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リア充にチョコをあげたらリア獣になるという事実?

作者: 黒六

バレンタイン直前のレストランでの一騒動です。

「高津! テメエ何やってやがる!」

「ああ…すまん…」

「すまんで済んだら世界はもっと平和だろうよ! テメエは一体何回同じ間違いすりゃ気が済むんだよ!」

「ああ…すまん…」


 朝っぱらからこんなに声を荒げるのは久しぶりだ。

 早番の連中がびくびくしてやがる。

 だが、こんな気分にさせる高津に文句を言え!


「ったく! もういいから仕込みに入れ! それから、お前はしばらくサブに回れ!」

「な! ちょっと待て! それは…」

「料・理・長・命・令・だ! 今のお前にはリーダーは任せられん! 日吉ヨッさん、悪いけど仕切ってくれ」


 俺よりも一回り以上年上の日吉さんが表情を変えずに頷く。

 日吉さんは高津の前任のデザート部門のリーダーだ。

 和洋中の甘味をこなす凄腕なんだが、どういうわけか洋菓子に重点を置く高津を後任に指名してサブに回った。

 理由を聞いても教えてもらえなかったが…


「…材料の指定はあるのか? 桜料理長」

「好きにしていい。今日のコースのメインは牛フィレの赤ワインソースだから、被らないようにしてくれ」

「…了解」


 日吉さんはこういった受けの広さが強みだ。

 メインの味に被らずに、かといって料理の余韻を壊さずに味を構成してくれる。

 一通りのコースメニューを説明すると、大まかな味の構想が出来たらしい。


「…仕入れに洋梨を追加してくれ。それから、メインからデザートまでは最低でも15分はくれ」

「ああ、任せろ。それじゃ、今日のミーティングは終了だ。仕込みに入ってくれ!」


 毎朝の打ち合わせが終わり、俺たちは各自持ち場に散る。

 高津は何か言いたそうな顔をしていたが、日吉さんに窘められて持ち場に戻っていく。

 全く、あいつは昔から全然変わってねぇじゃねーか。


「先輩、高津さんどうしたんすか?」

「お前も昨夜のデザート見たろ? あんな出来のもの出しやがった」

「ああ、あれは無いっすね」


 思い出しても腹が立つ。

 昨夜のアレはうちのホテルの汚点になりかねない。

 

「あの『イチゴのムース』のイチゴの質は最悪だった。あんな味も素っ気もないイチゴをよく探し出したもんだよ!」

「でも、高津さんは仕入れチェックしてましたよ?」

「だから問題なんだろうが! 高津もそうだが仕入れ担当も問題ありなんだよ」

「でも、どうしてなんすかね?」

「今はそんなこと話してる時間はねぇ。後で話してやるから、仕込みに集中しろ!」


 まだまだ話を聞きたそうな溝口をスープの鍋へと押しやり、仕入れた材料のチェックに入る。

 まだ朝一で聞かされた支配人の説教が頭の中を巡ってる。


『私の顔に泥を塗るつもりですか』


 別にあんたの顔のために料理を作ってるわけじゃない。

 客のためと、俺の生活のためだ。

 主に俺の生活だが。


 





「で、高津さんはどうしたんすか?」


 早番がランチの準備を始めたので、一時的に仕込みを中止して厨房を明け渡す。

 その間に俺たちは昼食を摂る。

 いつもはランチの試食も兼ねてるんだが、今日はちょっとばかりワケありで外に食べに出ている。

 もちろん、試食は他の人間に任せている。

 出来上がりは食べてないが、仕込み途中で味を確認してるから、そう間違った味にはならないはずだ。


 

 ホテルから少し離れた和食の店で昼食をとりながら、溝口が聞いてきた。

 何故こいつがここにいるのかというと、俺は出来るだけ若手を連れて食べ歩くことにしてる。

 美味い飯を食うことも料理人の勉強だからだ。


「あれは高津に原因があるんだよ」

「…てことは、他にも原因があるんすか? もしかして、綱島さんすか?」

「ああ、でももう1人・・・・いるけどな」


 親子丼を掻き込みながら喋る溝口。

 口に物を入れたまま喋るな。


「もう1人って…誰っすか?」


 これを言っていいものか迷うが…仕事に影響が出てる以上、隠すのは無理だろうな

 

「仕入れ担当の丸子だよ」

「うわー…あの・・マルコさんすか…」


 溝口が露骨に嫌な顔をする。

 仕入れ担当の丸子は…早い話が女たらしのイケメンだ。

 まるでイタリア人のような恋愛感覚の持ち主なので、俺たちはマルコと呼んでいる。

 

 ただ、トラブルを防ぐために、レストラン関係者には一切手出ししないようにしておいたんだが…


「今度のバレンタイン、ディナーのデザートにチョコのデザートを出すことになったのは知ってるな?」

「高津さんが張り切ってたっすね」

「あれのおかげで綱島を相手に出来なかったらしくてな…」

「…まさか綱島さん、マルコさんと?」

「ああ、それがわかったのは昨日高津を問い詰めた時だがな。マルコに関しては既に辞表を置いていった。綱島は…自宅謹慎させてる」

「そうっすよね…マルコさんのことは通達出てましたから…女性陣だけにっすけど」


 マルコは元々、女癖が悪くて各部署で問題を起こしてた。

 どうしてもと泣きつくので、最後のチャンスとして許した。

 その条件として、会社の女には手を出すなと厳命してあった。

 そしてレストランの女性陣には、マルコの手癖の悪さを通達しておいた。

 もし手出しした場合は会社として処罰する旨も添えて。

 

「しかも…だ、マルコの奴、綱島を完全に落とせなかったらしくてな、その腹いせに、イチゴの質を落としやがったんだよ!」

「…それで、寝取られた高津さんはショックで仕入れのチェックが疎かになったってことっすね…」


 俺が怒りをぶちまけると、溝口は合点がいったような顔をした。

 別に俺は恋愛を禁止するつもりはない。

 だが、上手くいかないときが問題なんだよ。

 精神の乱れは確実に味に出る。

 ましてや繊細なデザートとなれば、それは如実に現れる。

 おまけにマルコのふざけた置き土産ときた。

 何よりも、俺たちのコース料理を台無しにしたことが許せん!




「でも、綱島さんもなんでマルコさんなんかを…」

「お前は知らなかったんだな、綱島の男癖の悪さを…」


 綱島はビッチだ。

 見た目は清楚な御嬢様風だから騙される男も多かった。

 高津もその一人だったんだが…


 見た目のいい男はほとんど狙われる。

 俺と先代の料理長が厳しく言ったので収まっていたんだが、高津との仲がぎくしゃくしたことで歯止めがきかなくなったんだろう。


「見た目のいい男はほとんどが狙われた。ここで働いてる奴は相手にしなかったがな」

「高津さんはそのことを知ってたんすか?」

「ああ、『俺が最後の男になってやる!』とか息巻いてたよ」


 で、結局はこの様だ…

 一応、後で綱島にも話を聞いておかなきゃならん。

 事は簡単に済むことじゃない。

 もし、あのデザートが原因で業績が落ちれば、会社として法的手段も考えなくてはいけない。

 そのために釘をさしておいたんだからな。



「綱島にも後で事情を聞く予定だがな」

「…なんで待てないんすかね、自分の好きな男が頑張ってるのに…」


 溝口がぽつりと零す。

 こいつも一応は女だからな…何か思うところがあるんだろう。

 その相手が誰かは知らないが…


「ほら、おしゃべりはそろそろ終りだ。午後の仕込みに戻るぞ」

「了解っす。いつもゴチになるっす。今度カラダで返すっす」

「ああ、お前が新メニューを考えるくらいに上達して、ブラのカップサイズを2つ以上上げられたら考えとく」


 俺が勉強させるために連れ出してるんだし、俺が払うのは当然だろう。

 こいつも女だてらに戦場みたいな厨房で働いてるんだし、こういうところで労ってやらないとな…

 ま、コイツのカラダで支払ってもらうことは永遠に来ないと思うが。

 コイツとトリガラを並べたら、トリガラのほうが色気ありそうだし。








「料理長…ちょっといいですか?」 


 ディナーの仕込みがひと段落したところで、フロアチーフが声をかけてきた。

 何かと思って話を聞くと…なるほど、そういうことか…


 俺は手近にあった材料で手早く一品作ると、日吉さんに一言伝言して厨房を出た。

 向かった先は会議室。

 とはいっても、メニュー決定の時くらいしか使わないが。

 後は時々、部下の面接に使ってる。

 そして今回の目的は間違いなく後者なんだよな…


 一瞬躊躇したが、このままにしておくわけにもいかないのでドアを開ける。

 会議室にいたのは……………綱島だった。









「…すみませんでした…本当に…」


 深々と頭を下げる綱島。

 こいつはビッチだが、それ以外は真面目な常識人だ。

 自分が発端になった問題に押し潰されそうなんだろう。

 いつもはもうちょっとラフな格好なんだが、今日はリクルートスーツだ。

 しかも、その顔はまともにメイクも乗っておらずにかなりやつれた感じさえある。


「…お前、ちゃんと食ってんのか?」

「いえ…あまり…」


 俯いたままで返事をする綱島。

 だいたい何を考えているかは分かるが、そんなことで仕事場を混乱させるつもりはない。


「…あ、あの、私………解雇クビですよね…」

「…今回は丸子がお前に無理矢理関係を迫ったんだろう? それを断られた腹いせに高津に嫌がらせをしたんだろう?」

「そ、それは…」


 おそらく綱島は責任を取って辞めるつもりだったんだろう。

 だが、綱島が抜けてはフロアが回らない。

 こいつは次期フロアチーフの逸材だからな。


「お前がどうなのかは知らん。ただ、丸子に関しては懲戒解雇だ。場合によっては法的手段も考えてる。これは俺から丸子に伝えてある」


 丸子にはしっかりと釘を刺しておいた。


 

『民事で賠償請求するかもしれないからな』


 電話でそう伝えると、今後一切綱島にも高津にも、ひいては会社に対しても一切関わらないと確約させた。

 もちろんICレコーダーで録音もしてある。


「お前達にも今後一切の手出しはさせん。何かあれば数千万、いや、場合によっては億の賠償請求があいつに向かう。あの小物がそこまでのリスクを冒すと思うか?」

「いいえ、思いません」


 綱島の表情が少し和らぐ。

 すると、綱島はぽつりぽつりと話し始めた。






 事の発端は丸子の方かららしい。

 元々は丸子は綱島を狙っていたが、仕事には真面目な綱島は全く相手にしなかったらしい。

 ところが、綱島は高津と付き合い始めた。

 それが丸子には面白くなかった。

 

 きっかけは高津がバレンタインデザートを任されたことだった。

 メニュー開発のために残業が多くなり、高津も構ってやることが出来なくなった。

 元々男に依存しやすいタイプの綱島は、高津のことを想う気持ちに揺らぎが生じた。

 そこを目聡くみつけたのが丸子だったってわけだ。


 全く…仕事はそこそこのくせに、そういう目利きは一流ってのが腹が立つ。


 で、偶々綱島の自宅でアレコレしてたところを高津が訪ねてしまったということだ。

 高津はあれで結構女々しい奴だから、捨てられたと思い込んでる。


 全く…何で彼女すらいない俺が他の奴の仲を取り持ってやらなきゃならんのだ…


「…本当に…すみませんでした…」


 涙声で謝罪する綱島。

 きっと今日まで何も食べてなかったんじゃないか?

 声がかすれている。

 この不景気なご時世に解雇される不安…どれだけ擦れ減らしたことか…


「とにかく、食べて元気出せ。ほら、これでも食え」


 俺は綱島の前にサンドイッチを出す。

 今日のメインの試食で残った牛フィレの赤ワインソースとサラダを挟んだシンプルなものだが、今日もいい出来だったからこのサンドイッチも美味いはずだ。


「…美味しい…です…」


 泣きながらサンドイッチを食べる綱島。


「お前の解雇はない。責任も問わない。もしお前が責任を感じてるんなら、その分を高津に向けてやれ。今のあいつは使い物にならん」

「で、でも…今更…」


 はあ…こいつはビッチのくせに一途とか…

 そういうギャップも高津には堪らないんだろうが…


「それなら、明日ここでデザート部門のメニュー会議がある。わざとドアを少し開けとくから、高津の様子を見ておけ。フロアチーフには話を通しておくから」

「…はい」

「全く…俺はただの料理長なんだから、痴話喧嘩の収めなんてさせんな!」



 結局、今日はそのまま帰した。

 俺が溜息をついてると、溝口がやってきた。


「さっき、綱島さん来てたっすよね?」

「ああ、全く…何で彼女のいない俺が他人のヨリを戻さなきゃならないんだよ…」

「それだけ信頼されてるっすよ…頼りになるっすから…」

「そりゃ、料理長だからな」



 全く…そんなに頼られても困るんだよ…

 俺には頼れる奴もいないんだから…


「でも…先輩は一人なんすよね…そんならアタシが…」

「ん? 何か言ったか?」

「…何でもないっす!」


 何とか思考をメニューのことに切り替えた俺は、溝口が何か呟いたのを聞き逃してしまった。










 翌日、会議室にてデザートメニューの試食が行われた。

 メインはもちろん、高津のバレンタインメニューだ。


 しかし…



「何だよ、この甘いだけのは! 素材が死んでるだろう!」

「…お前は今まで何を勉強してきたんだ?」

「こんなものを出されたら…うちの信頼に泥を塗るつもりですか!」


 俺、日吉さん、支配人の罵詈雑言が響く。

 新メニュー開発の際に必ず行われる試食会だが、実際は『処刑場』と言われていたりする。

 失敗作はそのまま『処刑』されて日の目を見ることはない。

 俺も若手の頃は何度も悔しい思いをした。

 自分の料理を酷評されて平気な料理人がいたら、そいつは料理人を名乗る資格はない。

 自分が必死に考え、悩みぬいた時間が全て無駄と判断されるんだ。

 それを悔しくないなんて俺は信じられない。

 俺の時は、前任の料理長を夜道で襲ってやろうかと思ったくらいだ。

 …実際にはやってないけど。



 ふと扉を見ると、綱島が控えめに覗いていた。

 …何でそこに溝口がいるんだ…

 …あとであいつにも新メニューを考えさせよう。


 よく目を凝らして見ると、綱島は泣いていた。

 それもそうだろう、自分の彼氏がこんな罵詈雑言を浴びながらも必死に悩んでいる間、自分は丸子と乳繰り合っていたんだからな。

 


 それから10分ほどで、高津の用意した料理の『処刑』は終了した。

 綱島は高津に見つからないように別室にしてもらっている。

 

「高津…お前、それほどなのか?」

「…ああ、あいつしか考えられない。他の女なんざクソみたいなもんだ」


 全く…本当に…どうしてこんなことしなきゃいけないんだろうか…

 頼むから料理に専念させてくれよ…

 俺だって新メニュー考えたりしなきゃいけないんだぞ?


 高津が会議室を出ていってから、日吉さんと支配人が話しかけてきた。


「で、どうなんだ? 元に戻りそうか?」

「これ以上、余計なトラブルは勘弁してもらいたいんですが…」

「綱島は…高津がトドメをくれてやれば落ち着くだろ。丸子のほうも賠償の話を出したら急に弱気になりやがった。これで何とか落ち着くだろ」


 綱島に関しては、さっきの高津の言葉を聞かせれば問題ないし、丸子についてはそれこそ奴に完全に非がある。

 それを無理に押し通るほどの度胸はない。

 

「バレンタインのメニュー、どうするつもりだ?」

「ああ、高津で行く。あいつの実力は…日吉さんも解ってるんだろ?」

「…あいつは精神面が弱いんだ。だが、今回の結末次第では化けると思ってる」

「…先行投資ですか…そういうことは私の耳にも入れておいて欲しかったんですが。まあいいでしょう、結果を期待していますよ」


 それだけ言って、支配人は出て行った。

 あの人は結果さえ出せれば文句言わない人だからな…

 でも、失敗すれば後がない。

 正念場だぞ、高津…





 別室に行くと、泣いている綱島がいた。

 溝口が慰めている。


「溝口、ちょっとコーヒー淹れてこい」

「あ、はい…」


 溝口が出て行ったのを確認すると、綱島に向き合う。


「…高津の野郎、お前以外の女はクソだってよ」

「…高津さん…そんな…」


 綱島が感極まったようで、ぽろぽろと大粒の涙を零し始めた。

 

「とりあえず、高津を信じてやれ。あいつは料理に関しては妥協を知らないからな、女の扱いに慣れてないんだよ。その分、お前に支えてもらいたい。あいつの実力を発揮させてやってくれ」


 俺は綱島に頭を下げる。

 高津は腐れ縁だが、親友だ。

 腕前は俺が一番良く知っている。

 こんなところで潰れていい奴じゃない。

 そのためなら、ここで綱島に頭を下げるくらいどうってことない。


「そ、そんな…やめてください! 私は迷惑をかけた側なんですから…」

「これは高津の上司として、それから親友としての頼みだ。頭くらいいくらでも下げる」


 綱島は呆然としている。

 こんな経験はしたことないのかもしれない。


「…私、高津くんじゃなくて料理長にすればよかった…」

「あー、そういうのは当分間に合ってるから。それに俺は高津以上に料理馬鹿だからな?」

「…ずるいですね、こんなに頼りがいがあるのに…」

「俺は料理の味を最優先してるからな」


 綱島が怪しい雰囲気を出し始めたので、釘を刺しておいた。

 一瞬だが、その豊満な胸に視線が向いてしまったのは内緒だ。


「それから、高津にチョコをやるならバレンタイン前にしとけよ? 当日は厨房なかフロアそともイブ並の忙しさだからな。もうディナーの予約はキャンセル待ちが出てる」

「で、でも…専門家の高津くんにどんなチョコをあげれば…」

「…その立派な『マシュマロ』にチョコでも塗ってやれば、喜んで舐めるぞ」

「やだ、何言ってるんですか!」


 その立派な胸を両腕で隠すようにする綱島。

 はいはい、ごちそうさん。

 それはしっかりと高津に味あわせてやってくれよ?


「それじゃ、俺は仕込みに戻るから。高津は今日は早めに上がらせるから、夜にでもきちんと話をしろよ?」

「…はい、ありがとうございます」


 綱島が深々と頭を下げてくる。

 さて、これで仕込みに専念できそうだ…









「あれ? 先輩はどうしたっすか?」

「料理長なら仕込みに戻ったわよ」


 綱島さんはだいぶ落ち着いた様子でそう言ってきた。

 アタシからコーヒーを受け取ると、その味に顔を綻ばせた。


「これ、美味しい」

「日吉さんの渾身のコーヒーっすよ、客室で飲めば高いっす」


 スイーツの達人の日吉さんが淹れたコーヒーだから、不味いわけない。

 先輩に言われたって言ったら、すぐに淹れてくれた。

 2人でコーヒーを飲むと、無言の時間が流れる。




「…私、高津くんから料理長に乗り換えちゃおうかな」

「ぶふっ! な、何言ってるんすか!」


 綱島さんがいきなりとんでもないことを言い出した。

 思わずアタシはコーヒーを噴出した。

 何を言い出すんだ、この人は!


「さっきも誘ったんだけど…拒否されちゃった」

「そりゃそうっすよ。先輩は料理の邪魔する奴は嫌いっすから」

「でも、溝口みぞぐっちゃんよりは可能性あるんじゃない?」


 綱島さんはその豊満な胸を強調させながら、アタシの顔を見てくる。

 先輩が大きな胸が好きって確信してるな、これは…

 ふん、もげてしまえばいい…


「ご心配なく。アタシももっと大きくなる予定っすから」

「冗談よ、それにしても、溝口ちゃんも大変でしょ? あの料理長相手じゃ」


 この人、アタシが先輩のことを好きだって知ってる…

 でも、この人は先輩のことをわかってない。

 こんな人に先輩がなびくことなんてありえない。


「全然平気っすよ。問題ないっす」

「でも、好きな人が悩んでいるときに…力になれないのは…悲しいわよ?」


 多分、高津さんのことを言っているんだろうけど…

 アタシはそんなへまはしない。


「だから、先輩の下で働いてるんじゃないっすか」

「どういうこと?」


 アタシは一呼吸おいて、自信たっぷりに答えた。


「先輩が苦しい時、一番近くで支えられるっすから…」











「高津! 6番テーブルのデザート行くぞ!」

「了解! 今準備してる!」


 俺の指示に高津が自信たっぷりに返事してくる。


「料理長! 3番のメインがそろそろ終わります! それから8番も!」

「おう、6番のデザートが出るからカートの準備よろしく!」


 綱島がコースの進み具合を逐一報告してくる。

 俺はそれに合わせて料理の段取りを進める。

 メインはほぼ予定通りに終了したので、あとは流れをきっちりと管理すればいいだけだ。


「…それにしても、高津は見事だったな」

「ああ、よくやってくれたよ」


 日吉さんが感心したように言う。

 高津が用意したバレンタインデザートは、半分凍らせたフルーツに自分でチョコレートソースをかけるというものだ。

 凍らせたフルーツによってチョコが固まり、食感の違いが楽しめた。

 最も優れものなのは、これを客の女性が最後の仕上げをするというものだ。

 手作りチョコが無理な女性でも、ソースをかけるくらいなら出来る。

 忙しそうに準備を進める高津の顔は、自信に満ち溢れていた。



 そして翌日、高津と綱島が俺の前にやってきた。

 

「俺たち、結婚する」


 いきなりの衝撃発言だったが、俺は想像していた通りだった。

 というのも、バレンタインデザートが決定したとき、高津がこのアイディアに思い至ったきっかけを教えてくれたからだ。


「いや、アイツがな…チョコを自分に塗って…それで思いついたんだ」


 まさか本当にやるとは思わなかったが…

 でも、高津には十分すぎるほどに効果のあるチョコだったようだ。

 これでまた一組の『リア獣』のつがいが生まれたということだ。




「おう、おめでとう。これでお前らも落ち着くだろ」

「ああ、次はお前の番だぞ?」

「ははは、俺には当分、そんな話はないから安心しろ」


 笑いながら高津に言い返す俺。

 








 だが、この時の俺は想像もしていなかった。










「どうっすか…アタシの『チョコマシュマロ』は…」


 翌年、綱島をも凌駕するほどに成長した溝口の『マシュマロ』にチョコが塗られる瞬間を間近で見ることになるということを…










「まだまだおかわりしてもいいっすよ?」


 その『チョコマシュマロ』をむさぼる『リア獣』と化した俺がいることを…









「アタシも…頂いちゃうっすよ…」


 俺以上に獰猛な『リア獣』と化した溝口にひたすら蹂躙されてしまうことを…

さて、次のイベントはホワイトデーでしょうか…

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― 新着の感想 ―
[良い点] 大人の事情と仕事の事情。そんな厄介なしがらみがいくつも重なって面白くなっていますね。 [気になる点] お腹がいたくなりますな…… [一言] ハッピーエンド万歳!  でも綱島さんが浮気して離…
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