したの」


 しかし、カイはいらない、とうつむいたまま首を振った。

 エレナはかすかに口許に笑みを浮かべ、そのパンをさらに半分に割ってカイの手にそっと握らせた。

 カイの目に、涙が大きく盛り上がる。

 泣いている顔なんか見られたくないのに……。

 浮かんだ涙がこぼれ落ちそうになった瞬間、手を伸ばしてきたエレナに、頭ごと抱えられ、抱きしめられた。

 エレナの胸で、カイは肩を震わせて泣いた。

 殺されるかと思った恐怖。

 エレナを守りきれなかった自分の無力さ。

 母に見捨てられたという心の傷。

 それらすべてを涙にして吐き出した。

 握りしめた手を震わせる。

 喧嘩など今までしたこともなかった。

 腕に自信もないし、力があるわけでもない。

 性格だって、どちらかといえば、おとなしいほうだ。


 だけど──


 緩やかに顔を上げ、泣くのはこれで最後だと手の甲で涙を乱暴に拭った。

 赤く腫れているエレナの頬に、そっと手を添える。

 カイの瞳の奥に揺れるのは、決意の色。

 生き延びていくためには、今の自分を変えなければならない。

 たとえ、他人の物を奪ってでも。

 それが自分にできるだろうか。

 その覚悟があるだろうか。



 ◇



 それから、与えられるわずかなパンと水を必死で確保した。

 時には弱者から強引に奪い取ることもあった。

 良心の呵責はどこかに追いやった。

 すべては、自分たちが生き残るための手段だと言い聞かせて。


 強くなるんだ。

 もっと強く。

 エレナを守るために──



 ◇



 ここへ連れて来られ、四年の月日が流れようとしていた。

 多くの者が極度の過労と栄養失調、さらに、不衛生な環境の中で死んでいった。

 中には殺された者もいる。


 ここでは俺が一番偉いのだと威張っていたあの男も、二年前、病に倒れ呆気なく死んだ。けれど、いくらでも変わりはいるのだとばかりに、新しい奴隷がやってきた。

 ほんの少しも気を抜くことは許されなかった。

 他人に弱みを見せてはいけない。

 誰よりも強くなければいけない。

 そんな張り詰めた毎日の中、エレナと一緒にいられることだけが、カイにとって唯一の心の支えだった。


「カイ、流れ星よ。ほらまた」


 小屋の隅に横になったまま、格子の嵌められた窓から夜空を見上げ、エレナは指をさす。


「流れ星にお願いすると願いが叶うって聞いたことがあるわ。カイなら何を願う?」


 カイは口を閉ざしたままエレナの問いかけには答えなかった。

 否、答えられなかった。

 絶望しかないこの生活に、何を願おうというのか。

 しょせん叶わない願いなら、最初から希望など持たない方がいい。


「私ね、カイとずっと一緒にいられますようにってお願いしたの」


 カイは言葉を呑んでエレナを見る。

 心の隙間に、エレナの言葉が突き刺さる。


「俺もエレナとずっと……」


 伸ばされたエレナの手がそっと、自分の手に重ねられた。

 月明かりに映し出されたエレナの表情に思わずどきりとする。

 ふっと、視線をエレナの胸元に落として、カイは慌てて顔を横にそむけた。そうして、もう一度エレナの顔を見る。

 細く華奢な肩。

 なめらかな首筋。


 今まで意識したことなどなかった。

 すべては月明かりのせいであろうか。

 エレナがとてもきれいに見えた。


「カイ、どうしたの?」


 しかし、カイは何でもないと平静を装って首を振り、再び夜空に視線をさまよわせた。


 妨げるものも何もない開豁の空に無数の星が瞬く。

 もうすぐ夜明けを迎えるのだろう。

 月に寄り添いひときわ輝くあの星、天白星が、今宵はやけに明るすぎると思うのは気のせいか。


 まるで不吉な予兆を示しているようで、胸騒ぎを覚えた。


 そして、深夜。

 ざわざわとした異様な気配に気づき、カイとエレナは目を覚ました。


「扉が……開くぞ……」


 ひとりの男が、小屋の出入り口の扉に手をかけ、呟いていた。

 まさか、そんなことがあるわけがないと、別の男が扉を怖々と押し、背後を振り返ってみなの顔を見渡す。

 その場にいた者たちは信じられないと、互いに目を見合わせ、ごくりと唾を呑み込む。

 監視人が鍵をかけ忘れたのだ。


「逃げられる……」


 誰かがぽつりと呟いた。やがて、その声をきっかけとして、小屋全体の空気がざわりと震えた。


「俺たち、ここから逃げられるぞ」


「自由になれる」


「そうさ、俺たち故郷に帰れるんだ」


「し、しかし……逃亡がばれたら」


「この暗闇だ。見つかりやしねえよ」


「俺はこの機会を逃さないぜ」


 そう言って、男のひとりが扉から外へと抜けると、それに続き、またひとり、二人と外へと駆けだした。さらに、何人かのかたまりで、奴隷たちは転がるように小屋から飛び出して行く。

 カイも腰を浮かせた。が、エレナに腕を掴まれ引き止められる。


「エレナ! 俺たちも一緒に行こう。こんな機会はもうないかもしれない!」


 しかし、エレナは頑なに首を振るだけであった。


「どうして! 俺がエレナを守るから。だから、一緒に逃げよう!」


 自分の腕を握っていたエレナの手を、強引に引っ張ったその時であった。


「奴隷どもが逃げたぞ!」


 捕まえろ。

 絶対に逃がすな。

 大勢の監視人たちの声が響き、警告を促す笛が夜の静寂に響いた。

 カイは足をすくませ、腰が抜けたようにその場に座り込む。


「よかったな。あんたらも殺されるところだった。あいつら……逃げた奴らは二度と……生きて、ここへは戻っては来られない」


 隣で寝転んでいた男が、ぽつりと呟いた。



 ◇



 翌朝、逃げ出した奴隷たちは無惨な姿で戻ってきた。

 生きて帰ってきた者はひとりとしていない。

 もし、あの時自分もここから逃げ出していたら……と思うとカイは恐ろしさに震えた。

 引き止めてくれたエレナのおかげだ。と同時に、もはやここから逃げ出すことはできないのだと深く絶望する。

 そして、その日の朝は罰だと言って食事を抜かれた。

 奴隷たちは腹を空かせた状態で、過酷な労働に連れて行かれた。

 一日の労働が終わり小屋に戻っても食事は与えられなかった。

 みな死んだような顔で地面にうずくまり、肩を丸めている。

 ここにいる大勢の奴隷たちの命は、看守の気分によって生かされているのだ。

 その時であった。

 一匹のねずみが小屋の中を横切っていくのが視界に入った。

 奴隷たちはそろりと顔を上げ、ねずみの姿を目で追っている。

 ひとりの男がそろりと腰を浮かした。


「食い物だ」


 その言葉に、他の奴隷たちも目の色を変えた。


「捕まえろ!」


 数人の男たちが一匹のねずみを捕まえにかかる。


「捕まえたぞ!」


 彼らは捕まえたねずみを手で引き裂き、生のままその肉をむさぼり、骨についたほんの少しの肉まで食いつくようにしゃぶっていた。

 たった一匹の小さなねずみを数人の者で奪い合った。

 その光景からエレナは顔を背け、口元に手をあてた。

 込みあげる吐き気をこらえているのだろう。

 カイは無言でエレナの肩を強く引き寄せ抱いた。



 ◇



 その年は猛暑の続く厳しい夏であった。

 太陽の陽射しが過酷なまでに容赦なく照りつける。

 いつものように鞭をふるい、怒鳴りつける監視人たちの声もどこか遠くに聞こえると、カイはぼんやりと思った。

 体中が熱く、頭がぼうっとした。単調にただ前へ前へと進める足も、今日は鉛のように重い。そして、次の瞬間、視界が揺らぎカイはその場に倒れた。


「カイ!」


 倒れた自分に気づき、エレナがこちらに駆けてこようとするのが視界に入った。


「来ては……だめだ……」


 もしも悪い病気なら、エレナにうつしてしまうかもしれない。

 足早に近寄ってくる監視人の姿を目の端にとらえ、立ち上がろうとするが、足に力が入らない。

 容赦なく何度も鞭で打たれ、そのままカイは意識を手放した。


「お願い! カイを助けて。そのためなら私、何でもするから!」


 薄れていく意識の中、エレナの叫び声を聞く。



 ◇



 その夜、カイはいつもの小屋ではない、違う部屋で目を覚ました。

 知らない部屋だ。

 途切れた記憶を手繰ろうとするが、うまく思考が働かない。そこへ監視人の男がやってきた。


「まったく、おまえは運のいいやつだ」


 男の話によると、ここは城で働く下働きたちの部屋だという。

 だが何故、奴隷である自分がこんなところへと訝しむカイに、男は意味ありげな笑いを口許ににじませた。

 男の話は続く。

 倒れたカイを助けてと、エレナが偶然通りかかった領主にひざまづいて頼みこんだ。滅多に姿を見せない領主に会えたこともそうだが、何より、その領主がきまぐれにも、たかが奴隷如きの頼みを聞き入れたことは、まさに運がいいとしかいいようがないと。


 エレナは……エレナはどこにいる?


 カイの心を読み取ったのか、その男はにやりと口許を歪めて嗤った。


「あの小娘は、そのまま領主様に連れて行かれたさ。それがどういう意味かわかるだろ? その証拠に娘を引っ張り込んだまま、領主様は部屋から出てこないって話だ」


 エレナ……。


 カイは顔をゆがめエレナの名を呟く。

 ふと、窓の向こう夜の空を見やり、膝の上に置いた手を震わせた。

 夜空にひときわ明るく輝く星は天白星。

 その力強い瞬きは、まるで自分に呼びかけているようだった。

 あきらめてはいけない。

 運命は絶対ではない。

 この逆境を乗り越えてみせろ……と。

 そして、カイは目の前の男の腰の剣にちらりと視線を走らせた。

 胸の鼓動が早鐘のように響き、流れる血が脈打った。

 自分のどこにこんな力が秘められていたのだろう、ただエレナを救いたいという強い思いが何よりも勝った。

 城内に飛び込み、向かい来る兵士たちを相手に、奪った剣をひらめかせた。

 飛び散る血は相手のものか、それとも自分のものか。もはや、それすらもわからなかった。


「エレナはどこにいる!」


 脅えて腰を抜かす下働きの女の胸ぐらを掴み、エレナの居場所を問いつめる。

 領主の部屋。

 二階の奥。

 階段の踊り場まで登ったところで、カイは背後を振り返りざま、階段を灯すランプを叩き落とした。

 たちまち炎に遮られて、兵士たちは立ち往生する。

 これで誰も追ってくる者はいないだろう。けれど、自分たちの逃げ場も失ってしまった。

 最後の階段を踏みしめた瞬間、足下がぐらりとよろめいた。

 手すりに手を伸ばしてしがみつき、崩れそうになる身体を立て直す。

 ここで倒れてしまっては、きっと、二度と立ち上がれない。

 視界がかすみ、手足が冷い。

 まだだ。

 エレナを救うまで倒れるわけにはいかない。

 カイはぎりっと奥歯を噛んだ。

 力を振り絞り、奥へと続く暗い廊下を駆けた。

 幸運なことに、人払いをしているのか、扉の前に人の姿はなかった。

 重厚な作りの扉を押し開け、カイは部屋の中に身を滑り込ませる。すぐに扉を閉め腰を落として身構えた。

 部屋の正面、テラスへと続く窓から、月明かりが差し込むだけの薄暗い部屋。

 カイは目を凝らし、注意深く辺りを見渡す。

 人の気配はなくしんと静まりかえっている。

 聞こえるのは、自分の荒い息づかいだけ。

 ここではなかったのか……という不安と焦燥が胸を過ぎる。ふと、右側にさらに奥へと続く部屋があることに気づく。その扉の隙間から、わずかな灯りが漏れている。

 カイはその扉に向かって走った。

 間違いなくエレナはあの扉の向こうにいると、カイの直感が告げた。


「エレナ!」


 体当たりするように扉を開け放ったカイの目に飛び込んだのは──

 薄ものの衣装をまとい、寝台に横たわるエレナの姿と、そのエレナにのしかかっている全裸の領主だった。



 ◇



 家畜小屋にいる豚を思わせた。

 不健康なまでの白い肌に、幾重にも弛んだ腹。太りすぎて尻も股も肉割れの筋をおこしている。

 この男が領主だというのか。

 こんな奴に今までさんさん辛い目にあわされてきたのか。

 カイはまなじりをつり上げた。

 その領主の手がエレナの裾をめくり腿を撫でていた。


「な、なんだおまえは!」


「カイ!」


 エレナと領主は同時に叫ぶ。

 突然の侵入者にお愉しみを邪魔された領主は、顔を怒気色に染め声を荒げたが、現れたのが凄まじい形相と全身血まみれのカイの姿に驚き口をぱくぱくとさせていた。

 カイの澄んだ空色の瞳が刃のごとき凄絶な光を放つ。

 込みあげる怒りに血が逆流した。


「よくも……」


 カイは思いっきり側の壁を手のひらで叩いた。

 白い壁に血で汚れたカイの手のあとがつく。

 許さない。

 絶対に許さない。

 剣を握りしめなおし、カイは領主の元へと走った。


「な、な……な……」


 慌てふためく領主の髪を背後から掴む。

 締まりのない身体を仰け反らせ、領主は情けない悲鳴をもらし手をばたつかせる。

 驚愕に見開かれた目には涙が浮かんでいた。


「ひっ! やめ……やめて……」


 情けない悲鳴をあげる領主の首すじに、カイは剣を強く押しあて、躊躇うことなく一気に横にひいた。

 耳障りな豚の絶叫が部屋に響き渡る。

 飛び散る血がシーツに、そしてエレナの顔に降りかかり、力を失った領主の身体がエレナの上にごろりと倒れ込む。


「どけ! エレナからどけ! 貴様の汚い血でエレナを汚すな!」


 息絶えた肉の塊を何度も何度も足で蹴る。

 領主の体がごろりと寝台から落ちたと同時に、カイの手から握りしめていた剣が落ちた。

 兵士と剣を交え、自分もただではすまなかった。

 傷ついた身体から血が流れ、シーツに赤いしみをてんてんと落としていく。

 不思議と痛みはなかった。けれど、心が悲鳴を上げていた。

 領主殺しは重罪だ。

 いや、その前に目前に迫る業火の海に飲み込まれてしまうだろう。


「俺……」


 カイは肩を震わせ、血に濡れた自分の手のひらを見つめる。

 初めて人を殺した。

 この手で……たくさんの人を。


「カイ……」


 そっと呼びかけるエレナの声に、カイはおそるおそる顔を上げた。

 エレナの手が乱れたカイの髪をすき頬をなでる。そして、血に汚れるのもかまわず、細い指をカイの指に絡ませた。

 顔を近づけるエレナの髪からいい匂いが漂い、血の臭気をかき消す。


「カイ……ありがとう。またカイに会えて私、嬉しかった」


 私のせいでごめんなさい……と、呟くエレナの目から、ひとしずくの涙がこぼれ落ち白い頬を濡らした。


「カイと一緒なら……私、死ぬのは怖くない」


 静かに微笑みを浮かべ、エレナはそっとカイの胸に頭を寄り添えた。ふと、カイはエレナが泣いたところを今まで見たことがないと今さらながらに気づく。

 初めて見るエレナの涙だった。


「エレナ……」


 その微笑みに、エレナに支えられ続けていたのは自分の方。

 初めて出会った時、汚れた俺の顔をぼろぼろの布で拭ってくれた小さな手。

 ここへ来て、屈強な男に殴られ落ち込んでいた俺を抱きしめてくれた細い腕。

 星を見上げながら、俺とずっと一緒にいたいと言ってくれたあの時の言葉。

 あの夜、初めてエレナを意識した。

 寒さの中、身を寄せ合い、夜を過ごした日々。

 倒れた自分を救ってくれたのもエレナだ。

 カイはエレナの身体を強くかき抱いた。応じるようにエレナの両腕が背中に回された。

 泣くのをこらえるように、カイは唇をきつく噛む。


 この先、君を守るためなら俺はどんなことでもする。

 悲しみで君の瞳を曇らせたりはしない。

 二度と涙を流させたりはしない。

 ずっと、君の側にいると誓う。

 そのために、俺はもっと強くなる。

 だから……。


「まだ……」


 カイは絞り出すように言った。

 そう、まだ望みを捨ててはいけない。

 こんなところで死んでいいはずがない。

 何があっても必ず生き延びてみせる。

 カイはエレナの手を引きバルコニーへと走った。

 手すりの下は切りたった崖。

 眼下を見下ろすが暗闇で何も見えず、ただ崖下を流れる川の濁流音が聞こえるだけであった。

 もはや、逃げ道はここしかない。

 カイはエレナの腰の帯紐を抜き取り、エレナの右手と自分の左手を、右手と歯を使って何重にもきつく縛った。そして、大きく夜空に輝く天白星を仰ぎ見る。

 俺は俺の星を動かしてみせる。

 カイの決意に答えるかのように、あの星が瞬いて見えたのは気のせいか。


「奇跡を信じよう」


 何も言わず何も聞かず、恐れも不安もみせず、エレナはただ小さく頷いた。

 それを合図に、二人はバルコニーから崖下へと飛び込んだ。



 ◇



 カイはゆっくりとまぶたを開いた。

 目に映ったのは、暁に染まり始める東の空。

 夜明けとともに薄れていく星々。その中で、ひときわ明るく力強く輝く星に目を奪われる。

 そっと左手を動かすと、応じるように、絡まったエレナの指もぴくりと動く。

 何があっても絶対に離れないと二人を結びつけた一本の細い紐は、濁流の中でも引きちぎれることなく、少しも緩むこともなく、しっかりと繋がっていた。

 手首に食い込むその痛みは大切な人が確かに側にいるという証。

 そして、生きているという証拠。

 二人は互いに絡んだ指を強く握り微笑んだ。

 カイはもう片方の手で、明るい星をつかみ取るように手を空へと伸ばす。


 星の紛れの旅立ちの朝。

 運命は絶対に非ず。

 未来を己の手で切り開け。

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