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第八話

絶対に大輔先輩も木茂さんのお母さんも何かを隠してる。

「選ぶ」という言葉もそうだ。面会謝絶と偽ったこともそうだ。何か絶対に隠さなければいけない何かがあるのだ。


私はそう確信していた。


もしかしたら木茂さんの親しい人なら、本当のことを知っているのかもしれない。以前、木茂さんから聞いたことがある。木茂さんには二人の親友がいるって。木茂さんがつけた二人の呼び名が面白かったからはっきりと覚えている。

その名もアンガールズ。

田中さんと山根さんだ。この二人に聞けば、木茂さんの病気のことが何かわかるかもしれない。


私は持つ限りの人脈を使って、二人のことを探した。友達の兄弟やら先生の伝手やら。だけど木茂さんの親友とされるこの二人は発見できなかった。というか、田中はいざしらず、山根という名前の人が大高には一人もいなかった。もしかしたら違う学年、あるいは違う学校なのだろうか。そうなるとお手上げだ。


私は一縷の望みをかけて大輔先輩に連絡を取った。呼び出したのは体育館の裏口。

やってきた大輔先輩に私は頭を下げて懇願する。

「田中さんと山根さんのことを教えてください」

「田中と山根?なんでその二人を知ってるの?」

大輔先輩はびっくりした表情を浮かべた。

「昔、木茂さんから聞きました。アンガールズって呼んでるって」

そう言うと大輔先輩は笑った。

「そんなことまで話してたんだ。央太、結構、雪ちゃんに心開いてたんだな」


「私、探しました。田中さんと山根さんの事。田中さんはたくさんいすぎてまだ絞り切れてません。でも山根さんはこの学校に一人もいませんでした」

「うん。そうだよね」

「大輔先輩。田中さんと山根さんのこと知りませんか?」

大輔先輩は少し考えこんだ。

「田中と山根の事、知ってどうするの?」

「木茂さんのことを聞きたいと思っています。大輔先輩も木茂さんのお母さんも絶対に何か私に隠してます!」

そう言うと、大輔先輩は辛そうな表情を浮かべた。

「…隠してないよ」

「嘘です!」

私は断言する。

「田中と山根を見つけても雪ちゃんに何も教えてくれないかもしれないよ。それどころか嘘をつく可能性の方が高い。だって雪ちゃんの言う通りだとしたら、央太のお母さんと僕が一緒になって嘘をついているんだ。そこには何か意味があって意義があるはず。だとしたら多分、央太の親友である田中と山根もその意に沿って雪ちゃんに嘘をつくよ」

私は言葉に詰まる。その通りだと思った。私は所詮、部外者なのだ。木茂さんと知り合ってほんの数か月の新参者で、彼らが積み上げてきた歴史とか友情とかそんな関係値もなく、ただその場その場の衝動で動いているだけの部外者なのだ。


でも。

「それでも調べないわけにはいかないんです。だって木茂さんは私にすごく優しくしてくれたから」

「優しくしてくれたから。それが何?」

大輔先輩は冷たく言い放つ。「優しくされたからって央太の秘密を知る権利があるとでも?彼のプライベートを暴き立てる権利があるとでも?」

「僕らは雪ちゃんよりも央太に近い。その僕らが隠した方がいいって判断したんだ。このままが央太も僕らも一番幸せなんだよ」


「…でも木茂さん、このままじゃ、きっと死んじゃいます」私は絞り出すように言った。

「だから何?」

「『だから何』ってひどい!そんな言い方って…」

私は最後まで言葉を続けることができなかった。大輔先輩が私の胸倉をつかんで壁に押し付けたからだ。

「何も知らないくせに偉そうな口をきくな!」

それは穏やかな大輔先輩の口から出たとは思えないくらい大きな怒鳴り声だった。

至近距離に近づけられた先輩の顔は歪んでいた。怒り、悲しみ、情けなさ、いろんなものがない交ぜになって、彼の凛然とした目を潤ませていた。

「…何も知らないから教えてほしいんです」

私はできるだけ冷静に言った。じっと大輔先輩の瞳を見つめながら。

するとやがて大輔先輩の顔から力が抜けていく。

「…ごめん」そう言って私の胸から手を放す。

「…いえ」私は短く答えた。


大輔先輩はずっと何かを考えこんでいた。私は先輩の考えがまとまって何かを言ってくれるまでずっと横で待っていた。

「君がもし田中と山根を見つけても、絶対に何も教えてもらえないよ。それでもいいの?」

「はい。構いません」

私は決然と答える。木茂さんのことが解決しないと先に進める気がしなかったのだ。

「じゃあ、教えてあげてもいい。だけど条件がある」

「条件?」

「条件の一つは、僕が教えるのは田中のことだけ。いいかな?」

「どうしてですか?」

「条件の二つ目は、そういう質問もしないこと」

私は口を閉じる。

「そして三つ目の条件は、君に僕と付き合ってほしい」


「え?」

まったく予想もしなかった条件に私は動揺する。私が大輔先輩と付き合う?

「いや?」大輔先輩は優しい笑顔で聞いてくる。私は何も答えられない。

その沈黙を拒否と受け取ったのか、大輔先輩は言葉を続けた。

「別に付き合ったふりでもいいよ。僕は君に手を出さず、君が望むときに別れることを承諾する。もし君が本当のお付き合いを望むなら僕も本気で君を彼女として受け入れる。君を誰よりも大切にするし、僕から君を振ることは無い。でも、三か月、いや半年かな。その期間だけは絶対に付き合ったふりを続けてほしい」


「どういうことですか?」

「条件の二つ目、そういう質問はしない」

そう言って大輔先輩は私を黙らせる。


今度は考え込むのは私の番だった。不可解だったのは特に三つ目の条件だった。これじゃまるで「私と付き合った」という名目こそが重要で実態などどうでもいいと言っているように等しい。一体、付き合ったふりをすることに何の意味があるのだろうか。


「もしかして尚子先輩に対する当てつけですか?」

そう訊くと、大輔先輩は一瞬動きを止めた。そして合点が行ったというように、穏やかに言った。

「なるほど。三つ目の条件をそう解釈したんだ?でも残念ながら違う。彼女は当てつけごときに左右される女じゃないから」

そう言われると私としては黙るしかない。


「じゃあ、最後の条件。これは条件って言うより質問かな?この質問に嘘偽りなく答えてほしい」

「分かりました」


「もし自分の命を懸けることで誰かを救えるとしたら、君は自分の命を捨てられる?」


その問いかけに私は即座に答えることができなかった。


それを察したのか大輔先輩は言った。

「すぐには答えられないと思うから、回答はまた後日でいいよ。またメッセージでいいからいつでも呼び出してよ」

大輔先輩は体育館裏口から去っていく。

私は一人その場に残されて最後の質問の意味を考えていた。その質問はまるで『木茂さんを救うために命を捨てられるか』と、そう問われているような気がした。



私は霧消しない悩みを抱えたまま、家に帰った。夕飯の少し前にお父さんが帰ってきた。この街に引っ越してきて良かったと思うのは、家族三人で一緒に食卓を囲む機会が増えたことだ。


私はふと気になってお父さんに聞いてみた。

「これは仮定の話なんだけど、もし私が命の危機で、お父さんの命と引き換えじゃないと私を助けられないってなったら、お父さんは私を助けてくれる?」

そう言うと、まず真っ先にお父さんは私のことを心配した。何か危険なことに首を突っ込んでいるのか。学校で悪い仲間と付き合い始めたのか、とか根掘り葉掘り色々と。違う違う。今日、先輩に学校で質問されて答えられなかったからお父さんに聞いてみたんだと答えると安心したようだった。


「そうだなあ。できたら娘のために命を張りたいとは思うなあ」お父さんは何かを噛み締めるかのようにそう言った。「でもどうなんだろう…。世のお父さんは皆、命がけで闘うっていうだろうけど、実際にそんな場面に出くわしたとして、一体どれだけの人が本当に命を捨てられるんだろう?」


「親子の絆があっても無理?」

「できる人もいると思う。でも歴史を振り返れば、自分の子供を売り払うことなんか当たり前にあったからね。親子だから命がけで守る、っていう風に人間はなってないんじゃないかな」


「じゃあそれが愛だったら?」

「これも同じじゃないかな?愛する人だから是が非でも守ってみせるって人は少ないと思う」

「でも映画とか漫画の世界だと…」

「所詮、そこは口だけの世界の話だから何とでも言えるよ。肝心なのは、実際にその状況に叩き込まれたとき、はたしてきちんと振舞えるか。お父さんは全然、自信が無いな」


私は一晩考えたうえで、翌日、体育館裏口に大輔先輩を呼び出した。

「質問の答え考えてきた?」大輔先輩はすこし元気のない表情でそう言った。

「はい」私は落ち着いて答える。

「じゃあきくね。もし自分の命を懸けることで誰かを救えるとしたら、君は自分の命を捨てられる?」


私は答える。「多分、私には捨てられません」

そう答えた私の額を六月の風が撫でて行った。


大輔先輩は「そっか」と頷いた。「ほかの三つの条件は呑むつもり?」

「はい。ですから田中さんのことを教えてください」


大輔先輩は少し考えこむ。そして言った。

「教えるも何も本当はもう気づいてるよね。雪ちゃんはそういうところ鋭いから」

私は頷き大輔先輩の言葉に続けた。「木茂さんには親友は二人しかいなかった。それがアンガールズと呼ばれた田中さんと山根さん。その他には友人らしい友人もいなかった」

大輔先輩は頷く。

「でもその田中さんと山根さん以外に、実はもう一人、木茂さんには友人がいました。ずっと寝たきりの木茂さんのお見舞いに来るくらい親しい仲の友人で木茂さんのお母さんとも親しい人」

「種明かしをどうぞ」大輔先輩は寂しそうに笑う。


「大輔先輩が田中さんなんですね?」

「正解」大輔先輩は短く答えた。


なんで「田中」なんですか?そう訊くと大輔先輩は知らないと答えた。なんでも木茂さんが勝手にそう呼んでいただけだそうだ。木茂さんなりの理由があったんだろうけど、それは木茂さんに訊かない限り分からない答えだった。


田中さんこと大輔先輩は結局、何も教えてくれなかった。当たり前だ。私はただ条件を呑まされただけ。まったく意地悪な話だと思った。


その日の授業中、大輔先輩からメッセージが届いた。『今日、央太のお見舞いに行きたいんだけど一緒に行かないか?』


私は首を捻った。この間は私が木茂さんと会うのを妨げようとしてたはずなのに、なぜ今日は木茂さんのお見舞いに誘うのだろうか。分からない。でも大輔先輩があげたあの不可解な条件とともに、なんだかそこにヒントがあるような気がした。


病室の木茂さんは相変わらず眠りこけていた。点滴のおかげで栄養状態は万全らしいが、やはりどことなく頬がこけてきている気がする。枕もとに座ったお母さんは「平和に寝れているならそれでいいのよ」と寂しそうだった。


これから毎日央太のお見舞いに行きたいんだ。大輔先輩はそう言った。私に否やはなかった。私は木茂さんに会いたかったのは事実だし、ちゃんとお見舞いもしてあげたかった。


でも毎日どれだけ通っても、木茂さんが起きている日は無かった。

お母さんに聞くと、時折、眠りから起きて会話することもできるらしい。だけどやはりずっと寝こけていると意識が混濁するらしい。会話が成立しないことも増えてきたそうだ。


季節は真夏の八月になっていた。夏休みだった。時間に余裕ができた私たちは、時間があれば木茂さんのお見舞いに行くようにしていた。するとある日のことだ。偶然、木茂さんが目を覚ます瞬間に巡り合うことができた。


私と大輔先輩、お母さんで何とはなしに話していた時のことだった。木茂さんの瞼がピクリピクリと震えたのを目ざとく見つけた大輔先輩が肘で私の腕を突っついた。「起きるんじゃないか?」大輔先輩は小声で言った。お母さんは素早く木茂さんの枕もとに駆け寄った。


するとやがてゆっくりと木茂さんは目を覚ました。瞼を少し開きかけて眩しそうにしたのを見て、私は窓に駆け寄りブラインドを閉じた。


「…おはよう」木茂さんはすこしろれつの回らない声でそう言った。「おはよう」お母さんがそう言うのに少し遅れて私と大輔先輩も「おはよう」と言った。


「あれ?雪さん?久しぶりだね」

「はい…」つい涙が込み上げてくる。「はい。はい」と私は何度も返事を繰り返す。

「田中も久しぶり」

「そうだな。随分と寝てるから柄にもなく心配しちゃったよ」と大輔先輩が言うと

「大丈夫だから安心しなよ」と木茂さんはそう言った。

辺りを見回した木茂さんはふとあることに気づいた。

「山根はどうしたの?山根と田中は二人でアンガールズでしょ?」

「たまには一緒にいないこともあるよ」という大輔先輩に木茂さんは「そっか」と短く答えた。


「そういえば今日は央太に報告があるんだ」大輔先輩はそう切り出した。

「報告?僕に?」木茂さんは思考がまとまらないと言った様子でのんびりと返事を返してくる。

「実は俺、雪ちゃんと付き合うことになったんだ」

少しの沈黙。多分、今、木茂さんの寝ぼけた脳が一生懸命それを理解しようとしてるんだろう。

クーラーの音が聞こえるくらいの静寂の後、不意に木茂さんは再び「そっか」と短く言って笑顔になった。

「おめでとう」そう言って木茂さんは大輔先輩と私の顔を交互に見る。

「そっかあ」と今度は少し長い『そっか』。

「じゃあアンガールズも解散だね」木茂さんはそう言うと私の目を見て「幸せにね」といって目を閉じた。


私と大輔先輩は病院を後にしていた。病院の近くの公園の木陰のベンチに二人で腰掛けた。夏の日差しが眩しい。風もろくに吹かず、ただ汗がにじんでくる。

「これが目的だったんですか?」私は大輔先輩に問いかける。

「目的?」

「はい。私と先輩のお付き合いの目的です」

「そうだよ」大輔先輩は何も隠さずあっさりと認めた。

「木茂さんに私たちがお付き合いしていると伝えることに何の意味があるんですか?」

「まだ分からない。どうなるのか僕にもさっぱり」

大輔先輩は俯きながら言った。

全てが分かっている大輔先輩がそう言う以上、私には何も分かるわけが無かった。

「まだ少し時間が早いね」そう言って大輔先輩はスマホの時計を見せてくる。時刻はまだ二時前だった。

「よかったら映画でも見にいこないか?」

きっと大輔先輩は先ほど木茂さんと話せたことで、心の重荷を下ろすことができたのだろう。最近の大輔先輩の張り詰めた雰囲気が消えていた。私たちは電車で街へ行き、一緒に並んで映画を観た。


それからも毎日、私たちは木茂さんの病室に二人でお見舞いに行った。

おそらく私を好きだった木茂さんに私たちが仲睦まじい様子を見せるのは、一種の拷問のように思えた。私はすごく心苦しかった。大輔先輩に抗議をあげたこともある。だけど大輔先輩にとって、それはとても価値のあることのようだった。もしかしたら木茂さんと大輔先輩は密かに仲が悪かったのだろうか?あるいは大輔先輩が一方的に木茂さんのことを嫌っていたのだろうか?


二人の関係は、もはや私に分かる領域ではなかった。ただやはり大輔先輩は木茂さんに申し訳なさを感じていたのかもしれないと思う点が一つあった。なぜだか木茂さんが目を覚ました日は必ず私を映画に誘ってくれるのだ。私にはそれが木茂さんへの罪滅ぼしのように思えた。


夏休みを通してお見舞いに行っていると、木茂さんに会えた日もそれなりに増えてきた。木茂さんが目を覚ます度に、大輔先輩は「雪の彼氏アピール」をした。それに何の意味があるのか分からなかった。木茂さんは相変わらず人生の大半を睡眠に費やしていた。そんな日が続くと大輔先輩は目に見えて焦り始めた。


「これにどういう意味があったんですか?」

ある日、私は思い切って訊いた。

「意味?そういうのは訊かない条件だったはずだけど?」

「でも大輔先輩の思惑はうまく行ってないように思えます」

そう指摘すると大輔先輩は痛いところを突かれたとばかりに言いよどんだ。

「確かにうまく行ってないね。でも今はこれをやり続けるしかないんだと思う」

大輔先輩の言葉には追い詰められた人間の響きがあった。


大輔先輩の作戦は続いた。

でも段々と木茂さんの眠る時間ばかりが増えていった。会えない日ばかりが続いた。

でもそんな毎日でも続けていれば、大輔先輩の念願が叶う日が来るものだ。

事前に大輔先輩から「次に央太が目覚めたときは二人でキスするふりをするから」と言われていた。

「でも絶対に口はつけないから」とも強く言われていた。

果たして木茂さんが目を覚ました後、私たちは木茂さんの眼前でキスの真似事をしてみせた。

しかし、木茂さんは何も反応しなかった。

ただ一言、「田中はやっぱりアンガールズだよ。悪いことしちゃダメ」とそう言って再び眠りに落ちて行った。

大輔先輩はその言葉を聞いて泣き崩れた。あの運動神経抜群で自信満々で全校生徒の憧れだった大輔先輩が臆面もなく大声をあげてオイオイと泣いた。


「もう終わりにしよう。ごめんね今まで付き合わせて」

大輔先輩はすっかり心が折れていた。私には結局、大輔先輩が何をしたかったのかがさっぱり分からなかった。大輔先輩は大きな体をしぼませて自分の家へ帰っていった。


大輔先輩との試行が終わった数日後のことだ。その日は学校の出席日で学校へ出席していた。そしてそこで、私は初めて知った。大輔先輩が夏休みを前にサッカー部を辞めていたことを。


言われてみれば確かに、サッカー部のキャプテンである大輔先輩が毎日、木茂さんの病室に居れるはずがなかったのだ。それこそ辞めでもしない限りは。

大輔先輩は高校三年間の努力の結晶である最後の大会を捨てて、この茶番劇を続けていたのだ。


「あれが大輔先輩をダメにした二年生だって」

遠くから聞こえよがしにそんな声が聞こえてきた。

サッカー部の部員の間では女に溺れたと散々な言われようだそうだ。やがてその評判は全校にも伝わるだろう。憧れの的としての大輔先輩の立場は地に落ちていた。


でもそれと引き換えにしても大輔先輩には何か大きな目的があったはずなのだ。それが私には分からない。分かってあげられない。この夏休みの間、大輔先輩の隣にずっといた者として、恋愛感情抜きに、大輔先輩の想いが分かってあげられないことが悔しかった。


大輔先輩から出された田中さんが誰かを教えてもらうための最後の条件、「もし自分の命を懸けることで誰かを救えるとしたら、君は自分の命を捨てられる?」という質問。

きっと大輔先輩は自分の評判を代償に木茂さんを救おうとしたのだろう。でもきっとそれは失敗に終わったのだ。


夏は失意とともに過ぎ去り、秋となった。

私は山根さんに声をかけるべきかどうか悩んでいた。さすがに誰が山根さんなのか見当がついていた。ただ藪をつついた結果、とんでもない蛇が出てきそうな予感がしていた。


正直言えば、もう私も気づいていたのだ。なぜ誰も私に木茂さんの真実を教えてくれないのか。なぜ大輔先輩はあそこまで執拗に木茂さんに私と大輔先輩が付き合っているところを見せつけようとしたのか。そんなことありえない、ありえないと何度も言い聞かせた。でもどうしてもそうとしか思えなかった。もう覚悟を決めなければいけないはずだった。でも私はずっと決断できないままでいた。自分を捨てて誰かを助ける勇気が持てなかった。


私は夏休みが終わっても毎日、木茂さんの病室にお見舞いに行っていた。お母さんは元から私のことを受け入れてくれていたのだけど、このころにはもう家族のように思ってくれていた気がする。お母さんは絶対に木茂さんの枕もとを離れなかった。でも少しずつ私に譲ってくれるようになった。私に木茂さんを任せて自らは病室を離れることもあった。私は二人きりになった病室で木茂さんに何とはなしに話しかけた。話す内容は私が想像するありえないことが中心だ。ありえないことをずっと話し続けた。


木茂さんはもうあまり目を覚ますことが無くなっていた。寝ていることをいいことに私は木茂さんの顔を色々と観察した。長い点滴生活で木茂さんは以前よりもかなり痩せていた。元々がちょっとふくよかだったのでちょうどいい塩梅になったとも言えるかもしれない。

痩せた木茂さんの風貌は、まあ、悪くなかった。イケメンとは言わない。でも不細工ではなかった。言うなれば中の上。なくはない、と言える範囲の風貌だった。

髪の毛は意外とサラサラである。入院暮らしで少し長めなのがよく似合っている気がした。

私はそっと木茂さんの髪を指先で梳いてみる。もし私がやられたらむずがゆくて身をよじっちゃいそうなくらい微かに。でも寝ている木茂さんには関係のない話だ。寝ている木茂さんが悪いんだ。悔しかったらさっさと目を覚ましやがれ。そんなことを思ってたらいつの間にか泣いていた。目の端から涙がツーッと漏れそれに気づいた。私は焦って袖口でそれを拭って誤魔化そうとした。こんなところをお母さんに見られようものならどんな誤解をされるか分かったものではない。変な期待も失望も抱かせるべきではないのだ。でも既にお母さんは病室の入口に静かに立っていて、私同様、涙を流していた。


このころ、木茂さんの病状とは裏腹に、私は自分の病気が寛解したことを担当の吉川先生から告げられていた。寛解、つまり病気が完治したということだ。先生は私の病気の第一人者であり、私の寛解は奇跡だと言った。次の学会で症例を発表させてもらえないかと言われたので、あまり他の人の参考にはならなそうですけど、と言った。

私の家族は家でパーティを開いてくれた。

「頑張った甲斐があったな」「よかったね」お父さんもお母さんも私の病気が治ったことをとても喜んでくれた。お父さんは私の頭を撫でてくれた。私は嬉しかった。

病気が発覚したころ、お父さんとお母さんが二人で食卓で泣いていたことを知っている。私を起こさないように小さない声で大丈夫だから大丈夫だからと互いに声をかけながら。

お父さんは一部上場の開発メーカーで第一線のエンジニアとして活躍していた。だが私の人生のためにそれを全てなげうって引っ越ししてくれた。

お母さんもそうだ。お父さんの収入が減った分、お母さんは外に働きに出るようになった。スーパーでレジ打ちをしているそうだ。

だから私は何としても病気を直さなければいけないと思っていた。その可能性はほとんどない、と担当の吉川先生からも聞かされていた。でもお父さんをお母さんのために諦めるわけにはいかないと思っていた。そして今、それが現実となった。絶対に治らないと言われていた病気が寛解した。先生や看護士さんたちは口をそろえて奇跡だと言ってくれた。お父さんもお母さんも喜んでくれた。


だから、もうそろそろ限界だと思った。さすがにもう私も木茂さんの病気の真相について気づいていた。なぜ皆が私に木茂さんの病気に着いて隠そうとしていたのかもすべて。それはあり得ないことだけど、それしか考えられなかった。それをあり得ると考えればすべて辻褄が通った。



時は無情にも流れ、万物は流転する。何物も不変であることは許されない。それはずっと眠ったままの木茂さんもそうだった。もう引き延ばすのは限界だ。今年いっぱいが寿命だと思う。医師はそう言った。私と木茂さんのお母さんは抱き合って泣いた。そろそろ覚悟を決めなければいけない。そう思った。


山根さんに会いに行こう。行かなければいけない。

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