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第三話

僕の友人に田中と山根という人間がいる。僕と同じキモオタで、二人とも長身でナヨナヨとしている。僕は彼らを指してアンガールズと呼んでいた。僕も彼らに負けず劣らずガリガリなので、ほぼアンガールズみたいなものなのだけど、断固として仲間入りを拒否していた。


僕らは三人とも舞魂マイコン部に所属していた。元々は名前の通りマイコンやパソコンを扱う文化系のクラブだったらしい。だが数年前の先輩たちが舞魂部と名を改めて以来、舞魂部はキモオタの巣窟と化した。部室にあったマイコン雑誌や電気工具は倉庫の奥深くにしまい込まれ、本棚はマンガやラノベが席巻した。壁にはアニメ絵のいががわしいポスターやカレンダーが貼られ、免疫の無い学生の侵入を拒む禍々しい雰囲気を醸し出していた。


土曜日の昼ということで校舎にいる人も少ない。大野高校は一応、進学校の体を取っているので、進学クラスのみ補講だ。生徒の数は平日の1/5くらいしかいない。


「今日も雪やまないね」と僕。窓の近くに立って、振りしきる雪を眺めていた。

「ですな」と短く答えたのは山根。振り返ると山根は漫画に夢中になっていた。あまり会話するつもりもないらしい。

まったく返事する気のない田中よりはマシだけど、友達甲斐がないなとは思う。一体、何の漫画を読んでいるんだと、山根の手元をそれとなく伺ってみると流行りの青春物だった。最近、ストーリーが佳境に入ってきており、ヒロインが不治の病であることが発覚していた。


不治の病という単語に、僕はドキリとしていた。雪さんのことを連想していた。


あの雪の日。自分が病気であると伝えてくれた日から二週間近く経っていた。僕はその告白にキョドったまま、彼女を職員室に連れて行って、その後は雪かきの時に話したっきりだ。彼女の病気の件は、いまだに昇華しきれていない。


雪さんはあっという間に学校の人気者になっていた。学年の違う僕のクラスにも、東京からとんでもない美少女が転校してきたと噂が届いてきたほどだ。男子生徒の誰もが何気なくを装って雪さんのクラスへと赴き、その容貌を確認して可愛い可愛いと感動していた。


あのどこから見ても彼女だと分かる白い金髪と赤いマフラーは雪さんのトレードマークになっていた。

だが、もう生足はもうやめたらしい。彼女はスカートの下に学年の紺のジャージを履くようになった。男たちにとっては非常に残念な話だ。


だがそんな野暮ったい格好でも、彼女の容姿は男たちを奮い立たせるらしい。転校してきてまだ一週間にも満たないというのに、既に彼女に告白し玉砕した者がいるそうだ。気持ちは分からないでもない。近くで見ると本当に可愛いのだ。まるでファンタジーの世界から抜け出てきたかのように整った顔立ちと淡い色彩。触れれば壊れてしまいそうなくらいの繊細な美しさに惹かれる人が後を絶たなかった。


今日もそんな勇者が彼女に突撃しようとしていた。

舞魂部の部室は学校の三階にあり、僕のそばの窓からは体育館の裏が見える。そこは人目に付きにくい場所で、近くの大きな樹の下が告白の定番スポットになっていた。

しかし、この季節の積雪はおよそ1メートル。そんな状況で樹の下にはさすがに行けない。代わりとなるのが体育館の裏口だ。そこは雪除けの黄色い屋根がついている。周囲は高さ1メートルの雪垣。三階にある舞魂部の部室からでないとその雪垣の中を伺うことはできない。その雪垣の部屋の中に少年が一人、立っていた。


少年は比較的長身だった。たぶん一年生だと思う。三年生というにはあどけなかったし、二年生にしては顔に心当たりが無かった。だが、よくよく見ると彼は僕の知っている子だった。なんと雪かきを一緒にやった相原君だった。


僕は別に相原君が雪さんに告白しようとしていると知っていたわけではない。たまたま窓から雪景色を見ていて、たまたま体育館の裏口辺りに目をやったところ、たまたま一人の少年がいて、その少年がたまたま相原君だったというだけのことだ。そこにさらにたまたま、彼女が現れるなんてまったく知らなかった。


しばらくすると、体育館の裏口が開き、真っ白な髪の少女が出てきた。いつものように真っ赤なマフラーを巻き、スカートの下に紺のジャージを履いていた。

相原君は彼女に向かって手を差し出しながら頭を下げた。雪さんは少年に向かって同じくらい深々と頭を下げた。


はたから見る限り、それで告白の儀式は終わりだった。

おそらくいたたまれなくなったのだろう、少年は体育館の裏口から素早く校舎の中に入っていった。

取り残された雪さんはしばらくの間その場に立ち尽くしていた。告白されたことのない僕には分からないけど、やはり振る側は振る側で精神的に疲れるものなのだろう。


やがて彼女は吹っ切るかのように両手を横に伸ばして深呼吸した。その姿勢のまま伸びをするかのように、クルリとその場で回転した。こちらに向いた顔は欠伸する猫みたいに目をぎゅっとつむっていた。そんな表情も可愛いと思った。が、その瞬間、不意に目を開いた。


目と目が合う彼女と僕。


それは完全なる偶然だった。だが虚を突かれた彼女の驚いた表情が憤怒に染まっていくのが、遠目にも分かった。


突然、僕のスマホが軽快な音を鳴らした。山根と田中が一斉に僕を見た。僕のスマホが鳴るなんて天然記念物が街中で発見される並みの珍事だ。彼らは驚異と興味が入り混じったような表情をしていた。


スマホを隠しながら確認するとLINEだった。

『おまえ何見てんの?』

雪さんだった。不思議なことにスマホの文字が雷のようにギザギザになっているように見えた。


『偶然なんです…。見逃してください…。』

僕は弱弱しく返信したが、彼女は許してくれなかった。

『今すぐこい』


僕は田中と山根を腐部室に置き去りにして、可及的速やかに廊下を駆け、体育館へ向かった。雪さんは既に体育館の中に入っていて、開け放した黄色い扉の間から外の雪景色を眺めていた。

ぜえぜえと息を吐きながら着いた体育館には人の気配が無かった。照明もついておらず薄暗い。体育館の対角線上に存在する裏口は人一人が通れるくらいの幅で開いていた。僕はそちらへ向かって歩いて行った。まだ息は荒れたままだった。裏口の先にいた雪さんは「走ってきたんだ?ウケる」と笑った。


僕はてっきり不躾な視線について怒られるものだと思っていた。だが、彼女は何も言わず、しゃがみこんだまま外を眺めていた。


僕はまったく色恋沙汰には縁が無かった。だからこれは完全に僕の想像なのだけど、傷つくのは振られた側だけではなく振った側もなのだろう。気持ちをぶつける、ぶつけられる。ぶつけた気持ちを傷つけられる。ぶつけられた気持ちにきずつけられる。もっとソフトにはいかないものなのだろうか。傷つかない方法はないのだろうか。すこしずつ近づいていった手と手の小指がかすかに触れるようなそんな距離のつめ方はないものなのだろうか。

黙り込んでしゃがみこんだままの彼女を見て、僕はそんな風に思った。


さきほどまで降っていた雪はやんでいた。体育館の裏は誰も雪かきする人がいないし、そもそも誰も来ないので雪も踏みしめられていない。ドカ雪の直後ということもあって、融けた雪が再び凍って固くなっていることも無い。


彼女が喋らないので、僕は裏口から外に出た。積もっていた雪を両手ですくうとふかふかだった。彼女の方に振り返って両手の雪を見せてみた。だが、彼女は一瞬、こちらに視線を向けた後、すぐに僕の後ろの雪の層へと視線を送り直した。


なんとなく拍子抜けだった。怒られもせず、話しかけられもせず。正直なところをいえば、ちょっと怒られたい気持ちもあったのだ。彼女の感情が動くところを見たかった。感情に揺れた表情を見せてほしかったのだ。


雪をもった両手がかじかんでいた。じんわりと融けた雪が両手の間から滴っていた。

もしかしたら僕は腹を立てていたのかもしれない。雪を彼女に向かってそおっと投げてみた。彼女のところに届くころには粉になるくらい、ふんわりと投げたつもりだった。


だが両手で温められた融けかけの雪はうまくほぐれてくれず、塊のまま、彼女の真っ白な頭へ向かった。慄いた表情を浮かべる彼女。しゃがみこんだ体勢のままのけぞって尻もちをついて、後ろ手になった。そしてそこへ。ボスン。


雪の塊は彼女のおなかの上で弾けて、制服を雪まみれにした。

「はあ?」

彼女の顔がみるみる紅潮していく。どう見ても怒っていた。手でおなかの雪を握って僕に投げつける。が、きちんと握ってなかったため、雪玉は空中で形を失って彼女の思う通りには飛ばなかった。

「何すんのよ!」


彼女は立ち上がって僕を睨みつけていた。ズンズンズンという効果音付きで、裏口にある雪垣で雪をすくって僕にかけようとしてくる。


「ちょ、待って…」

僕の抵抗も虚しく、雪は僕の顔面に命中した。雪さんは「白髪みたいになった」と言って腹を抱えて笑っていた。


僕は反応に困って無言のまま雪を手で払った。キモオタははしゃぐ相手に周波数を合わせられないのだ。すると雪さんは不安になったのか、

「痛かった?冷たかった?」

と俯く僕の顔を覗き込んできた。顔が随分と近くて胸がビクリと震えた。声が白い吐息となって届く距離だった。


僕は無言で首を横に振った。のどに声がつまって出なかった。でも平気なことは彼女に伝わったみたいだった。


「あのさー、あんたから始めたことなんだから、やり返されたくらいでいじけないでほしいんだけど」


彼女は咎めるように言った。でも険のある口調ではなかった。


「別に怒ってるわけじゃないんだから、こういうときはお互いにかけあえばいいんだよ」


そういっていきなり雪さんは再び僕に雪をかけ始めた。次から次に雪が飛んでくる。僕もやり返すのだけど、真っ赤なマフラーよりも上を狙うのはどうしても憚られた。最初ははしゃいでいた彼女も次第にそれに気づいたらしい。


「なんかイジメてるみたいなんだけど!」

彼女はため息を落とした。


「いや、さすがに女の子に雪かけるのはちょっと…」

「最初にかけたのはそっちじゃん!」

最後にとびきり大きい雪の塊がとんできた。もろに顔面に食らった僕を見て彼女はケタケタと笑った。


その後、身体が冷えたと言って雪さんは体育館の中に戻った。ステージの端に腰掛けて、僕を隣に座るように促した。僕は素直に隣に座った、と見せかけて、距離は50センチくらい離れていた。恥ずかしかった。


体育館の中は無人だった。時刻はまだお昼だった。今日は部活もないので誰もくる気配が無い。


「あんた、好きなことなんなの?」

突然、雪さんが訊いて来た。

「好きなこと?読書かな?」

「漫画とかラノベってこと?」

雪さんは正確に僕の答えの意味をとらえた。

「面白い?」

「面白いよ」

そして沈黙。雪さんはため息を落とす。

「好きなことでも喋れないの?」

「好きなことは人それぞれだし…」


そしてまた沈黙。さすがに気まずくなって僕は口を開く。


「寒くない?大丈夫?」

「寒くないよ」とは言うものの二人以外誰もいない寒々しい体育館のことだ。寒くないわけがない。

「教室に戻ろうか」

僕は言った。病気持ちの彼女のことだ。体を冷やしてもいいことは無いだろう。

「まだ明るいし、もうちょっと遊んでいこうよ」

彼女は言った。

「遊ぶと言ってもなあ…」と僕が口ごもると「そうだ!」と彼女は声を上げた。


「雪の遊び方教えてよ!」

これは名案とばかりに彼女の顔は輝いていた。


「雪の遊び方と言ってもなあ…」

裏口の雪垣の前で二人並んで、僕は頭を悩ませていた。

「顔型を取るとかは小さい頃よくやったかなあ」

「顔型?」

僕は目の前の雪の加減を確認する。夕方だけど昼間の気温が低かったせいか、雪は比較的柔らかくスムージーみたいな感触がした。少なくともかき氷みたいな硬さの雪ではなかった。

「これならいけるかな?」

僕はゆっくりと目の前の雪垣に自分の顔をつけて、少し経った後、雪に残った顔の形が崩れないように顔を上げた。

「これ顔型」

雪さんは完全に無表情だった。

「これ遊び?面白い?」

「小学校の頃はみんなやってたよ」

「高校生向きではないかな」

そう言うと雪さんは雪でできた僕の顔型を手でかき回してぐちゃぐちゃにした。

「せっかく作ったのに」

「つまんないから却下」

雪さんはつれない。


「雪だるまでもつくろっか」

気づくと雪さんは手元で小さな雪だるまを作り始めていた。両手で固めた雪玉を芯にして大きな雪玉を作ろうとしていた。

「アニメとかだと雪の上で転がすと大きくなってたんだけどなあ」

満足いく大きさに育たない雪玉にこぼす雪さん。

「地方によって雪質が違うから」

僕がそう言うと雪さんは興味を持ったみたいだった。僕は良いところを見せたくて知ったかぶりした。

「この辺の雪は結構湿気が多いから雪玉にくっつきにくいんじゃないかな?」

しかし雪さんは納得してくれない。

「湿気が多いとくっつきそうなイメージだけど」

僕は少し考える。

「確かにそうかも」

「だよね?じゃあ、なんでくっつかないんだろ?」

雪さんは雪玉を転がしてみたり押し付けてみたり、色々試してみるがどうにもうまくいかなかった。最終的に周囲の雪をかき集め、雪の大きな山を作った。

「あとは頭か」

体を作り終えた雪さんは一仕事終えた風な雰囲気を出してそう言った。

「でもこの上に載せるのって無理じゃない?」

サイズは大体、僕の体の幅くらいだ。

雪さんの頭の中にはおそらく先ほど作ろうとしてうまく行かなかった雪玉のイメージが残っているのだろう。正直、僕もそうだった。というか、小さなころからずっとそうだった。大きな雪玉を作るのは意外と難しい。さきほど雪さんが試したように雪玉を転がしただけで大きな雪玉を作れるのなら苦労しない。


結局、僕と雪さんは、胴体と同じように雪を寄せ集めて頭部分を作ることにした。

両手で雪をすくってはぺったんぺったん。モルタルの壁を作るような作業をこなして頭部分を作っていく。ちょっとずつ膨らんでいく頭部はやがて立派な球体になった。でもどことなく形は歪んでいた。まるでジャガイモみたいにところどころへこんでいたり膨らんでいたりしていた。


「あんたに似てるね」

雪さんは少しおかしそうだった。胴体は僕の体の幅と同じくらい。頭部も大体、同じくらい。僕は丸刈りなのでその辺りも「似てる」うちなのかもしれない。

頭部に指で顔を描いていく雪さん。ふんふん、と鼻歌も聞こえてくる。僕も雪さんも手袋をしていなかったので、少なくとも僕の指先はすっかり冷たくなっていた。当然、雪さんの指も凍えているはずだ。なのに楽しそうなので、不思議な人だなと思った。よく見ると指どころか手の甲辺りまで真っ赤になっていた。


「ねえ、寒くないの?」

三十分くらい前にした問いをもう一度雪さんに繰り返した。

「大丈夫だよ?」

雪さんはそう言って笑って見せる。と、僕がポケットに手を突っ込んでいるのを見て抗議の声をあげた。

「私が冷たいの我慢してるのに、なんで一人あったまってんのよ!」

「やっぱ冷たいんじゃん!」

僕がそう言い返すと、僕らは笑いあった。

そこで雪だるま係は交替になった。自分の顔の雪だるま作ってみてよ。雪さんはそう言った。


でも残念ながら僕には絵の才能は全くなかった。中学校の頃に、スルメの模写がなぜか紙飛行機に間違われて笑われたことがあるくらいだ。しかも自分の顔だなんて!人生で一番よく見た顔とはいえ、自分で自分の顔を描くなんて恥ずかしくて仕方なかった。


出来上がったものに雪さんは特に何も言わなかった。でもなんだかよからぬ笑みを浮かべていた。少し気が気ではなかったが、嬉しそうに出来上がった雪だるまをスマホで撮影する雪さんを見ると何も言えなかった。


「はあ。楽しかった」

雪さんは満足げにそう言った。雪だるまづくりの何が面白いのか僕にはよく分からなかった。小さい頃からそれを面白いと思ったことがないので、これからもきっと思うことは無いのだろう。だけど今日のこの時間はきっと僕の一生の思い出になるんだろうなと思っていた。


目の前の雪さんは可愛い。びっくりするほど。こんな可愛い子とこんな風に遊べるなんて。僕の人生に望むべくもなかったことだと思う。キモオタと美少女の間には親和性皆無なのに。これぞ神の配剤というべきか。


僕は目の前の雪で雪玉を作った。なるべく柔らかめのもの。それを横から雪さんにぶつけた。


ポスンとクッションに弾むような音を残して、雪玉は砕けた。雪さんは何事かと言った表情で身に纏っていたダッフルコートに残った雪玉の跡を見た後、僕のほうを見て不敵に笑った。


「やったな!」

両手で雪を握って僕の方に投げてくる。当然、そんな握り方ではちゃんと飛ばない。でもそんなの僕も雪さんもきっと分かってた。僕も雪を適当に握って雪さんに向かって投げる。お互い雪まみれになりつつ、狭い雪垣の中でくるくると位置を入れ替えながら僕らははしゃぎ合った。



遊びとはいえ、十分近くもそんなことをしているとやはり体が熱くなるものだ。「また湯気上がってるよ」雪さんは目ざとく僕の体から上がる湯気を見つける。

「もしかして代謝良いほう?」

「うん。ご飯どれだけ食べても全然太らないし、たぶんいいんじゃないかな?」

「へー、羨ましいな」

そういう雪さんは同級生の女子と比較してもほっそりしていてスタイルがいい気がする。羨ましがる必要などどこにもない気がするのだけど、やはりより良い方向を目指したくなるのが人間というものなのだろう。


ふと気づくと、僕の熱を帯びた吐息も真っ白だった。体育館の裏は結構なスペースがあって、目の前には雪垣と同じ高さの雪面が広がっていた。僕の中にとある衝動が込みあがってきた。


そういえば小学校のころ、やんちゃな同級生がそんなことしてたっけ。


二人で作った雪だるまの斜め前。僕は両手を横にまっすぐ広げて雪面に向かう。雪面の高さは約1メートル。


雪さんに向かって僕はニヤリと笑って見せる。すると雪さんは怪訝な表情を浮かべた。


「とうっ」


僕は柄にもなく素っ頓狂な声をあげて、水泳のプールみたいに目の前の雪面に飛び込んだ。


「わあ!」


雪さんの驚く声が聞こえた。


僕は雪にずぶずぶと沈んだ。火照った体に雪がちょうどいい解熱効果をもたらしていた。「気持ちいいー!」そう大きな声で言った。すると、雪さんも「私もやろうっと!」と言った。


「とうっ!」

すっかり愉快になっている雪さんは僕と同じように素っ頓狂な声を上げた。その後、「うわー」という声が聞こえてくる。雪に沈み込む感触は心地よい物なのだ。


十分に雪の冷たさを堪能した後、僕は雪面から体を起こした。それに続けて雪さんも体を起こした。雪さんはダッフルコートも髪も真っ白になっていた。パンパンとはたいても雪がすっかり融けてしまっていてダッフルコートにしみこんでしまっていた。


「早く乾かした方がいいかも」

僕はそう言った。すると雪さんは少し顔をしかめながら

「寒くないか?とか乾かした方がいいとか、あんたって心配性だね」と言った。

僕は心の中で、病気の子を心配するのは当然だよ、と答えた。でもそれを口に出すことはできなかった。病気のことを口にするのは憚られたのだ。


でも結局、少し沈黙が漂った後、僕はつい口にしてしまった。

「病気、大丈夫なの?」

言った瞬間、僕は後悔した。それは心配というよりも、気になる女の子の秘密を知りたいという極めて下劣な欲望から来るものだったからだ。

「全然、大丈夫だよ。もう治ったから」

「治ったの?」

僕はびっくりした。わざわざこんな自然しか取り柄がないような田舎に来るくらいだから、かなり悪い病気なのではないかと不安だったのだ。

「うん。治った治った」

雪さんは軽い調子で言った。でもなんだかその横顔に寂しそうな影がさしている気がした。


「そんなことよりさ!」

雪さんは声の調子を1オクターブあげた。少し無理をしているように聞こえたのは僕が不安がちだからかもしれない。

「今、雪に飛び込んだけど、これってもっと高いところからでも行けるんじゃないかな?

「高いところ?」

「うん!」

そう言うと、雪さんは体育館の中に戻っていった。僕はその後をついていく。

「たとえばあそこからとか」

雪さんは体育館の壁の上にあるギャラリーを指さした。高さは校舎の二階とほぼ同じ。中学校の同級生たちは大雪の翌日には校舎の三階からチャレンジしたりしてたのだから、全然、不可能ではない。


だが、正直怖い。だから僕は言った。

「いや、無理だって」

「えー!絶対いけるって!」

さも心外だというように拒否の表情をする雪さん。僕は首根っこを掴まれながら体育館の隅のギャラリーにつながる梯子へと連れていかれた。


逃がさないと言わんばかりに雪さんは先に僕を梯子に昇らせる。ギャラリーの窓を開けて下を覗いてみると、高さはほんの3メートルほど。

「全然、いけるじゃん!」

雪さんははしゃぎながら僕の方に顔を向ける。ほらほら見てみなよ。雪さんの声に促されて僕も下を覗いてみた。正直、無理じゃないなと僕自身も思った。別に雪が無くても行けると思ったくらいだ。

でも僕のモットーは「君子危うきに近寄らず」なのだ。ちょっとでも危険を感じたなら、三十六計逃げるにしかずだ。

「いやいや、危ないって」

僕の台詞に雪さんは白い眼を向けてくる。その目が何よりも雄弁に物語っていた。逃げるな臆病者。


「えー、やっぱりやめようよ」

僕の泣き言をしり目に雪さんは既に窓のサッシの上に身を乗せて、クラウチングスタートみたいな姿勢を取った。スカートがすっかりめくれあがっていた。だが見えるのは紺のジャージしかなくてすごく残念だった。

「えい」

そんな軽い掛け声で雪さんは宙に身を投げ出した。そしてほんの数瞬の後、下の方からケラケラという笑い声が聞こえた。

「見て見て!」

彼女は雪面に起き上がって、雪の上に出来た自分の体の形の凹みを指さしていた。それは見事な大の字だった。

「はやくおいでよー」

雪さんが飛んだ窓の隣の窓、そこに身を乗り出す。三メーター下には雪さんの笑顔。さすがに引くに引けなかった。三メータくらいなら雪が無くても行ける。僕は諦めて雪さんに促されるまま宙に身を投げ出した。


それはほんの一瞬のことだった。下りのジェットコースターのような浮遊感。肌を切る空気の感触。雪さんと同様に雪面に綺麗な大の字が描けるように両手を広げて大股を広げる。

そしてすぐさま柔らかい雪に突入。減速。

視界は真っ白で何も見えない。

ぶはあ!と水面で空気を求めるかのように顔を上げる。すると真っ先に目に入ったのは雪さんが楽しそうに拍手する姿。

「ね!面白いでしょ!」

そう言うと雪面に下半身をめり込ませたまま、体育館の裏口の方に向かおうとする。下半身を雪に埋もれさせながら歩く姿は雪山登頂隊みたいだった。

「もう一回行こうよ!」

「え!」

「いいじゃん。行こうよ」

彼女は僕に手を差し伸べる。僕は逡巡したのち、彼女の手を握った。

「うわ!あったか!あんたの手、やたら温かくない?」

「運動して熱くなったのかも」僕は笑う。

「珍しいことしたから興奮したのかもね」

僕は同意の意味で頷いた。


そんな昇っては降りてを数回繰り返した後のことだ。体育館の裏には僕と雪さんが作った様々な体勢の雪の穴が出来上がっていた。

「次さ、宙返りとかやってみようよ?」

「僕はできないよ」

彼女の無茶な提案を僕は即座に却下した。

「つまんなくない?」

「もう十分、楽しんだでしょ?」

あたりは段々暗くなってきていた。さすがにもうそろそろ帰らなくてはいけない。特に彼女は市外から電車で通っているのだから、あまり遅くなるのはまずいだろう。

「これで最後?」彼女は不満げな声をあげた。「じゃあ、宙返りは無しとして、一番きれいに跡を作れた方の勝ちね」

「了解」

そう言うと雪さんは「わー」と軽い声をあげながら窓から雪の上へ飛び込む。もうすっかり慣れたもので雪の上には見事な大の字の跡。体を起こした時に雪が崩れないように配慮するところまで完璧だった。


次は僕の番だ。さてどうしよう?

今まで何回か繰り返してきた中で、色んなポーズは試してきた。大の字、I の字。Sの字なんかもやってみた。何も思いつかなかったのでいっそどれだけ遠くまで飛べるかをやってみようと思った。


窓のサッシに足をかける。両手も横のサッシを掴み準備は完了。ブランコみたいに十分反動をつけ、両手と足の力でジャンプ!


宙を舞った僕の視界には奇しくも体育館の裏の大きな樹が目に入った。告白のメッカだ。なんで僕はこんなことをしているんだろう。元々は雪さんが告白されるところをたまたま見てしまったところから始まった。雪さんに呼び出されて一緒に遊んで、今、こんな場違いな場所で宙を飛んでいるなんて。今日の思い出が走馬灯のようによぎった。そして。


雪の上に着地。と、右足のすねに走る激痛。思わず、悲鳴のような声が喉から湧き上がる。


一体、何が起きたのか全く見当がつかなかった。雪の上でもがきながら右足の付近を確かめる。するとそこにあったのは一本の金杭。そういえば、去年の秋、裏庭の樹の付近を工事するとかで紐が張られていた。もしかして、そのときに使われていた杭なのか?雪に埋もれて見えなくなっていた金杭にしたたかに自分の足を打ち付けたようだった。


彼女が驚きながら僕の傍によってきて、状況を確認した。彼女は「先生を呼んでくるからちょっと待ってて」と雪を掻き分けて走り出した。僕は先生が来るまでの間、雪の中で苦痛の声を漏らしていた。


その後のことは、あまり記憶にない。先生たちに抱きかかえられ体育館に戻されると、そのうち遠くの方から救急車の音が聞こえてきた。僕はやってきた救急隊の人たちにかかえられて救急車に載せられた。救急隊の人がどこかに電話を掛けた後、僕は近くの病院に連れられて行った。


怖くて自分の右足がどうなっているのか、結局、見ることができなかった。今思えば、勿体ないことをしたのかもしれない。折角の経験だったのに。自分の目で怪我の状況を確認することはできなかったけど、「複雑骨折」という言葉が救急隊員の口から聞こえた。


病院に着くと、僕は少し待機させられた後、すぐに手術室に通された。手術が必要らしい。

手術室で足に部分麻酔を打たれた。右足が視界に入らないように、僕と患部の間に幕が通された。不思議なことに麻酔が効いているはずなのに、僕の右足に何か器具が当たって何かされている感触が伝わってきた。僕はもう眠ってしまおうと思い、瞳を閉じた。

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