第九話
私こと山根と央太の出会いは保育園までさかのぼる。と言っても記憶にはほとんど残っていない。断片的な記憶でよければ披瀝もできるが、それでは私と央太の関係の幾分かも分かってもらうことは敵わないだろう。
物心ついた頃には、私と央太は幼馴染として生活していた。親同士が親友ということもあり、多少出来レース的な感はある。まあ、でも央太はおっとりとした優しい子で私は彼に何の不快も感じることが無かった。隣にいて安心できる存在。話さなくても許される関係。呼称は色々とあるだろう。あえて、一言で言えば、私と央太は良いコンビだった。
小学校に上がる頃のことだ。自分で言うのもなんだが、私は他の子たちよりもかなり勉強ができた。ツンとすました生意気な子だった。だから当時のいじめっ子から目をつけられた。筆箱や上靴を隠されることはよくあることだった。時には実際に暴力を振るわれることもあった。一度、したたかに左目を殴られたことがあった。トイレで目の周りを確認してみると、内出血が広がっていた。これは家に帰ったらお母さんに怒られるな、そう思っていたら案の定、お母さんは激怒して学校に乗り込んだ。我が子が目の周りに痣をつくって帰されたのだ。怒らないわけが無かった。
お母さんが学校に乗り込んだことで一時的にいじめはストップした。だが、時間が経てば元に戻るものだ。やがて細々といじめは息を吹き返し、また燃え上がった。
このころ、央太は私を護るために何かといじめっ子と私の間に入ってくれた。央太は大人しい子で優しい子だったので、いじめっ子も手を出そうとはしなかった。央太は小学生ながらに私を抱きしめて『絶対、守ってあげるからね』と言ってくれた。心根がやさしくて勇敢な子でもあったのだ。
でも央太の守りが届かないこともある。私は再びいじめっ子から殴られた。今度は顔面ではない。おなかだ。さすがに顔面に痣を作ってはまずいと思ったのだろう。殴るなら腹だ。腹ならば跡も目立たない。いじめっ子ながらにまったく知恵の回る奴である。
私はトイレで殴られたところを鏡に写して確認してみた。まったく赤くもなっていなかったし痛みも無かった。不思議なこともあるものだと思った。しかし不思議なことはずっと続いた。なぜかいじめっ子から殴られても私は全然痛くもなく跡も残らないのだ。いじめっ子は全く痛がらない私に不気味さを感じたのか、やがて私をいじめるのを勝手にやめた。
その頃、私はよく央太の家に遊びに行っていた。親同士が仲がよかったのでお互いの家に泊ることもよくあった。まだその頃は低学年だったので、央太の親はお風呂の準備ができると私たち二人を一緒に湯船に案内した。
そこで私は思いもかけないものを見た。服を脱いだ央太の胴体にいくつも残る真っ青な内出血の跡。
「これどうしたの?」私は悲鳴を抑えながら訊いた。
「分からない」と央太は答えた。「知らないうちにこうなってた」
知らないうちに?そんなことはあるまい。もしかしたら寝ているうちにどこかにぶつけたのかもしれない。最初のうちはそんな風に考えていた。
でも、その跡はなんだかまるで誰かに殴られたみたいだった。この時、私は不意に何かを閃いた。殴られても跡が残らない私と、殴られてもいないのに何故か殴られた跡がある央太。ここには何か関係があるのではないだろうか?よくよく確認してみれば、央太の打撲跡は私が学校でいじめっ子から殴られた場所と一緒な気がした。
ある日、私は実験してみた。自分の左腕を右手でつまんで強くつねってみたのだ。もしも私の傷が央太に映るのならば、私の腕を抓れば央太が痛がるはずだ。しかし結果は私の思惑とは違った。自分で抓るとちゃんと自分の腕が痛かったのだ。
どうしてなのだろう。私は頭を悩ませた。もしかしたら自分で自分を傷つけても央太に傷が移ることはないのだろうか?
試しに央太に私の腕を抓らせてみた。するとどういうわけだか、私の腕は全く痛くなかった。代わりに、「イタッ!」と央太が悲鳴を上げた。「何でだろう?虫とかいたのかな?ここが急にいたくなった」そこは央太に抓らせた私の腕と寸分たがわない位置だった。
これで私は知った。何故だか分からないけど私が誰かから痛みを受けると、それは央太に映るらしい。央太はなぜだか私が受ける傷を代わりに引き受ける体質になっていた。
私は央太ママに相談した。すると央太ママは私の報告を疑うことなく受け入れてくれた。私の頭を撫でながら言うには、なんでも央太の父も同じ体質だったらしい。央太ママが言うには央太の家系は「好きな子の身代わりになってしまう」という呪いがかかっているらしいのだ。
「ということは央太ママも央太パパから守ってもらってたの?」
子供心に私は央太ママに聞いてみた。それは無邪気な質問だった。央太ママは誇らしげな笑顔を浮かべて「いいでしょー?」と言った。私は央太ママに言った。「私には央太がいるもん!」そう言うと央太ママは私のことを優しく抱きしめてくれた。「これからも央太と仲良くしてね」私は強く頷いた。
しかし、央太が私の身代わりになっている、という事実は私を強く勇気づけてくれた。というのは、取りも直さず央太は私のことが好き、ということを示しているからだ。それは身代わりという機能などより、私にとって重大な意味を持っていた。なぜなら私も央太のことが大好きだったからだ。
好きな人が私を好きであるという幸福感。それはある意味、万能感にも似ていた。どれほど辛いことがあっても「でも央太は私の味方だもん」と言える頼もしさ。それは帰るところがある心強さにも似ていた。私の隣には常に央太がいた。私も央太の隣にいるように心掛けた。中学校の頃から、私は容姿の面でも注目されるようになっていた。でも先輩・後輩・同級生、その誰も私に告白してくることは無かった。それはきっと私と央太のつながりが目に見えて分かったからだろう。私も央太も互いに思っていることを決して隠しなどしなかったのだから。
私たちはそんな風にして中学時代を卒業し、高校に入学した。
しかし高校入学直後に私に不幸が訪れる。
私が青信号で交差点を渡ろうとした時のことだ。横から信号を無視して自動車が突っ込んできた。私は車に跳ね飛ばされて高々と舞い上がった。その事故は通学時のことだった。そのため多くの同級生に目撃されていた。誰もが死んだと思ったと語っていた。
だが、私は完全に無傷だった。新聞にも奇跡として報道された。
でも私は知っていた。私が無傷だったのは、央太のおかげだった。央太は私の代わりに、原因不明の全知三か月の重傷を負い病院に入院した。
私は央太の病室に通いつめ泣き晴らした。私が事故にあったせいで、まったく無関係の央太が大けがを負ってしまった。今まで、私は央太に守られているという一種のお姫様感覚に酔っていた。だが今、私は央太の体質の恐ろしさを思い知った。
なぜ私が負うべき傷を央太が負ってしまうのか。今回の事故は完全に自動車側が悪いのだ。私も不注意だったという面では悪いかもしれない。だが少なくとも央太はまったく悪くない。それなのに。責任の所在に関わらず、私が負った怪我はすべて央太が引き受けてしまうという恐怖。私はそれに耐えられなかった。
その恐怖はいつしか央太が私のことを好きじゃなくなればいいのに、といういびつな感情に繋がっていった。
小学校時代のいじめっ子が私と同じ学校に入学していると知ったのはこのころのことだった。それが大輔だった。
彼が言うには当時から私のことが好きだったらしい。だがその感情を持て余してしまい、私を虐めてしまったらしいのだ。そんな過去があるのに、彼は何を思ったか、私に告白してきた。過去のことは許してほしい。どうか俺と付き合ってもらえないか、と。
中学時代は私の絶対的パートナーといえば央太だった。だから私に告白してくる人もいなかった。だけど進学して環境が変わり大輔のように私と央太の関係をよく知らない人も増えてきたのだろう。
私は好都合だと思った。いびつな央太との関係をこいつを利用して改善しようと。いじめっ子の名前は大輔と言った。私は彼に付き合うふりなら構わないと伝えた。彼はそれでいいと言った。
ある日、私は大輔のことを彼氏だと言って央太に紹介した。央太はすこしびっくりしていた。そしてその後、「おめでとう」と言って大喜びしてくれた。でもその裏で央太が寂しそうな顔をしていたことを私は知っている。時折、一人でふさぎ込むことが増えていた。
私は央太の感情の変化を確認するため、時折、大輔に私の腕を抓らせてみた。もちろん軽くだ。その度に央太はピクリと反応していた。反応するということはまだ私のことが好きなようだ。そうやって央太の反応を確認することはとても残酷なことをしているような気持になった。このころにはどうして私はこんなことをしているのだろう、とひどい自己嫌悪に悩まされていた。ただ自分が不本意な事故にあわないように気を付ければよかっただけではないのか。実際、央太ママは央太パパとうまく生活できているのだ。こんな愚かな行為に出る前に、央太ママにアドバイスをもらえばよかったのかもしれない。
私が央太に松野を紹介したのは、梅雨のころだった。それから季節が過ぎて冬になる頃のことだった。どれだけ強く松野に私の腕を抓らせても央太は反応しなくなった。それはなんだか央太の想いのすべてを焼き尽くしたような感触がして、私は自分が目論んだことながら強い吐き気に襲われた。なぜ、央太の純粋な想いを刈りつくすような真似をしなければいけなかったのか、自分がやったことながら私には皆目見当がつかなかった。
その頃から、央太は私たちのことをアンガールズの山根と田中と呼び始めた。アンガールズ。つまり「女子ではない存在。好きになってはいけない存在」ということなのだろう。私はそれを央太なりの決別だと受け取った。私と央太の関係はこれで終わりを告げた。私が終わらせたのだ。
その時、私は強く後悔した。央太が私を好きじゃなくなってしまったことに猛烈な寂しさを感じたのだ。あんなに好きだったのに。好きでいてもらえてあんなに嬉しかったのに。その幸福を全身で享受していたというのに、私は守られることが許せないということでそれらすべてをかなぐり捨てた。あまつさえ、自分の心を偽り、他の男と付き合うふりをしたのだ。自分が最低だと思った。
でもそれに気づいているのかいないのか、央太は私と大輔のことを祝福してくれた。央太に私を好きでなくすための偽装の付き合いだったのに。私はもう引っ込みがつかなくなっていた。
私はこれが自分で選んだ道なのだから、と松野と本当に付き合うことに決めた。それを告げた時、松野は心底、嬉しそうな顔をして大喜びしてくれた。それを見て、本当にこの人は私のことを好きでいてくれているのだとそう思えた。もしかしたらこの人のことを本当に好きになれるかもしれない。そう思った。私はその日から松野と本当の意味でお付き合いを始め、『大輔』と下の名前で呼ぶようになった。
私たち二人のことを央太は親友と呼んでくれた。私は生徒会と掛け持ち、田中はサッカー部と掛け持ちで央太のいる舞魂部に所属した。舞魂部には暇があれば常に通った。央太の影響で昔から漫画が好きだったのだ。大輔はもともと漫画を読む習慣などなかったらしい。でも私や央太に付き合って読むようになったそうだ。大輔が好むのは主にスポーツ漫画だ。練習前に読むとモチベーションが上がるらしい。
舞魂部の部室は私たちの関係を深めるための格好の場所だった。部室にやってくるのは私たち三人以外、誰もいない。ただ無言でひたすらに漫画を読みふけった。面白い漫画があれば本棚に片付けずにおけばいい。机の上の漫画はいつしか三人の中でおすすめの漫画のあかしだった。置いておくだけで必ずほかの誰かが手に取るようになっていた。
舞魂部の部室で日々をはぐくんだ私たちはやがて二年生になり、春が過ぎ夏が過ぎ秋を後に残して、冬を迎えることになった。とうとうあの冬だ。
それは晴天の霹靂だった。
「救急車で運ばれてったの央太らしいぜ!」
田中が舞魂部の部室に飛び込んでくるなり興奮して言った。
「はあ?なんで?さっきまで部室にいたじゃん」
私は突然の田中の報告に動揺する。
「なんか体育館の窓から飛び降りたらしい」
「はあ?央太に自殺する動機なんかないでしょ?」
「いや、自殺じゃなくてさ。小学校のころ、雪がすごく積もった日に二階から飛び降りたりしただろ?あれと同じことをやったらしい。そしたら雪に埋もれてた金属にぶつけたらしくて」
まったくバカげた事故だと思った。私は頭を抱えた。これはきっと生徒会案件になる。『雪があっても二階の窓から飛び降り禁止』。そんなポスターが頭に浮かぶ。小学生でもあるまいに、全く頭が痛い。
「それで央太の怪我はひどいの?」
「保険の先生の話によると、ぶつけたのは脚で骨折したっぽい。でも命に別状は無いってさ」
その言葉に私はほっと胸をなでおろす。
そして「あほなのあいつ?」とついそう言ってしまった。小学生の遊びを高校生にもなってやるなんて。
「小学校のころ、大人しかったから、色々溜まってたんじゃないか?」田中はそう言って笑った。
しかし、その後、よくよく話を聞くと、どうやらその現場には一人の女の子がいたらしい。一年生に転入してきた話題の美少女、御国雪だった。なんで央太がそんな美少女といい関係になっているのかしらないが、どうやら現場で御国さんといちゃついていて、良いところを見せようとして張り切りすぎたらしい。
女に浮かれてはしゃいだ結果が救急車だなんて、まったく恥の上塗りだ。
でも央太は私と田中の親友なのだ。様子を見に行かないわけにはいくまい。私は田中と一緒にすぐさま病院に向かった。病院に着くと、央太ママが手術室の前で心配そうにしていた。医師の診断は右脚腓骨の複雑骨折だそうだ。手術は必要だが、幸い、後遺症のでる怪我ではないらしく、問題なく完治するらしい。不幸中の幸いだった。
「でも怪我か。心配だな」田中はそう言った。
「心配?何が?」私は首をかしげる。後遺症のない怪我ならばさほど問題ではない。確かに今は痛むだろうが、それは愚かな行為の代償として央太には甘んじて受け止めてもらわねばなるまい。
「いや、ちがうんだ。そうじゃなくて…」田中はそこまで言って声を潜めた。「例の呪いのこと」
田中は呪いのことを知っている。私と田中が付き合ったふりをしている頃、央太がまだ私のことを好きかどうか確認するため何度も腕を抓らせたからだ。
「呪い?央太が誰かを好きになったってこと?」
「ああ。現場に一緒にいたのは一年生の転入生だろ?あれはたしかに可愛い。央太が惚れちまってもおかしくない」
田中が私以外の女を可愛いと褒めるのは非常に珍しい。何故だか釈然としない感情に襲われた。もしかしたらこれが嫉妬という奴なのかもしれない。
「複雑骨折は本当は央太の怪我じゃなく、その子の怪我だったってこと?」
私は声を潜めて言った。
「いや、分からないけど。可能性はあるかもしれない」
「今度、央太に聞いてみようか。事故の状況」
「そうだな」田中は短く同意した。
数日後、私たちは再び病院を訪れた。放課後は例の転校生が毎日のように見舞いに来ると聞いていたので、わざと時間をずらした。それで実際に央太に事故の状況を確認してみると、どうやら本当に央太は雪に埋もれた金杭に足をぶつけたらしい。
私たちはほっとした。とりあえず今回の怪我は央太の自責らしかった。もちろん央太が転校生を好きになってしまった可能性は否定できない。だが、それはまた別の話だ。
私と田中はそれぞれ央太にお土産を渡した。私はタブレットに入った大量の電子書籍、田中はまさかのエロ本(グラビア雑誌)だった。グラビア雑誌を央太に直接渡さず、立てない央太では手の届かないところに目立つように設置する辺り、やっぱり田中はいじめっ子気質なんだなって思った。あとでちゃんとしかりつけておかねば。
それから数日後、私は再び病室を訪れた。今回は田中は無しだ。彼はサッカー部の練習で忙しい。暇な生徒会役員とは違うのだ。
折角なので話題の転校生、雪さんについて聞いてみた。すると央太の口から不穏な言葉が飛び出した。
「彼女の白い髪は病気のせいなんだ」
「なんでも免疫系の病気らしい」
「この田舎に転校してきたのは静養のため」
私は顔が強張るのを感じた。これはまずいことになったかもしれないと思った。もしも雪さんが抱えているの悪性の病気だとしたら、央太は彼女の病気を抱えて死んでしまうかもしれない。それを想像するだけで身が凍る思いがした。
私は思い切って聞いてみた。
「央太は雪さんのことが好きなの?」
すると央太は央太らしからぬことに曖昧ながらも肯定した。それは私にとってすごく意外なことだった。てっきり央太のことだからおっとりとして、まだ自分の感情さえ把握できていないのでは、と考えていたのだ。
しかし、央太と雪さん。これは最悪の組み合わせだと思った。
好きになった人の病気を受け取ってしまう呪いの持ち主と、不治の病の持ち主なんて絶対にうまくいくはずがない。
なんとかしなければいけない。でもどうやって?雪さんに協力してもらって、また雪さんが誰かと付き合ったかのような演技をする?そうやってまた央太の純粋な想いを根絶やしにして、私たちはそれで央太を護ったと安心する?そんなことはもうしたくないと思った。でも央太の呪いは強力だ。央太の想いなどたやすく踏みにじるのだ。病気の人は時として普通に享受できるはずの喜びを制限されることがあり得る。それと同じように央太の幸せも制限されなければいけないのか?私は幼馴染としてそれを受け入れたくなかった。
しかし私の葛藤を待たずに事態は進展していく。最悪の事態が発生したのは、央太の退院パーティを央太の家で行っていた時のことだった。突如として央太が喘鳴を漏らしながら崩れ落ちた。
田中が横から央太を抱え込むが央太の意識がゆっくりと消えていくのが見ているだけで分かった。
私は動転して「央太央太!」と何度も叫んでいた。救急車の音が遠くから近づいてくるのを私は無力感の中で聞いていた。
それから央太は病院のベッドの上で寝たきりになった。病状の進行を抑えるための薬を投与された結果、ほとんど目を覚ますことも無くなった。時折、目を覚ますところに巡り合えることもある。だけど央太に話しかけても反応は芳しい物ではなかった。まるで目を覚ましていても寝ぼけているような状態で、話しかけてもなかなか回答が返ってこない。そしてまたすぐ眠ってしまうのだ。
入院生活を続けるうちに央太はすっかりやせこけてしまった。口で栄養を取ることが無く、ほぼ点滴で行かされているからだ。もちろん栄養状態は決して悪くないのだろう。だけど最適な栄養状態だからこそ、彼の体はどんどんと痩せ細っていった。
央太ママはちょっとしたことで泣くようになった。私は耐えきれなくなって病室から足が遠のいていった。
実は私の父は件の病院で医者として働いている。それで父を通して雪さんの病気について何か分からないか調べてみようと思った。すると縁は奇なもので何を隠そう我が父こそが雪さんの担当医師だった。
私はこれ幸いと父に雪さんの病気について尋ねてみた。すると返ってきた答えは最悪の中の最悪だった。
世界でまだ数十件しか症例のない奇病であり、完治した症例はいまだ一件もないという。理論上、ごくごく初期のうちに投与すれば効果があるだろうとされる薬品は存在するのだが、この病気は無症状の潜伏期が数年単位で存在するらしく、症状が表に出た頃にはもうすでに薬の効かない状態、つまり手遅れになっているそうだ。
それらを踏まえて央太の病状を確認してみると、央太は既に症状が発生している。
ということはもう助からない?
そんな馬鹿な。目の前が真っ暗になった。
「央太を救うためには、央太が雪さんを好きじゃなくすればいい」田中はそう言った。「前に山根がやったのと同じことをしよう。雪さんに彼氏を作らせれば、央太の性格ならきっと雪さんのことを諦める」
「でも…」
私はにわかには同意できなかった。田中を付き合ったふりをして央太の想いを諦めさせたことを心底後悔してたのだ。あんなことは二度とするべきではない。たとえ親友と言えども、人の純粋な想いを妨げるようなことは絶対にしてはいけないと、そう考えていた。だから私は田中の考えに反対した。
「でも央太の命とは引き換えに出来ないだろ。雪さんの病気が治る見込みがないんなら、央太に想いを諦めさせて、雪さんに病気を戻すしかないんだ!」
田中の口調は強かった。断固としてやるべきだと主張した。
「…私にはできない」私には無理だと思った。
「央太を見殺しにするのか?」
「無理やり想いを諦めさせるのは、見殺しにするのと同じくらいひどいことだよ」
「俺はやるよ。雪さんが二年生のイケメンに一目ぼれして、そいつを探してるって央太から聞いた。多分、俺のことだと思う」
田中のイケメン自認は鼻持ちならなかったけど、確かに田中こと大輔は学校一のイケメンだった。
「そう。私は止めないけど協力もできない」私は田中ほど、自分の正しさにも過ちにも確認が持てなかった。
「分かった。でも別れた振りだけはしてもらってもいいか?」
「うん。私たちの始まりは付き合ったふりだったからね。終わるときは別れた振りでいいと思う」
翌日の朝、私は登校するなり田中のところに行き、央太の頬を思い切りビンタしてやった。
私と大輔が別れたというニュースはあっという間に学校中を駆け巡った。折角なので原因は大輔の浮気だということにした。これから大輔は一年生の雪さんに手を出すつもりなのだ。あながち間違いでもあるまい。
それから半年くらい田中は雪さんと付き合うために色々と努力していたようだ。通学時間を合わせたり、雪さんの姿を見かけるたびにまめに話しかけたり。しかしその努力はうまくいかなかったようだ。なんでも雪さんから央太のことを質問されたときによく知らないふりをしたのが原因らしい。ほとんど事故のようなもので田中を責めるのは酷だろう。だが結果として、雪さんは田中に疑いを持ってしまったようだ。結局、大輔は、央太の友人である田中と山根のことを雪さんに教える条件として、雪さんと付き合ったふりをすることになったようだ。
田中と雪さんは夏休み中、毎日、央太のお見舞いに行ったそうだ。いつ目覚めるか分からない央太を待つためだった。田中はあれほど夢中だったサッカー部を辞めてまで央太のために賭けていた。一体どうして田中が央太のために尽くそうとしていたのか私にはよく分からなかった。私の場合は積年の想いがあった。だが田中には一体何があったのだろう?私には心当たりが無かった。
しかし田中のその想い、努力が報われることは無かった。央太は言ったそうだ。「悪いことしちゃだめ」と。きっと田中と雪さんの偽装に気づいていたのだろう。「田中はアンガールズの方がいい」とも言ったそうだ。
その後、雪さんは一人で毎日央太をお見舞いに行っているそうだ。
実は雪さんが私に会いに来るのではないかと考えていた。央太の友人の田中が田中と同一人物とならば、山根の正体に気づくのもそれほど難しくない。おそらくすぐに見当がついていたはずだ。でも結局雪さんは私に会いに来ることは無かった。
きっともう央太の病気の正体にも気づいているのだろう。だから毎日、央太の元へお見舞いに通っているのだ。昔、山根が央太に抱いていたものよりも、よほど強烈な罪悪感を抱きながらどうすることもできず煩悶しているのだろう。山根にはその気持ちが痛いほど分かった。悲しいほどに誰も悪くないのだ。病気を受け取ってしまった央太はただ雪さんを好きになっただけだ。病気を渡してしまった雪さんは、ただ央太に好かれただけだった。誰も何も悪くない。だけどそこには地獄のような現実があった。一人は死の淵をさまよい、もう一人は決して放棄できない罪悪感を抱えて今もなお助かる方法を探し求めているのだ。
季節はどんどんと過ぎていった。央太ママの話によると、医者から央太の余命宣告がされたそうだ。もう終わりだ。もう逃げ場がなくなってしまった。
「だからもうそろそろ来ると思ってたわ」
「初めまして。尚子先輩。あなたが木茂さんの友人の山根さんですよね?」
「そう。でももっと前から分かってたんじゃないの?田中が大輔だって知ったんだったら、当然、山根は私って考えるのが自然よね。だっていつも大輔と私は一緒にいたんだから」
私がそう言うと雪さんは頷いた。
「はい。尚子先輩が山根さんだって気づいたのは、尚子先輩のおっしゃる通り、田中=大輔先輩だって知った頃です」
「じゃあ、どうして今頃やってきたの?」
「覚悟が決まりませんでした」
雪さんは綺麗な顔を歪ませていた。気持ちは分かる。央太を救うということは、雪を死においやるということに等しい。自分の命を捨てて誰かを救うなんて、絵空事の世界の妄想か、よほどの英雄、あるいは一瞬の衝動に身を任せたしかありえない。央太のケースのようにじっくりと考えることができるならば、死への恐怖ばかりが先に立ち、誰かを救おうとはなかなか考えられないものだ。
「覚悟が決まった?でもあなたにやれることは無いでしょ?央太を救うには央太のあなたへの想いを断つしかない。そしてそれをすれば、死ぬのはあなた自身。あるいはあなたが今すぐ自殺すれば、病気の本来の持ち主が消えたということで、央太の中の病気が消える可能性はあるわね。それに挑戦する?」
私はあえて嫌な言い方をした。それは央太に病気を齎した雪さんへの意趣返しでもあった。雪さんは何も悪くない。そんなことは分かってる。でもやり場のない想いがどこかぶつける先を探していたのだ。
「いえ。私が挑戦するのは別のやり方です」
雪さんは妙なことを言い出した。
「別のやり方?」
「はい。もしかしたら木茂さんも私も死なずに済むかもしれません」
雪さんの瞳は諦めていなかった。彼女は言った。ずっと覚悟が決まらなかったと。ということは、彼女自身もそのやり方に万全の自身は無いのだろう。だが彼女はまだ一縷の希望に賭けようとしていた。
私はその瞳に惹かれた。
「本当にそんな方法あるの?あなたも央太も救う道が?」
「分かりません。それが実現可能か知るにはある人の協力が必要です」
「ある人?」
「はい。私の主治医は吉川先生と言いました。もしかして尚子先輩のお父様ではありませんか?」
私は雪さんから話を聞いた。確かにそれなら希望があるかもしれない。病気をやっつけることができるかもしれない。私はお父さんに急いで電話をかけて、雪さんと二人でお父さんの元へ走った。
はじめ、お父さんは央太の特異体質に対してまったく信じようとしなかった。だが、実の娘である尚子さんが長年にわたって検証した結果を聞くや、まさかそんなことがありうるのか?と半信半疑ながら私たちの話を聞いてくれた。
雪さんの作戦は至極単純だった。雪さんの病気には感染直後であれば特定の薬剤で完治可能という性質がある。ならば雪さんの体に病気を戻した瞬間に薬剤を投与すれば、あるいはあらかじめ薬剤を投与した体に病気を戻せば、可能性があるのではないだろうか。
雪さんの話を聞いたお父さんは難しい顔をして考えこんだ。そして私たちに向かって言った。
「もしも本当に病気が雪さんの体に戻ってくるのだとすれば、あらかじめ雪さんに投薬しておくことで病を逐次的に殺していくことはできるかもしれない」
私と雪さんは手を取り合って歓声を上げた。
「だが忘れないでほしい。病気そのものが他人に移動したり戻ったりするというのは、現代科学では解明できていない超常現象であるということを。まだ解明されていない理屈に身を任せるということは、既存の理屈が通用しないということでもある。もしかすると二人ともが死んでしまうことだってありえるんだ」
「分かってます。でも央太先輩の病気はもともと私の病気なんです。央太先輩が引き受けてくれたおかげで、私は送れないだろうと思っていた青春時代を過ごさせてもらいました。真似事かもしれないけど誰かとお付き合いして、男の子と一緒に遊んで、友達と修学旅行に行くことだってできた。全部、央太先輩のおかげです。本当はもっと早く決断しなきゃいけなかった。でも怖くて、どうしようもなく怖くて、ずっと逃げてきたんです。でももう、これ以上は逃げられない。央太先輩を助けなきゃいけないんです」
雪さんの瞳には強い光が宿っていた。深々とお父さんに頭を下げる。
「お父さんお願い!」私も雪さんと一緒に頭を下げた。もしも失敗したらお父さんは不名誉を被るかもしれない。それでも頼み込まずにはいられなかった。
「分かったよ」お父さんは私たちのお願いを聞き入れてくれた。
にわかに央太の病室で準備が始まっていた。雪さん用のベッドが病室に運び込まれ、緊急事態に備えて央太が今、体中に取り付けられている生命維持装置と同じものも用意された。それを準備する看護師たちは誰もが一様に戸惑っていた。一体、これから何を始めるつもりなのだ。その疑問の視線は吉川先生に向かっていた。しかし吉川先生は一切、動じなかった。話のきっかけは真偽不明の女子高生の発案でしかないのだ。強い信念など持ちようがないはずだ。でも動じる素振りを一切見せないのはそれだけ医者として修羅場をくぐってきた証なのだろう。
「問題はどうやって病気を雪さんに戻すか、ね」私は雪さんに向かって言う。
「ですね。最近、央太先輩は目覚めることはあったんですか?」
雪さんは央太ママに問いかける。
「分からないわ。目を覚ましていたとしても、きっと面会時間のすぎた夜のことだと思う」
「雪さんどうするの?」
私は雪さんに訊いた。まず央太が目を覚まさなければ何も始まらないのだ。
「やっぱり困ったときは当たって砕けろですかね?」
それは恐ろしく原始的で野蛮な方法だった。
「やめてー!やめてー!」
央太ママが泣きながら叫び、央太に馬乗りになった雪さんに背後から縋りつく。
「うるさい!」
雪さんは乱暴に央太ママを振り払い、そして大きく右手を振りかぶる。
「いい加減、起きなさい!」
パシーン!
それはまったく情け容赦ない一撃だった。意識のない、首にまったく力の入っていない人に、絶対振るってはいけない強烈なビンタだった。事実、ビンタをほほにくらった央太の首はグルんと回る。央太ママではないけれど首の骨が折れてしまうのではないかと心配になるほどだ。
「早く起きないともう一発行くわよ!」
言葉のとおりもう一発央太に向けてビンタが振り下ろされる。今度は左手だ。
バシーン!
「きゃー!誰かたすけてー!」
央太ママの叫びは止まない。だが医師、看護師含めて、央太ママを抑え込もうとこそすれ、誰も雪さんを止めようとはしなかった。
そしてその行いは報われることになる。
「央太先輩!」
にわかに雪さんの声が変わった。私たちは央太の顔を覗き込んだ。央太の瞼がピクリピクリと動いていた。
私たちは声をあげて叫んだ。
「央太!戻ってきて!」
「助かるかもしれないの!目を覚まして」
「央太君!」
それはゆっくりとした変化だった。ゆっくりと央太の目が開いていく。
「央太先輩!」雪さんがあらん限りの声で央太の名前を叫んだ。
「…雪さん?」
央太はぼんやりとした声で雪さんの名前を呼んだ。
周囲から一斉に歓声が上がった。
「央太先輩、時間が無いから単刀直入に言いますね」
央太はまだ意識がはっきりしていないのだろう。雪さんの言っていることがよく理解できていないようだった。
「御自分の体質のことは理解していますか?」
央太は弱弱しく頷く。央太が自宅で倒れて入院した後、私と大輔で何度も説明したのだ。央太は好きになった人の病気やケガをもらってしまう体質なのだと。それを説明したとき、央太は好きな人の病気をもらえるなんていいな、と嬉しそうに言った。
「私の病気を私に返してください」
そう言うと央太は目を見開く。
「大丈夫なんです。見てください」そう言うと雪さんは周囲を指し示す「お医者さんも看護士さんも皆ついていてくれてます。央太先輩が病気を私に返してくれさえすればこの病気は退治できるんです」
「だから、なんとかしてこの病気を私に返してください。これは央太先輩にしかできないことなんです」
央太は顔をしかめる。
「これは呪いなんだ。僕らは好きになった人の病気をもらうことしかできない。自分の体の外に出すことはできないんだ」
「うるさい!やれ!」雪さんは泣きながら叫んでいた。「そんなこと言ってるから、いつまでたっても呪いのままなんだ。もしも病気を移動させることができるならこれは呪いなんかじゃない、祝福だよ!いいからやれよ!」
雪さんの言葉に央太は奮い立った。両眼を閉じて全身に力を込めているのが分かった。もちろん力を込めれば病気が移動するのかと言われれば、誰も答えなんか分かるわけがない。正解なんて誰も分からないことに央太は挑戦しようとしていた。
「がんばって!もともと私のものを私に返してくれるだけでいいの!」
しかし、やがて央太の体から力が抜けていくのが目に見えて分かった。
「…無理だよ」
「あきらめるな!」
「無理なものは無理だよ。いいよ。好きな子の病気を引き受けて死ねるなら本望だよ」
央太のやせこけた顔は諦めに染まっていた。
「うるさいうるさいうるさい!」雪さんは央太の胸倉をつかんで揺らす。「いいからやれ!私のこと好きなんだろうが!だったら私のためにやれよ!私のためにやって見せろよ!」
そう言うと、雪さんは言葉を止める。気づけば雪さんは泣いていた。
「いいからやれよ。…私も央太さんのこと好きだから。だから私のために病気くらい追い出してよ」
雪さんはそう言うと、央太の顔に自分の顔を近づけていった。誰もが雪さんと央太に目を奪われていた。
そして、その瞬間のことだ。不意に雪さんが喉から喘鳴を吐き出しつつ苦しみ始めた。
「病気が戻ったぞ!雪さんを直ちにベッドに寝かせろ。薬剤用意しろ!」
お父さんが看護師たちを指揮し、あっという間に雪さんはベッドに寝かしつけられ薬剤を投与された。
「どうなの?」
私はお父さんに聞いた。
「分からない。効果が出るのは一両日中だ。今は待つことしかできない」
「央太はもう大丈夫なの?」
「病気が戻らない限りは」
「それじゃ雪さんに打った薬に効果が出ない限りは意味が無いのね」
「そうだね」
「でもなんだかうまくいく気がする。じゃなきゃ奇跡が起きた意味がないもの」
私はベッドに横たわる央太の顔を撫でる。小さなころからずっと大好きだった子。私を守ってくれた子。
でも今日明日を無事に乗り越えることができたなら、その時はもう『私の央太』ではなくなってしまうのだろう。その想いはむずがゆいような痛みを伴っていた。だけどその痛みは明日へとつながる痛みだった。




