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第六話

大輔先輩こと松野大輔先輩と、尚子先輩こと吉川尚子先輩が別れた理由は、どうやら大輔先輩の浮気らしい。

朝、尚子先輩が登校するなり大輔先輩につかつかと歩みより、思い切り振りかぶって大輔先輩の頬をビンタしたそうだ。


その出来事は学校中を一瞬で駆け巡った。一つのビッグカップルが破局し、二つの高嶺の花が生まれたのだ。その花を巡って至る所で抗争の兆しが芽吹き始めた。学校内には不穏な風が吹き始めた。そしてその風は止むことが無く、学校は春休みに突入した。


春が来て私は二年生になった。今年こそ大輔先輩の彼女になりたい。そんな思いの元、私は少しずつ大輔先輩に近づく算段を練り始めた。


たとえば登校時間。大輔先輩の登校時間を調べて、なるべく時間を合わせて登校するようにした。何がきっかけで大輔先輩に見初められるか分からないのだ。チャンスは多いほうがいい。大輔先輩が学校の食堂でお昼を取ると聞くと、私も友人を誘って食堂でお昼を取るようになった。


その努力のおかげか、大輔先輩に少しずつ認知されるようになった。


最初のきっかけは大輔先輩が落とした財布を拾って届けたことだった。大輔先輩は「ありがとう」と言った後、「あれ?御国さん?」と言った。どうやら私のことをもともと認知してくれていたらしい。聞いてみるとやはりこの白い髪のおかげだそうだ。


「それって染めてるの?」

大輔先輩に聞かれて私は嘘をついた。

「そうなんです。学校には生まれつきだって言ってるんですけどね」

そう言うと、大輔先輩は爽やかに笑った。


それ以来、大輔先輩を見かけると積極的に話しかけるようにした。すると大輔先輩の方からも話しかけてくれるようになった。そこまで来ると、あとはあっという間だった。大輔先輩も私のことを悪しからず思ってくれているはず、そんな確信が私の中に芽生えていた。なにせ全校集会のとき、周りにたくさんの女子生徒がいる中でも私の姿を見つけると、他の女子生徒には目もくれず私の傍にやってきて何かと話しかけてくれるのだ。


「絶対大輔先輩、雪に気があるよね」

昼食の時、友人の一人がそう言うと、ほかの四人が全員同意した。

「あーあ、私も大輔先輩のこと好きだったのになあ」

「妬かない妬かない。友人の幸せは祝ってあげなきゃ」

「えー、そりゃ祝福はしてあげたいけど、やっぱり羨ましいよー」

「彼女が尚子先輩の時はお似合いすぎてさー…」

と言いかけたところでその友人は口をつぐんだ。


その背後を尚子先輩が通り過ぎて行った。私たちのごとき木っ端のさえずりなどまったく歯牙にもかけない。大輔先輩と別れてもなお、その超然とした美しさには、一片の陰りも無かった。


「大輔先輩が浮気したって本当なのかな?」

尚子先輩が遠くへ去ったのを見て、友人の一人が再びさえずりを始めた。

「尚子先輩が彼女にいても浮気しちゃうんなら、雪なんかが彼女になったら七股ぐらいされそう」

「むしろ雪が七番目だったりして」

そう言うと友人たちは小声で笑った。

私は頬を膨らませて抗議の意思を示す。

「ごめんごめん」

「私たちはうまく行くように祈っているよ」

友人たちはそう言った後も、私そっちのけで大輔先輩と尚子先輩の話で盛り上がる。そういうあたり、やはり二人は大輪の花で、私は路傍のたんぽぽのようなものなのだろう。はたしてたんぽぽが無謀にも高嶺の花と付き合うと考えてもよいものなのだろうか。そんな疑問が心をよぎった。



季節はあっという間に過ぎ去り六月。私たち二年生は修学旅行の季節になっていた。

「大輔先輩。おみやげ何が良いですか?」

このころ、私は『松野先輩』だった呼称を『大輔先輩』に改めることに成功していた。

同時にいつからか私と大輔先輩は一緒に登校するようになっていた。別に待ち合わせしているわけではない。登校時、見かけるとどちらからともなく話しかけ一緒に話しながら歩くようになっていたのだ。そんな様子を見て、私が大輔先輩の彼女になったのだという噂が流れるようになった。だけど私はそれをとりたてて否定しなかった。それは私にとって好都合だったからだ。


「なんでもいいけど部活の後はおなかが空くからカステラみたいなお菓子がいいかも」

大輔先輩はサッカー部のキャプテンをやっている。練習後はいつも小腹が空いていて辛いと言っていたので、お菓子みたいなお土産が欲しいのだろう。もしかしたら部活の皆で食べられるような大きい物がいいかもしれない。


大高では修学旅行先は毎年長崎と広島である。学校側の反戦の思想が透けて見える旅行先である。別に異論はないのだけど、遊びたい盛りの年頃である私たちにとっては、もっと遊べるところがいいという話題にもなりがちである。

「やっぱり沖縄とかがよかったよね」

「飛行機乗ってみたかった」

そんな話で盛り上がりつつ、新幹線は広島へと向かう。


広島では定番の原爆記念館に立ち寄った。というか、そこ以外のどこにも行かなかった。被爆者の物語を聞き、すぐさま駅に戻って長崎へと向かった。本当に原爆の惨劇を教えるためだけに立ち寄ったのだろう。別にそれが悪いとは思わないし、人生のどこかでそういう勉強もした方がいいのだろう。でも、やっぱり年頃の少年少女にとっては…、という不満が出るのも致し方ない話である。


次に到着した長崎では五人程度のグループでの自由行動だった。しかし自由ということもあり、一部のカップルは二人だけの逃避行を決めていた。

「雪も大輔先輩がいたらよかったのにね」

「私は大輔先輩いても、皆を選んだけどね」

そう言うと、皆、絶対嘘だと指摘した。私も嘘のつもりで発言したので全く否定できなかった。


先輩へのお土産はカステラだけでなく、受験対策に太宰府天満宮のお守りを買おうと思っていた。皆に提案すると、全員賛成してくれた。来年はここにいるメンバー全員が受験なのだ。他人ごとではない。ちょっとでも霊験あらたかな神社のお守りが欲しいのだ。「学業成就」と大きく記されたお守りを大輔先輩用に購入した。その後、自分用にそれと全く同じお守りを買った。二人でおそろいでカバンに着けれたらいいなと思ったけど、それは彼氏彼女の関係に慣れた後かもしれない。


夜は五人の友人みんなと同じ部屋だった。布団に潜り込むのは、定番のコイバナである。特に雪と大輔先輩の恋物語は誰もが期待する内容だった。だが正直なところ、まだ恋と呼べるほどの出来事は何も起きていなかった。朝、一緒に登校して、修学旅行のお土産を約束しただけ。そう言うと、みんながっかりした顔をした。


「そういえば、去年の冬ごろ、雪って他の先輩と噂になってなかった?」

友人Aがそう言った。

「え?そんなことあったっけ?」

友人Bは知らないらしい。だが雪は木茂さんのことを思い出していた。木茂さんのことを思い出すのは随分と久しぶりだった。

「あー、木茂さんの事?」

「そうそう」「木茂さんって誰?」

二人の友人の声が重なった。雪は後者の質問に答える。

「木茂さんってのは三年生の先輩。去年、転校したばっかりの時、お世話になったんだ」

「へー。お世話って何?」

「んと。転校初日に迷子になってたところを学校まで連れてきてもらったりとか、かな」

私はそう言うと別の友人が付け加えた。

「あと体育館の裏口で遊んでて、木茂さんが怪我して入院しちゃったとか?」

「入院?!」

友人の一人が大きな声で驚く。

「救急車もきたんだよね」

「うん」雪は答える。「雪が積もってたからさ。体育館のギャラリーから雪の上に飛び降りて遊んでたんだよね。そしたら雪に埋もれて金属の杭が刺さっててさ、それに木茂さんがぶつかって足を複雑骨折したんだ」

「うっわ。こわ」

今から思えば、打ち所が悪ければ死んでいてもおかしくない事故だった。複雑骨折したことは不幸だったけど、最悪の不幸ではなかった。

「それで職員室に駆け込んで救急車を呼んでもらってさ。その後は二時間くらい先生にお説教された」

「そりゃそうだよ」

全員が声をそろえたのでつい笑ってしまった。

「小学校くらいによくする遊びだけど、高校生になってもやる奴がいるとは」

「やったことなかったんだから、一回やってみたくなっても仕方なくない?」

私がそう言うと、まあねえという反応が返ってきた。

「それで木茂さんって人はどうなったの?」

「二週間入院してた。一応、毎日お見舞い行ってたんだけど、そしたら木茂さんと私が付き合ってるって噂になってた」

「へえ」

「まあ、場所が悪かったよね。二人で遊んでたのが体育館の裏口だったから」

「あー、あの告白スポット」

「そうそう。実はあの時、別のクラスの子から告白されててさ、その現場に木茂さんがやってきちゃって、結果、一緒に遊ぶことになっちゃったんだよね。だから木茂さんと私が付き合ってたとかそういう話は全然ないよ」

そっかあ。皆どことなく残念そうな顔をしていた。

「でも木茂さんってどんな人だったっけ?三年生の人ってあんまり知らないなあ」

「うーん。顔は普通って感じ。イケメンでも不細工でもない感じ。体形は割とがっしりしてる感じ。ちょっと挙動不審気味」

「挙動不審?」

「うん。なんかいつもビビってる」

そう言うと、「なんかそれでどんな人か想像ついたわ」と皆、言ってくれた。

「木茂さんとは結局、それっきりだったな。二年生になってからは一回もあったことないし、姿も見たことないかも」

「まあ、そんなもんだよね。やっぱり学年違うと会いたいと思わないと滅多に会えないからね」

と友人の一人が言った。すると誰かが茶化した。

「まあ、逆に言うと会おうと思えばいくらでも会えるんだけどね。雪が大輔さんを追っかけまわしてた時みたいに」

「追っかけまわしたって!もう!」

私は冗談で憤慨して見せる。すると場に大輪の笑いが開いた。

しかしそんな中でたった一人、笑っていなかった子がいた。友人Eである。

「どうしたの?」雪はふさぎ込んだような表情をした友人が心配になった。


「木茂さんってさ、あの木茂さん?」


「え?」不意に雪の背中に不安が走った。「あの木茂さんってどの木茂さん?」

「木茂って珍しい名前だから多分違うことは無いと思うんだけど…」

その友人は妙に口ごもっていた。不安が嫌な予感として首をもたげる。聞きたくないという気持ちと、聞かねばならないという責任感が互いに食い合おうとする。絶対に良い話ではない。だからバカの振りをして耳を塞いでしまえばいいのだ。心の中の誰かがそんな風に叫ぶ。でも!でも!木茂さんは良い人だった!だから聞かなきゃ!葛藤は決して結論を出しえないまま時計仕掛けの神が不幸な真実を告げた。


「木茂さんって、今年になってからずっと入院してるあの木茂さん?」


衝撃だった。

「え…?」

そんなわけない。そんなわけない!そんなわけない!!

友人の一人が言った。

「複雑骨折は大怪我だけど、そんな二か月も三か月も入院する怪我じゃないでしょ?」

「入院してた時は二週間くらいだって言ってたし、退院もしたって聞いたよ」

雪はそれに付け加えて言った。自分のせいじゃない。自分の言葉の言外の意味に自分でも吐き気がした。

「なんかもともと持病があって、今年の四月に再入院したんだって」

確かに木茂さんはすぐに体調を崩しがちだった。でもこれは病気じゃないって言ってた。

どういうこと?嘘をつかれた?


すっかり動転している私を見て友人の一人が抱きしめてくれた。

「帰ったら一回お見舞いに行こう?私たちも付き合うよ」

「うん。一緒に行くから」一同が頷いてくれる。

「ごめんね。でも大丈夫だから」


すっかり場は冷え切っていた。「そろそろ寝よっか」「そうだね」誰かがそんなことを言いながら部屋の電気を消した。私は掛け布団を頭まで被った。なんだか泣いてしまいそうだったからだ。


布団にくるまりながら木茂さんのことを思い出していた。

実は木茂さんと会ったのはお見舞いの時を覗けば、ほんの三回だけだった。印象深い濃密な思い出のおかげで随分と縁深い関係だったようにも思えるけど、実態はさほどでもなかった。

思い出すことはとにかく優しい人だったなということ。そして、もしかしたら私の事好きだったのかもしれないな、ということ。怪我をさせて悪かったな、とか、生意気な態度とって悪かったな、とか、そんなことばかり。

たぶん木茂さんとのことは、私の中でいい思い出に昇華されてしまったのだ。でもだからこそ、いつまでも健康でいてほしいと思っていた。幸せでいてくれたらいいな、と思っていた。


木茂さんは病気じゃないと言ってたけど、本当は病気だったのだろう。ちょっと運動したくらいで発熱するくらいなのだから、かなり悪い病気だ。

だったらもっと優しくしてあげればよかった。あれだけ優しくしてくれたのだから、もっとお返ししてあげたらよかった。私は返せたのに返そうとしなかった。それが心残りとして心の奥からせりあがってきていた。

修学旅行から帰ったら、一回、木茂さんをお見舞いに行こう。私は心のメモ帳に強くそれを書き記した。


そういえば。

ふと、大輔先輩ならば木茂さんのことを知っているかもしれない。なにせ同じ学年なのだ。長期入院している同級生がいるとなれば、話を聞いていないわけがない。


『先輩、二年生の木茂さんって知ってますか?』

メッセージを送って少し待つと返信が返ってきた。

『知ってるよ。B組の入院してる奴だろ?』

『木茂さんって何の病気なんですか?』

『木茂のこと知ってるの?』

『転校したばかりのころお世話になってて…』

『そうなんだ』

『私、木茂さんが入院してるなんて全然知らなくて、一回お見舞いに行こうと思って』

『そっかあ。実は俺も良く知らないからさ、知ってそうなB組の奴に聞いてみるわ。ちょっと待ってて』

『よろしくお願いします!』


先輩とメッセージのやり取りをしたら、急に心が晴れてきたのを感じた。やっぱり私は大輔先輩のことが大好きなんだろう。心の奥に温かい物を感じながらスマホを抱きしめて大輔先輩の返信を待つ。するとしばらくたってスマホが軽快な音を立てた。


『なんかの感染症なんだって。伝染る可能性があるから誰も面会できないらしい』


感染症。

そっか。何かが私の中で腑に落ちていた。その答えが私の中でしっくり来てしまった。

私は自分が安心していることに気づいた。感染症ということは自分が原因ではない。私はそれを、そう、あえて言葉を誤魔化さずに言えば、私は喜んでいた。それは決して木茂さんを思っての心情ではなかった。どこまでも自分のことだけ、恐ろしく身勝手な心だった。


私は先輩に返信を返した。

『聞いてくださってありがとうございます!行っても全然会えない感じなんですかね』

『そうみたいだよ。実際にあった人に聞いたから』

『そうなんですね。じゃあお見舞いに行かない方がいいんですかね?』

『うん。残念だけど、木茂が回復するのを待つしかないかも。無理を押して訪ねて行っても、病院の職員さんの迷惑になるかもしれないし』

『ですよね…』と送った後、付け加えるように再度送信する。『じゃあ、お見舞いに行くの止めておこうかな』

『うん、それが良いと思う』

私は大輔先輩のメッセージにスタンプを送ってスマホを消した。お見舞いに行けないのは残念だけど今は諦めるしかない。木茂さんの快癒を祈るしかない。布団の中で私は見たことも無い神様に祈った。


それからしばらく経った後のことだ。大輔先輩からメッセージが届いた。

『修学旅行から帰ってきたらちょっと話があるんだけど…』

『何ですか?』

『雪ちゃんがこっちに帰ってきたら話すよ。体育館の裏口に来てほしい』


体育館の裏口。それが意味することが分からないわけがない。

なぜならこれまで何度もそこに呼び出されてきたからだ。

でもまさか大輔先輩から呼び出されることになるなんて!

木茂さんのことで滅入っていた心に急に光が差し込んだ気がした。もしかしたら私が木茂さんのことで落ち込んでいることを察して、こんなことを言ってくれたのかもしれない。そう想像するだけで心の奥に温かい感情が湧き上がる気がした。


翌日は快晴だった。

今日はどこに行こうか?みんなで話し合った。

「もしよかったら」私はそう切り出した。木茂さんのためにお守りを買ってあげたかった。直接は会えないかもしれない。でも看護士さんやお母さん経由で木茂さんの手に渡ることだってあるかもしれない。

木茂さんのために、そう言うと、皆、賛成してくれた。


約三日の長崎の自由行動が終わり、私たちは帰りの新幹線に乗った。カバンの中には大輔先輩や木茂さんを含めた大事な人たちへのお土産でいっぱいになっていた。


あの夜から大輔先輩は毎日のようにメッセージを送ってくれるようになった。それは私への愛情を感じさせるものであり、また私がいなくて寂しいことを痛切に訴える物だった。早く自分の気持ちを伝えたいんだ、ということをひしひしと感じさせた。

私も先輩と全く同じ気持ちだった。私が一体幾度、自分から気持ちを打ち明けてしまおうかと思ったことか。メッセージの画面で何度となく「あなたのことが好きです」と打ち込み、ついぞ大輔先輩に送ることができなかった。


私は一刻も早く学校に帰りたかった。時速300kmで走る新幹線さえ乙女心には物足りなかった。いますぐ先輩の胸に飛び込みたい。気持ちばかりが先走った。そんな私を見て友人たちはすっかり笑顔で「慌てる乞食はもらいが少ない」と言った。


修学旅行から帰ってきたのは金曜日の夜だった。当然、大輔先輩からの呼び出しがあるわけがない。おそらくは月曜日に呼び出されるのだろう。私は迎えに来た父さんの車に乗り込み、自分の家へと帰った。


「修学旅行はどうだった?」

車を運転する父さんは前を向きながらそう訊いてきた。

「楽しかったよ」

「よかったな」

「うん。そういえば父さんにもお土産を買ってきた」

そう言って私はカバンの中をゴソゴソと漁る。

「助手席じゃ狭いだろ。家に帰ってからでいいよ」

「うーん。お土産お守りだから、そんなに大きくないからと思ったんだけど」

「お守り?」

「うん。健康祈願のお守り。太宰府天満宮の奴だから効果覿面だと思うよ」

「そっか。ありがとう」

父さんの声は優しかった。

「そういえばお前、最近、体の調子はどうなんだ?」

「すごく調子いい。やっぱり都会の空気が良くなかったのかな?この街に引っ越してきてから発作らしい発作は起きてないかも」

「そっか。やっぱり田舎のおおらかな雰囲気が良かったのかもしれないな」

そう言うと、父さんは私の頭に手を伸ばして頭を撫でてくれる。

思えば、小さい頃から、父さんに頭を撫でられるのが好きだった。仕事仕事で家に帰ってくるのが遅いお父さん。いつも夕飯はお父さん抜きだった。だからたまに会えたお父さんが「いい子だったか?」と訊きながら私の頭を撫でてくれることが大のお気に入りだった。

私のためにこの街に引っ越すのに、お父さんは転職してくれた。前の仕事よりかなり稼ぎは良くないらしい。でもその分、返ってくるのは前よりも早くなった。家族の時間を大事にするために引っ越したんだからな。そう言ってお父さんは力強く笑った。年甲斐もなく頭を撫でられると、ああ、私はやっぱりお父さんの娘なんだなって思う。高校生になって大きくなったと思ってもやっぱり私はお父さんの娘、これから先、進学して就職して結婚して子供ができたとしても、私はいつまでもずっとお父さんの娘だ。いつだってこの手に撫でられるのが私の最大のご褒美なのだ。

この街で私が健康になったことをお父さんはすごく喜んでくれている。私の頭を撫でる手からそれが伝わってくる。本当にこの街に引っ越してきて良かったと思う。



翌日の土曜日に病院に行ってみた。たとえ木茂さんに会えなくてもお守りだけは渡したいと思ったのだ。病院の受付で木茂さんの病室を訊くと病院の最上階6階の個室だと言われた。そういえば前回の複雑骨折も個室だった。もしかしたら木茂さんのご家族が木茂さんのために決まって個室をお願いしているのかもしれない。そんな風に想像すると、木茂さんの病状の悪さが浮かんできて私は慌てて頭を振り払った。


6階のエレベーターホール付近で木茂さんのお母さんと出会った。お母さんは私のことを覚えてくれていたらしい。

「当然よ。央太のために毎日お見舞いに来てくれた子ですもの」

お母さんは私を見ると優しく抱きしめてくれた。

「またお見舞いに来てくれたの?」

「はい。でも今は会えないっていう風に聞いてて、せめてお守りだけでもって思って」

私は太宰府天満宮の「健康祈願」のお守りをお母さんに渡した。でもあらためて思うと、太宰府天満宮は学業の神様として有名な神社だ。その神社のお守りで「健康祈願」を選ぶなんて!せめて学業成就のお守りと一緒に持ってきた方が少なくとも恥ずかしくなかったかもしれない。


でもお母さんは「まあ」と言って喜んでくれた。

「やっぱり木茂さんには会えないんですか?」

「そうね。もうずっと熱が高いままで薬で無理やり抑え込んでる状態なの。副作用で寝込んでしまっていて会っても何も話せないわ」

「そっか。残念です」

「大丈夫。雪ちゃんが来てくれたことは、あの子が目を覚ました時にちゃんと伝えておくから」

なぜだか不意に涙が零れそうになった。『あの子が目を覚ました時』そんな時ははたして来るのだろうか?もう三か月近く入院しているのに、いまだに熱さえ抑えることができていないのだ。病状は相当悪いに違いなかった。

瞳の潤んだ私を見てお母さんは慌てた。

「ちょっと雪ちゃん!」


お母さんは私を近くのベンチへと促した。二人で座った。

「もう急に泣き出すなんてどうしたのよ」お母さんはハンカチを私の目に当てながら言った。

「木茂さん、あんまりよくないんですか?」

私は誤魔化されないようにお母さんの瞳を見つめる。お母さんは私の目を見ながらそれでも微笑みを絶やさない。それは家族としてもう覚悟を決めた人の表情だったのかもしれない。

「雪ちゃんは優しいのね。まだ央太と一緒に過ごした日ってそんなに多くないはずなのに、こんなに心配してくれるんだから。こんな可愛い子が泣いて心配してくれるなんて央太は幸せ者よ」

「誤魔化さないでください」私はヒックヒックとしゃくり上げながらお母さんを問い詰める。

「もう」お母さんは嘆息した。「大丈夫。央太も家族もこんな日が来ることはもうずっと前から覚悟してたの。だから悲しむことなんか何もないの」

「私は…、覚悟なんかできてませんでした」お母さんのハンカチの下で私は滂沱のように涙をこぼしていた。

「そうね。ごめんね。でも本当にあの子のことを思って泣いてくれるのなら、どうかあなたには悲しく思わないでほしい。あの子はちゃんと自分で大事なものを選んだの。それを誇ってあげてほしい」

「…選んだ?」

「うん、そう。あの子はもっと楽な生き方を選ぶことだってできたの。でもあの子は自分が大切だと思うもののために自分の人生を一生懸命生きようとした。どうかあなたにはそれを信じてほしいの」

「大切だと思うもの?」

「そう」

「木茂さんの大切な物ってなんなんですか?」

お母さんからの答えは無かった。代わりにお母さんは私を強く抱きしめた。

「ありがとうね」お母さんは何度もそう繰り返した。


私が泣き止むまでお母さんはずっと私を抱きしめたまま頭を撫でてくれた。

やがてすっと二人の体が離れる。その後、私たちはとりとめもない話をした。木茂さんのことはお互いあえて話さなかった。たぶん自分たちの無力さがそれを許さなかったのだろう。


事件が起こったのは、そろそろ病院を後にしようとした時のことだ。

「あれ?松野君?」

お母さんがエレベーターホールから病棟へと向かおうとしていた誰かを呼び止めた。それはまさかの大輔先輩だった。

「今日もお見舞いに来てくれたの?」

お母さんは大輔先輩へと駆け寄っていく。


そんな光景を見て、私の頭の中は疑問でいっぱいになっていた。メッセージをやり取りしていた時は、大輔先輩は木茂さんのことを知らない風だった。でも実際には木茂さんのお母さんと知り合いで、つまりは頻繁に木茂さんのお見舞いに来る仲ということなのだろう。

実は先ほどお母さんと話していた時も、一つ不思議なことがあったのだ。私は大輔先輩からは『感染症のため誰も木茂さんに面会できない』と聞かされていた。でもお母さんは『薬で寝ているから会っても意味が無い』という感じのことを言っていた。つまりお母さんは『会おうと思えば会える』と言っていたのだ。


お母さんが嘘をついていたとは思えない。なぜならばもし私が『寝ている先輩でも会いたい』と言えば、断ることができなくなるから。


ということは嘘をついていたのは大輔先輩なのだろうか?実際、大輔先輩は木茂さんの知り合いのはずなのに、赤の他人を装っていた。一体、どうして?何のために?


あまりの驚きに私の目からは涙が引っ込んでいた。私はお母さんと話し込む大輔先輩に近づいていく。

「あれ?雪ちゃん?」

大輔先輩は驚きの表情のまま、私の名前を呼んだ。

「なんで嘘をついたんですか?」

私の口からこぼれた声は、私が思う以上に冷たい響きを持っていた。

「嘘?」

「はい。大輔先輩は木茂さんのことを良く知らない風を装っていました。でも実際は木茂さんのお見舞いに来るくらい仲が良かった。それに木茂さんは感染症で面会謝絶だって嘘をつきました」

そう言われると大輔先輩は押し黙った。傍で見ていたお母さんは険悪な雰囲気でやりとりする私たちを見ておろおろとしていた。

「そっか。もうバレちゃってるのか」大輔先輩は髪をかき上げながらそう言った。「もっと強く来ちゃダメだって行っておくべきだったかな」

「なんで嘘をついたんですか?」私は先ほどと同じ疑問を大輔先輩にぶつけた。しかし大輔先輩は薄い笑みを浮かべて答える素振りさえ見せない。爽やかだと感じていたその笑みが、にわかに軽薄な色合いを帯びてくる。

「なんで何も言ってくれないんですか?」

「嘘をついた理由か…」大輔先輩はそう言うと押し黙る。そして続けて言う。「だって昔、君と央太が付き合ってるっていう噂があったじゃん。そんな二人を下手に再開させて元のさやに戻られてもいやでしょ?」

「そんな!人の命がかかってるんですよ!?」

「別に君が央太と会ったところで央太が生き返るわけじゃないよ。会わない方がまだマシさえある」

あまりにも酷い言葉に私は愕然とする。なんでこんな人を私は好きだったんだろう。

「最低!」その言葉とともに私は右手を振り上げた。

パシーン。病院に似つかわしくない音が響く。私はその場から逃げ出すように走り去った。



病院を飛び出して泣きながら家までの道を歩いた。

あんな人だとは思わなかった。尚子先輩と別れた原因が大輔先輩の浮気だと言われていたとき、雪は決して信じていなかった。だけど大輔先輩の本当の姿があれなのだとしたら、あながち嘘ではなかったのかもしれない。付き合う前に知れて良かった。自分を慰める言葉はそれしかなかった。


でも今日は随分と泣いてしまった。木茂さんのお母さんの前で泣き、大輔先輩のせいで泣き、たぶん随分と目も赤くなっているはずだ。このまま家に帰ったらお母さんに心配されかねない。一旦、近所の公園で休んでから帰ることにした。


雪の住んでいる町は新興住宅街らしく、きちんとした宅地設計のもと、広々とした公園が併設されていた。小さな子供が野球をできる程度のスペースがある。その広いスペースの脇にブランコが設置されており、雪はそれに腰かけてブラブラと揺れていた。


やることもなかったので友人たちにメッセージを送った。

『大輔先輩と別れた』

別にまだ付き合っているわけではなかったので、別れたもくそもあるまい。でも友人たちに説明するのにどういった単語を使えばいいのか考えたら、一番適当だったのが『別れた』という単語だった。友人たちからは即座に返信が返ってきた。雪の精神面を心配するメッセージや詳細な状況を知りたがるメッセージなど様々だった。『また学校で話すよ』そう返信すると友人の一人が『落ち込まないでね』と返してきた。落ち込まずにはいられないなあ。そう思ったけど、ちょっとでも早くたち煽ろう、とそんな風にも思った。いつまでも負けてはいられない。


のんびりとブランコを漕いでいた。この街に引っ越してきてからのことを色々と思い出していた。始まりは木茂さんだった。今から思えばあの人の優しさが全ての始まりだった。あの人に優しくしてもらってこの街での生活が始まった。私の傲慢であの人を危険にさらして入院させてしまった。


それからは大輔先輩一色だった。自分が人を外見で好きになるなんて思わなかった。なぜなら自分も誰かから外見で好きになられ、それが本当に苦痛だったから。私のことなんか何も知らないくせに。そう思いながらいつも告白に『ごめんなさい』と頭を下げていた。でも大輔先輩のおかげで知ることができた。やはり外見で誰かを好きになるなんてあってはいけないのだ。人を好きになるのならばやはり中身を知らなければいけない。そうでなければ自分自身が後悔することになる。


思えば大輔先輩の本性を知ることができたのも木茂さんのおかげなのかもしれない。あの人をお見舞いに言ったおかげで、大輔先輩の正体が明らかになった。木茂さんは私にとって幸運の使者なのかもしれない。


ブランコを漕いでみた。本当に小さなころ以来だ。小学校で自分の病気が発覚するまではブランコが大好きでよく乗っていた。最初から思い切り反動をつけて大きく漕いだ。いっそ一回転してしまえばいいと思いながら思い切り。でも私の体力ではせいぜいが水平になる程度ぐらいまでしか上がらない。いや水平さえも自分の欲目で、本当は45度くらいかもしれない。人間はきっとどんなときだって少なからず自分を味方してしまうのだ。決してそれが悪いとは思わない。自分だけは自分の味方でいなくてはいけないのだ。


そんなときだ。


公園に大輔先輩が現れたのは。まさか追っかけてきたのか。雪は姿を隠そうかと一瞬迷った。だが大輔先輩は既に私を発見していたらしい。私の方へとゆっくりと歩いてくる。今更逃げ出そうとしてもおそらくもう遅い。大輔先輩はサッカー部のキャプテンであり、運動神経は抜群だ。雪も運動神経には自信がある方だが、さすがに男女の能力の壁を越えられるほどではない。


「雪ちゃん、話を聞いてほしい」

大輔先輩はそう切り出してきた。真剣な表情だった。先ほどの軽薄さなど微塵も表に出ていない。雪が好きになった大輔先輩そのままの表情だった。しかしだからこそ私の心の中に警戒アラームがけたたましくなった。大輔先輩は人と状況によって表情を使い分けられる人なのだ。心を許してしまえば惚れた弱みで言いなりにされてしまいかねない。


「聞くことなんかありません。大輔先輩は私に嘘をつきました。きっとまた嘘をつくだけです」

自分が思っていたよりもかなり硬質な声が出てしまった。たぶん自分の警戒心がまろび出たのだろう。


「さっきのは違うんだ」と大輔先輩は言う。だがとてもそんな風には思えない。

「違わないと思います」


私は一旦、止めたブランコを再び漕ぎだす。もう話すことなんか無い。大輔先輩なんかどっか行けと言わんばかりに。


しかし大輔先輩の次の言葉で私は固まってしまう。

「僕と央太は親友なんだ」

「え?」

「だから僕は央太のお見舞いにも来てるんだ。お母さんとも面識がある」

私のブランコの揺れが収まるのを待って大輔先輩は少しずつ私に近寄ってくる。手の届く距離まで近づいたところで大輔先輩は私の背中に手を回ししゃがみこんで同じ顔の高さで話し始めた。捕まってしまった。私の中で逃げろという声が上がった。でもなぜだか大輔先輩の話を聞かなきゃいけないとも思った。


「央太から雪ちゃんのことは聞かされていた。雪ちゃん、転校初日に央太と会ったんだろ?」

「何で知ってるんですか?」

「央太から聞いたから。真っ白な髪の可愛い子が困ってたって」


そういえば大輔先輩は初対面のときから、自己紹介もしていないのに雪の名字を知っていた。あの時は雪の容姿が目立っていたからと思っていたのだけど、あの尚子先輩を彼女にしていた人が雪程度の容姿を特別視してたなんて変な話にも思える。でも木茂さんが雪のことを親友の大輔先輩に話していたのだとしたら。その仮説には納得がいった。実際、私の転校初日に木茂さんが私を助けてくれたことなんて知る人はほとんどいないだろう。せいぜい靴を貸してくれた真田先生くらいだが、先生がそんなことを大輔先輩に話すわけが無いように思えた。


「木茂が言ってたんだ。雪ちゃんのことを好きになったかもしれないって」

「え?」


それは私の予期せぬ言葉だった。いや、好意を持たれていることは心のどこかで感じていた。それは言葉の端々であったかもしれないし、それとない仕草だったかもしれない。だけどもともと優しい木茂さんの優しさの枠をちょっとだけはみ出した優しさ。そんな風にでも言えばいいのだろうか。そのはみだした優しさが私には特別な愛情のように感じられていたのだ。


「だから僕は雪ちゃんに興味を持ったんだ」大輔先輩の顔に目をやると、すごく真剣な顔をしていた。嘘の気配なんか微塵も感じなかった。「実際に雪ちゃんと話してみると、すごく明るくていい子だなって思った。とても元気で、央太が言うような病気がちの子とは思えなかった」


大輔先輩の言葉にどう反応していいか分からず、私はあいまいな笑顔を浮かべた。大輔先輩は話を続けた。


「話しているうちに僕は雪ちゃんのことが気になり始めた。でももともと央太の好きになった子だから。その事実が僕の心に制限をかけていた」


大輔先輩と私の視線が絡み合う。綺麗に整った眉を少しだけゆがめて私を見る視線には慈しみの感情が込められている気がした。


「実はね、央太があんなふうに眠りっぱなしになったのは、最近の事なんだ。たしか雪ちゃんが修学旅行に行く直前くらいかな」

「え?そうなんですか?」

「うん。だから最近まで央太とは話すことができたんだ。僕は央太に正直に雪ちゃんのことを話した。彼女を好きになったかもしれないって。

それをベッドに寝た切りの央太に伝えることはどことなくひけめがあった。でも正直に伝えるべきだと思った。僕が央太の立場だったら、自分のために感情にブレーキをかけろなんて親友にとてもじゃないけど言えないし言わない。むしろ自分に隠すくらいなら言ってほしいって思うだろうって。

だから僕は素直にあるがままを央太に伝えた。そしたら」

大輔先輩はそこで一拍を置いて、私の瞳の奥を覗き込むかのように見つめた。

「そしたら央太は雪ちゃんを大事にしてあげてほしいって。自分の事なんか忘れて幸せになってほしいって、そう言ったんだ」

止まっていたはずの涙が再びこみ上げてきそうだった。あー、もう。今日は一体何回泣くのだろう。私の涙腺はもうすっかり壊れてしまっているのかもしれない。

「自分はもう雪ちゃんには会わない方がいいと思う。そんな風に言う央太が悲しかった。でも」そこまで言って大輔先輩が言葉に詰まった。でも、の先で押し殺した言葉が何か、私にもわかった。


「もう雪ちゃんと会わせないことが央太にとっての幸せなんだろうって思った。雪ちゃんの心から央太が消えて、そして同時に央太の心からも雪ちゃんが消える。それが僕らの最適解だと思った。だから僕は嘘をついて、雪ちゃんを央太に合わせないようにしたんだ」


そう聞かされて私は何かが腑に落ちた。優しい木茂さんなら考えかねないことだ。回りくどくて分かりにくくてでもあの人の中では筋の通った考え方なのだろう。すごくめんどくさい人だ、と思うと、頭の中に常に挙動不審だった木茂さんの姿が思い出された。自然と表情が笑顔になった気がした。


「やっと笑ってくれた」目に映る大輔先輩の表情は優しかった。


でもなんだか脳みそが麻痺しているような気がした。今日は色々とショッキングなことが多すぎて、右へ左へと頭を揺らされた。いわば脳震盪状態だ。思考がぼんやりとして何が正解なのか分からない。目の前の大輔先輩の顔は甘い。大輔先輩の両腕が雪の背中に回ろうとしていた。ついその甘さに身をゆだねてしまいそうになる。


でもその弱さをギリギリのところで自制した。大輔先輩の話が正しいのか間違っているのか、今の雪には分からない。だけど分からないまま、身をゆだねてしまうことが間違いなことだけははっきりと分かった。


大輔先輩の胸を両手で押して二人の体の間に距離を作った。背中に回ろうとしていた腕がピタリと止まった。


「どうして?」大輔先輩は悲しい顔をしていた。

「今は何も考えられないんです、本当に」私は苦しい思いを吐き出した。「大輔先輩の話が本当なのか私には分かりません。嘘だという証拠もありませんし、信じるに足る証拠もありません。だから今は自分の感情で判断するしかないんですけど、木茂さんが病床で苦しんでいる今、私が幸せを選択していいのか疑問なんです」


大輔先輩は悲しそうな顔をしていた。


私はブランコからたちあがる。まだ涙は引いていなかった。別に大輔先輩との縁を終わらせると決めたわけではないし、もちろん大輔先輩との仲を続けると決めたわけでのない。今は全て保留だ。木茂さんの体調が戻るまで保留するのだ。それまでは引いた一線以上に進むことはできない。


「雪ちゃん」

立ち去ろうとする私の後ろから大輔先輩が呼びかけてくる。私は振り向いて大輔先輩に笑顔を送った。


「雪ちゃんは央太の事好きなの?」大輔先輩の表情は切実だった。私の答えにすべてがかかっている、そんな表情をしていた。

「嫌いではないです。先輩としてはたぶん好きだと思います。人間としても木茂さんの優しさは本当に尊敬してます。でも男の人として好きか、と聞かれると今は答えられません」

「答えられない?」大輔先輩は表情に疑問を浮かべた。

「はい。たぶん木茂さんの体調が回復してもう一度話さない限り答えが出ることは無いと思います」


私はそう言うと再び大輔先輩に背中を向けた。


「雪ちゃん!」

大輔先輩が私を呼び止める。私は振り返る。でも大輔先輩は呼びかけの後に続くはずの言葉を見失っているようだった。


大輔先輩は確かに何かを言おうとしていた。いや何かを言おうか言うまいか、答えが出ないままに気持ちだけが先走っている、そんな印象を受けた。


一体、何を言いたがっていて、どうしてそれを隠そうとしているのだろう?私はそれが知りたくて仕方がなかった。何かがおかしい気がした。

「どうしたんですか?」


私の問いかけに大輔先輩は自分を取り戻したように見えた。いや、取り戻したというよりも自分の迷いを表に出さないようにしただけかもしれない。


「雪ちゃん」大輔先輩はもう一度私の名前を呼んだ。

「どうしたんです?」私ももう一度大輔先輩に聞き返す。


何かがおかしい。絶対に私の知らない何かが隠されている。

そうだ。ずっとおかしいのだ。大輔先輩だけではない。おかしいのは木茂さんのお母さんもだ。


「大輔先輩」私は大輔先輩の目を見つめる。嘘は許さないとばかりに。「木茂さんのお母さんが言ってたんです。木茂さんは自分で『選んだ』んだって」

そう言った瞬間、大輔先輩の表情に動揺が走った。

「お母さんは教えてくれませんでした。だから大輔先輩が教えてくれませんか?木茂さんは一体、何を選んだんですか?」


その問いかけに大輔先輩はひとしきり口をあわあわとさせた。そしてその後、言えないとばかりに俯いてしまった。

きっとこれ以上、問いかけても無駄なのだろう。そう思って振り返ろうとしたところ、大輔先輩がとうとう口を開いた。


「雪ちゃん。僕からは何も言えないんだ。でも信じてほしい。央太を救いたいなら…」

その先の言葉は尻すぼみになって私の元までは届かなかった。大輔先輩はずっと辛そうな顔をしながら言葉を履いていた。それ以上、私には何も聞けなかった。

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