塔への供物
月下装飾の嵐は少女の脳髄を犯し、彼女に尖塔に歩みを続けさせた。いうなれば牽強付会の理論ではあるが、それは脳震盪の罪悪よりはましなのだろう。死は誰にも降りかかる根源なる悪意である。黎明は永劫にやってこない。本能的に怖れるべき鎌。振り下ろされ、そして息絶える。無になる変化。――その死を司る場所こそ少女が今いるこの塔である。猛毒を飲むより恐ろしい、ここは天へ昇る聖遺骸。同時に生贄を殺す処刑場であり儀式の為の危険区域。壟断に立つ建造物、隔離塔である。その塔は草莽に周囲を支配された台地にひっそりと佇んでいる。闇の午睡へ空へ伸びる一本の筋。龍の彫り物の如しその複雑な石造りの柱。彼女は入塔した。中身は伽藍堂だ。終焉が手招きする。
ただ捧げられる身であった彼女は群衆の生贄である。崇拝対象の神と言う名のトークンは彼女に死刑を命じた。彼女には何の罪悪も持ちはしない。だからこそ命じられた。処女であるゆえに聖女なのだ。多数決のある種停止的な決定は彼女の命を掘削し消失させる。数時間前、彼女は村に訣れを言った。逃げることはできない。呪術師の監視があるからである。彼らは供犠が聖塔に侵入する時空を見ているからである。少女は全身スティグマで覆われている。もちろん村の刺青師によって彫刻された。手足、胴体、そして顔の芸術的な紋様と引き換えに彼女は片目は匙によって抉られた。片耳は火掻き棒で焼かれた。左手の指は鋏で切断された。これから死ぬ運命にあるため生存における必要最低限の器官を残し少女は身体の殆どの部位を失った。彼女は欠損人形となった。奸佞なる雷の降る銃身としてのその軀。文字通り避雷針としての役割だ。フリークス的な少女は「ざまあみろ」と一言呟いて階段を昇る。その言葉に意味はない。あえて言うなれば、今まで自分が生存してきた邪悪世界への侮辱であろうか。もしくは身代わりの羊となった自身への贖罪かもしれない。敵愾心はない。生物的疼痛が彼女を襲う。それを否定するための脳内麻薬によって彼女の蹠は地面にしっかりと立っておらず、茨路を踏む痛みが常に彼女を苦しめる。幻視、幻覚の類も感じる。「さっさと死ね」と悪魔は言う。
DNA配列に似た螺旋をその小さな白い足でカッカッと音を立てる。少女は塔の天辺に何があるかは知らない。すべては有害電波の命令の通りだった。無言で歩く彼女は矮躯である。だがその佇まいは誇り高い。聖少女と呼称することもできるだろう。花車な軀を動かし止血したようなその青白い肌に窓から射した微かに月光が反射している。床に泥水が溜まり、その底にはヘドロが沈んでいる。少女はそれを飛び越える。ピシャッと飛び散る汚水は彼女を飾る礼服に移る。彼女の概念を傷つけるその穢れはただ付着し、攪乱し擾乱し戒律を破る。破戒した少女は塔を巡り礼賛する。幸福など感じはしない。廃墟となったその歴史の残骸は天に聳え、その硝子は曇る。静謐だけが肯定される。異教のために建造されたことから、精神の接続から排され暗黒の虚無へと殉教しつつある。地底のような息苦しさが荒廃した内部を感じさせる。
「――――ぁ」少女の眼前に何かがある。いや、「いる」とした方が正確だ。黒い湖水の中を思い浮かべさせる漆黒に誰かいた。金属で製造されている箱の中。薄い龍涎香を感知できる。くすんだ鉱。空の薬瓶がいくつか転がっている。洗脳されたようなその少女は鉄柵に囲繞された檻に手を伸ばし、その中に幽閉された少年を見つける。その少年はある遠方の王子である。彼は数カ月前にこの塔に放置され捧げられた。そしてそのままただ一人その塔の住人となった。少女の使命と同様な務めがあったに違いない。だが、彼は怠った。責任を放棄した。斃れずにそのまま生存しているのだ。その罰として徹底的な孤独があり、自動的に惰性で拙い生活を強いられているのであった。王子は瀟洒な貌つきをしている。背中に毟られた翼を持っており、その傷から察するに、もう空を翔けることはできない。翼の付け根から腐乱しており、化膿しているため王子は瀕死状態であった。断面から蛆虫が湧いている。
少女は無言で鉄の扉を開く。だが、代償もなく救済もない。それ以上のことはしない。少女は王子を連れていくことなどしない。欠損した王子は困惑する。が、反対に憔悴しきった王子は彼女を見て驚いた。少女の莫大な聖性に、そしてアクリルの如くその薄倖に、である。少女は矜持を守り、漣を刻印するように進む。ひらひらと震えるミルク色のフリル。王子は推測する。彼女も自分と同じ宿命なのだ、と。自分が疎かにしてしまった仕事だ、と。お互いに星回りに翻弄された者同士。……そして王子は彼女に追従する。
屋上に辿りついた二人は見る。鈍く光る満月を。そして深く繁茂した塔の森を。あまりの寂寥感に麻痺した二人は静かなる落下を敢行する。双方の気持ちは理解できないだろう。しかし、殆ど言うなれば恣意なる感情を感じることはできる。無意識なる共感。抜け殻の音楽。無なるレゾンデートルの二人は棺桶も用意せぬまま自殺するのだ。風が踊る。迷う酸素。砕けた翳り。決意。
――二人は気持ちを沈め魂を浄化させる。恐怖や絶望もない。あるのは神へ献じるわが肉体。胸に卍を切る。薄墨を零したような常闇に体を預け、屋上の縁に足を出す。そして空を歩く。彼らは綺麗に転落する。逆転された空に落ちる。零落。逆さまの月華が見える。機械的な万有引力は働く。これぞ世界の外延。嘔吐じみた精神の奔流。大脳の快感。少女は流れる空気を喉で見、内臓の蠕動運動を聞く。罪の数ほど最期の光は美しや。これでは神も認めざるをえない。死の羽根を。真実の尊さを。未来の嘆きを。文字の欠片を。――少年は最後に、希くば、と想像するが無意味と知り架空の幸せを心の奥に仕舞った。少年少女は地上を感じ、そうして桜は散った。銃声に似た鈍い残響が波を打ち、再び森とした静寂だけが空間を支配した。
数秒間であったが、彼らは人工的な天国を味わった。射干玉の夜の真黒に深紅を塗り、昏睡のような詩を奏で、婉曲した他殺に陥る。夭折する前に少女は清冽な涙を流していた。碧瑠璃の涙。多分この落涙も意味はないのだろう。だが、その液体を聖なるものとして感じられるのはなぜだろうか。土の臭気で溢れている地上は少女の気韻で満たされる。塔の底をよく見れば二人の亡き骸は手を繋いでいる。
星々は凛と透明なヴェールでもう動かない少女と少年を包み、冷淡な闇の駿馬は排他的に命を奪う。わずかな温もりはついに排除される。世界のどこにも存在しない永劫なる塔はまったくの夾雑物を否定しただ聳立するだけ。呪詛も祝福もない。彼らの塋域になった白亜の無機質な塔が亭々と存在するだけだった。